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妻を屈服させ、怖がらせよと聖書に書いてある

2022年8月21日(日)徳島北教会 主日礼拝 説き明かし
エフェソの信徒への手紙5章21節−6章4節(妻と夫、子と親についての教え):新約聖書・新共同訳p.358-359、聖書協会共同訳p.351)
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最後に動画へのリンクもあります。「読むより聴くほうがいい」という方は、そちらもどうぞ。

▼聖書日課

 皆さん、おはようございます。今日は久しぶりに私自身徳島北教会に現れて、礼拝堂で礼拝ができますことを心から喜んでいます。けれども、コロナに対する不安やその他の諸事情で会堂に集うことのできない方もおられます。しかし、いつものようにハイブリッド礼拝ということで、画面越しでも礼拝にご参加いただけることをありがたいと思っております。今日の説き明かしと分かち合いもどうぞよろしくお願いいたします。

 さて、皆さんは「聖書日課」というものをご存知でしょうか。
 具体的には『日毎の糧』という冊子で、副題が「主日聖書日課・家庭礼拝暦」とついています。私、これをKindleで買っておりますので、皆さんに実物をお見せできないのですけれども、そういうのが330円、Kindleだったらちょっとだけ安くて314円で変えます。
 この『日毎の糧』という冊子は何かと言いますと、家庭礼拝に使えるように、毎日「ここの聖書の箇所を読んでくださいね」というのが書いてあるんですね。毎日の聖書の箇所が書いてあって、日曜日ごとにも指定があります。ですから、毎日聖書を読んで、家で礼拝を捧げますという方には大変便利なガイドブックなんですね。そして、特にその聖書の箇所についての解説もついてません。何々という本の何章何節というのだけが書いてありますから、先入観なく聖書を読む助けになります。
 ところが、実は私、この聖書日課に従って日曜日の礼拝の箇所を引用したことがほとんどありません。
 ほとんどというか、今日で2回めです。
 これまでキリスト教学校で働きはじめてから25年、こちら徳島北教会でコンスタントに説き明かしを担当するようになってから10年、一度も聖書日課に従ったことはありませんでした。
 聖書日課を使った1回目は今年の5月1日に伊丹教会で説教をさせていただいた時。聖書日課に従ってくださいと言われたので、それが生まれて初めてです。そして今日が生まれて2回目です。何かに縛られるのが嫌いな性格上、自分で選ぶのが習い性になっていたんですね。
 牧師さんの中には「説教は聖書日課に従わないとダメなんだ」と断固として主張する方もいらっしゃるんですけれども、そういう態度を取る牧師がいると、反抗的な私は「それじゃあ俺は従わない」と決めているところもありました。
 ただ、このやり方をしていると、どうしても読む聖書の箇所が偏ってきます。自分のお気に入りの聖句や得意な箇所ばかり選んでしまうようになる。そして、苦手な箇所は敬遠するようになります。そうなるとどうしてもバリエーションが少なくなってしまいます。
 最近はSNSやYouTubeを通して、他の牧師のお話も拝聴することができますけれども、それを通して、私の知人の牧師たちの多くが、意外と真面目に聖書日課に従って説教を作っていることに気づいたんですね。
 そこで、近年多少は性格が丸くなった私も、「そう反抗ばかりしていないで、たまには聖書日課を参考にしてみるか」という気になりまして、今日は人生2回目の聖書日課からの引用です。
 ところが、今日は「よりによって、ここかよ」と思うような聖書箇所でした。聖書日課に従ってゆくと、こういうことは当然起こりますよね。私としては、聖書にツッコミを入れながら読むという性質もあるので、聖書を批判しながら読むことはしょっちゅうありますけれども、今日もどうやらそういうことになりそうです。

▼キリスト者の生き方の基礎

 今日の聖書、エフェソの信徒への手紙5章の21節から6章の4節は、妻と夫、そして子どもたちのあり方について教えているところです。
 このエフェソの信徒への手紙というのは、パウロという人が書いたように装っていますけれども、実はパウロ自身の書いた手紙ではなく、パウロの名を語った別の人が書いたものだとされています。
 しかし、この手紙に書かれていることは、多くのキリスト者の信仰の基礎を形作っている言葉がいくつも散りばめられています。
 たとえば、2章14節以降……「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意をいう隔ての壁を取り壊し、規則と戒律づくめの律法を廃棄されました」(エフェソ2.14−15)とか。
 あるいは3章17節以降……「信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように」(エフェソ3.17−19)とか。
 私はこの「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ」という言葉が大好きなんですね。これは同志社の創立者新島襄が、臨終の床で教え子に朗読してくれを頼んだ聖書の箇所でもあります。
 あるいは4章2節以降……「一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。主は一人、信仰は一つ、バプテスマは一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます」(エフェソ4.2−6)とか。
 他にも、「偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい」(4.25)や、「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい」(4.32)など、キリスト者の生き方の核になっている言葉が、このエフェソの信徒への手紙にはいくつも記されています。

▼妻は夫に屈服しなさい

 その流れで行くと、今日の聖書の箇所も一見平凡な家庭訓に見えるかもしれません。「キリストに仕えるように、お互いに仕えなさい。そして、妻は主に仕えるように夫に仕えなさい。夫は妻を愛しなさい。子どもは良心に従いなさい。両親はしっかり子どもをしつけなさい」。
 6章1節から4節までの子どもに対する勧めについては、現在の私達にとって、そんなに違和感なく受け入れられるものかもしれません。
 「父と母を敬いなさい」という十戒の言葉が引用されていますけれども、何が何でも両親の言うことに服従しなさいということを強調しているのでなく、両親の方にも子どもに対しての義務が告げられています。
 「子どもを怒らせてはならない」というのは、子どもが怒らせないようにご機嫌をとりなさいという意味ではなく、暴力的なしつけをして子どもがぎゃあぎゃあ大騒ぎしないように、賢く導きなさいということを言っているんですね。
 これに対して、難しいのは前半部分の5章21節以降の夫婦についての教えですね。今の日本でも、「妻は夫に従いなさい」と書かれているだけで、「なんで夫婦が主従関係にならなきゃいけないんだ」という批判が殺到しそうです。
 しかし、ここで書かれているのは、もっときつい言葉で、「妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい」(エフェソ5.22)の「仕えなさい」というのは「屈服しなさい」という風に訳したらいいような言葉なんですね。研究者によっては、軍隊や奴隷制における服従という意味も含んでいるといいます。
 「せいぜい妻は夫の言うことは聞いておきなさいよ」という意味なら、「はいはい」と受け流すこともできる人もいそうな気もしますが、「奴隷のように屈従しなさい」とまで言われてしまうと、この言葉通りに生きることには疑問を感じてしまいますよね。
 また、33節では「妻を自分のように愛しなさい。妻は夫を敬いなさい。」という言葉で、この夫婦に関する教えがしめくくられていますけれども、この「妻は夫を敬いなさい」も、「恐れなさい」、「怖がりなさい」というニュアンスの言葉であるんですよね。そうなってくると、これはいわゆる今の言葉で言うところの「DV(ドメスティック・バイオレンス)」あるいは「家庭内暴力」と言った言葉がチラつく世界に入り込んでゆきます。
 これをそのままに受け取るということが私達にできるかということなんですね。

▼聖書を「字義通りに」読む

 ある保守的な本には、この聖書の箇所の解釈について、面白いことが書いてありました。「妻は夫に従いなさい」という言葉をどう解釈するかですが、たとえばこんな風に書いてあります。
 「ある奥さんがご主人に聞きました。『あなた、従うってどういうこと。』夫は答えました。『ひとかけらの抵抗もないことだ』と。これが本当の従い方です」(柿谷正期『しあわせな夫婦になるために』いのちのことば社、1993、p.30)。
 この本は面白いですよ。具体例としては、たとえば夫が「仕事をやめなさい」というと妻はやめないといけないそうです(p.31)。その場合、どんなに生活が困窮しようとも、子どもが三食満足に食べられないようになっても、妻は働いてはいけないそうです。その結果、子どもがいくつもきついバイトをすることもやむを得ないということになるそうです。
 あるいは、民主主義においては、夫と妻にはそれぞれ1票ずつの権利があるが、夫のほうに議長権があるので、実質的には2票持っているのと同じだとか(p.31)。
 あるいは、台所の壁紙を夫がピンク、妻がグリーンにしたいと思った場合、賢明な夫はグリーンにするだろうと。しかし、賢明でない夫は自分の意志を通してピンクにするだろう。ではその場合、妻に求められていることは何か。それはピンクを自分で選んだかのように喜ぶことだということになるようです(p.31-32)。
 主人がどんなに横暴でも涙を流しながら服従しなさいとか(p.33)、夫がどんなに敬えないような人間でも、意志の力で敬っているうちに、次第にその気持ちが通じて、夫も変わるでしょうとも書いてあります(p.36)。まあ、男性には非常に都合のいい、ありがたいものの考え方になっていますね。

▼聖書と人間中心主義

 ある保守的なクリスチャンの方からよく聞く言葉に「リベラルは聖書よりもヒューマニズムを上にしている」というものがあります。ヒューマニズム、つまり人間中心主義を聖書より優先してはいけないと言うのですね。聖書にどんなに横暴なことが書いてあったとしても、それを守らなくてはいけないという考え方です。
 しかし、実はヒューマニズム/人間中心主義も実はキリスト教の伝統の中で出てきたものなんですね。そして、その人間中心主義のおおもとにあるのが、実はイエスという方です。なぜならイエスは、人間の命と尊厳を守るためなら、その当時神に与えられた掟である、「律法」という旧約聖書に書かれた戒律を破ることも辞さなかったからです。
 たとえば、一切仕事をしてはならないという週1回の安息日の掟を破ったときに、「安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」と言ったというエピソードはよく知られていますよね(マルコ2.27ほか)。安息日に病気の人を癒して、「安息日に許されているのは人の命を救うことか、それとも殺すことか」と喝破したことも伝えられています(マルコ3.4ほか)。
 ですから、書いてあることを人間よりも優先するというのは、イエスの目指した方向とはちょっと違うんじゃないかと思いますね。
 じゃあイエスが、書かれた掟をまるっきり無視した行動をとっていたのかというと、そういうわけでもありません。律法に書かれた精神を更に突き詰めるとどうなるか、という問いかけも彼は行いました。
 たとえば、「昔の人は、『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、私は言っておく。きょうだいに腹を立てる者は誰でも裁きを受ける。きょうだいに『馬鹿』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、地獄の火に投げ込まれる」という言葉は、律法に反しているのではなくて、そこにある根本的な精神、「人に憎まないようにしろ。敵意を持たないようにしろ」という姿勢を、かなり大げさに強調して言ったと考えられるんですね(マタイ5.21-22)。
 つまり一言でいうと、イエスにとって一番大事なことは、人間が大切にされるということであり、人間を大切にできなかったら、そんな信仰に意味はない。信仰のために人間がダメになってしまっては何の意味もないのであって、人間を生かすために信仰がある。それをイエスはやってみせたわけです。

▼スキャンダラスな愛し方

 翻って今日の聖書の箇所を改めて見て考えると、こうも思えるんですね……「この聖句を書いた人も、ひょっとしたら悪気があって書いたわけじゃないんじゃないか」。ひょっとしたら、この人なりにもっと人間を大切にするような生き方を求めて、つまりイエスのあとに続いて人に大切なことを伝えようとしていたのかもしれません。
 と言いますのも、ここには何度も、夫である男性に対して、「妻を愛しなさい」と書いてありますね。28節には「自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は自分自身を愛しているのです」とまで書かれています(エフェソ5.28)。
 ここで「愛しなさい」と訳されているのは、原語では「アガパオ―」つまり「アガペー」を動詞にしたものです。
 ひょっとしたらの話ですけれども、この時代・この社会において、妻を「アガペー」の愛で「自分の体のように愛する」なんてことは考えられないようなことだったかもしれない。
 これは古代ローマの性に関する文化の研究からわかってきたことですけれども、当時の男女関係というのは、基本的に男性が女性を屈服させる、支配するということが基本になっていて、その権威の関係を性行為で表すという、そういう文化だったようなんですね。男女の関係というのはそういうものであったと。
 そんな世の中にあって、妻を「アガペー」で愛する。アガペーというのは、自分のことを置いてでも相手のことを大切にする深い愛情のことです。そんな愛し方をする事自体、その時代の周囲の人達にとっては、スキャンダラスなことだったかもしれません。
 妻を「アガペー」で愛する。自分の体のように愛するなんて、「えーっ! そんな恥ずかしいことをできるか!」と当時の男達がドン引きするような。そんなことをこの手紙の作者は言っていたのかもしれない。「そんな恥ずべきことが男たる俺にできるか!」、「いや、でも愛しなさい。自分自身の体のように愛しなさい」と説く。それ自体が挑戦であったと。
 「妻たちよ、夫に屈服しなさい。夫を恐れなさい」と言う。そこは時代の限界があった。しかしこの手紙の作者は夫たちに(それまで当たり前だと思われていた妻への扱い方ではなく)「アガペー」で愛しなさい。自分自身のように愛しなさいと訴えた。これが当時としては革命的だったのではないでしょうか。
 もしそうだったとしたら、私達はこの手紙の言葉を、書かれたとおりに金科玉条のように受け取るのではなく、この手紙が目指そうとした愛の結びつきを、さらに推し進めてゆくというのが、この手紙の作者の本望だったと言えるのではないでしょうか。
 イエスに始まったヒューマニズム的なもの、すなわち人間を大切にするこの態度は、このような手紙の中で、イエスほど徹底してはいないながらも推し進められ、我々は我々で更にそれを推し進めてゆく。そのように聖書を読みたいと思うのですが、いかがでしょうか。
 祈ります。

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