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はたらく、つかれる、いたわる、ねぎらう

2023年8月27日(日)徳島北教会 主日礼拝 説き明かし
マタイによる福音書11章28−30節(新約聖書・新共同訳 p.21、聖書協会共同訳 p.20)
有料記事設定となっておりますが、無料で最後までお読みいただけます。有志のお方のご献金をいただければ、大変ありがたく存じます。
最後に動画へのリンクもあります。「読むより聴くほうがいい」という方は、そちらもどうぞ。


▼マタイによる福音書11章28−30節

 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。(新共同訳)

 すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。私は柔和で心のへりくだった者だから、私の軛を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に安らぎが得られる。私の軛は負いやすく、私の荷は軽いからである。(聖書協会共同訳)

▼「いたわる」ことが命を奪う

 みなさん、おはようございます。
 先週は入院することになって説き明かしの当番を外していただき、今週は昨日が夕涼み会ということで、子どもの夕涼み会の後に行われる大人の夕涼み会に参加したいばっかりに、本来は来週のはずの当番を早めていただいたりで、わがままし放題、申し訳ありませんでした。
 また、入院中は皆さんにお祈りいただき、本当にありがとうございました、おかげさまで元気に帰ってまいりました。昨日病院で「もう来なくてよろしい」と言われまして、「もうここに来るな」と言われるのが嬉しい時もあるのだなと思いながら帰ってきました。

 さて、今日の説き明かしに入りたいと思います。今日のお話のタイトルは「はたらく、つかれる、いたわる、ねぎらう」としました。
 すぐにお気づきの方はいらっしゃると思いますが、これは全部「労働」の「労」という字で書ける言葉です。
 「いたわる」「ねぎらう」と読むのはご存知の方も多かったのではないかと思いますけれども、古い訓読みでは「はたらく」も「つかれる」も「労」の字で書けるんですね。
 私自身がこの4つの読み方がこの「労」という字にあることを知ったのは、部落解放同盟の水平社宣言からなんです。水平社宣言の終盤にこういう言葉があります。
 「かならず単屈なる言葉と怯懦(きょうだ:臆病なこと)なる行為によつて、祖先を辱しめ、人間を冒涜してはならぬ。そうして人の世の冷
たさが、何んなに冷たいか、人間を勦る(いたはる)事が何であるかをよく知ってゐる吾々は、心から人生の熱と光を願求禮讃(がんぐらいさん)するものである」という言葉があるんですね。
 この中の「人間をいたわる」という言葉は、いい意味では使われていません。そもそも「労働」の「労」とは違う、もうちょっと難しい「勦」(音読みでは「ショウ」または「ソウ」と読む)漢字が当て字として使われているんですね。「奪い取る」とか「殺す」という意味の漢字です。
 本当なら「労働」の「労」の字で言えばいいところを、わざわざ「奪い取る」とか「殺す」という意味の漢字を当て字にして置き換えてるんですね。
 「人の世の冷たさがどんなに冷たいか。人間を勦ることが何であるかをよく知っている」。
 なんでこういう漢字をわざわざ当てはめているかというと、「部落民をいたわろうとする意識の中には、部落民を卑下する見方がある」という考え方から、そのいたわりは部落民の人間としての誇りを奪い取り、命を奪うことにつながるのだという意味で、そういう意味の漢字が使われているということです。
 この「いたわる」というのは、本来の意味とは違う当て字をあてはめているということから、逆に私は「いたわる」というのが、本来はどんな漢字なのかなと探したら「労」の字であることを知ったというわけです。
 今日は「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」という聖書の箇所を選びました。イエス様がこの世で「はたらき」、「つかれ」ている人を、「いたわり」、「ねぎらって」くださるのであろうことを述べている聖句ではありますけれども、この言葉が本当に私たちのためになるのだろうか、という問いかけのお話をしてみたいと思います。

▼休ませるイエス

 まず、本日の聖書の箇所の最初には、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」とあります(マタイ11.28)。
 この「疲れた者」ですけれども、これは確かに「疲れている」でいいんですけれども、もっと強く、「疲れ果てて嫌になってしまっている」くらいの状態を指しています。これはまさに「労働」の「労」、それもきつい労働で骨折って働いて、肉体的にも精神的にもほとほとまいってしまっているという状況のことを指しています。
 「重荷を負う者」というのも、自分の意志で重い荷物を負っているというよりも、「重荷を背負わされている」というニュアンスがあると解説している学者がいます。
 つまり、ここで言われているのは、自分で喜んでやりがいをもってやっている仕事ではなくて、雇われ人がきつい労働で苦労し、疲れ切っているというイメージですね。奴隷労働のような状態。そんな疲れ切った人に、イエスは「私のところに来なさい。私が休ませてあげる。私が元気づけてあげよう」と言ってくださっているんですね。

▼低められた者の軛

 続いて、「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」という言葉が続きます(29−30節)。
 「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」……この「柔和で謙遜」という言葉、特に「謙遜」と訳されている部分は直訳すると「心の低い(者)」ということになります。
 この言葉には、「しもべのようになる。抑圧された者のようになる。へりくだる」という意味がある。だから、これは世の中で身分の低い、みすぼらしい者、取るに足らない者とされた者のようになっているという意味です。
 この意味を受けて、本田哲郎さんという、大阪の釜ヶ崎で奉仕しておられる神父はと「わたしは抑圧にめげない優しさを持つ者、心底身分の低い者」という風に訳しています。
 そしてイエスは、「自分はそのような低められた小さな存在なのだから、私の軛(くびき)を負い、私に学べ」と言っています。
 軛というのは、牛や馬に車を引かせるために、首につける横木ですね。日本語ではそこから転じて「自由を束縛するもの」という意味にもなります。イエスが言っている軛も、そのような意味が込められているのでしょうか。
 しかし、続いてイエスは「あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」とも言っています(29−30節)。
 文脈から言うと、世の中の理不尽な労働における軛は重く厳しいけれども、イエスの軛は軽い、イエスの荷物は軽いということになりますよね。そんなイエスの軛を負う。そしてイエスに学べ、と。
 ここを本田神父は「わたしを見習いなさい」と訳しています。そうなると、「俺は低められた者のように、取るに足らない者のようになった者だ。だからこそ、そんな俺を見習え」と言っていることになりますね。低く小さくされた者として生きる生き方を俺に学べ。そうすれば、お前たちは休めるぞ。ほっとできるぞ」と言う。
 「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」。「負いやすい」とあるが、これは「心地よい」という感じ。「荷は軽い」というのも「軽微で、言うに足らない」というような感じです。イエスと共に生きるということは、本当に軽々としていて心地よいものなんだという感覚を表しています。
 「楽ちんに生きたらええやんか」。この世の労働は苦しい。しんどいけれども、俺のところに来い。俺と一緒なら楽に生きられるぞ。俺がお前たちに求めていることなんて、軽々としたものなのさ、とイエスは言っているのではないでしょうか。
 まさに、「労」という感じの訓読みにあるように、我々は「はたらく」そして「つかれる」しかしイエスは「いたわる」、「ねぎらう」ということなのかも知れません。

▼癒やしと軛の往復

 しかしながら、私たちは本当にイエスを信じれば、日々の生活が楽になるのでしょうか。実際に自分たちが負っている重荷が軽くなり、生きることが楽ちんになるのでしょうか。
 世の中には色々なクリスチャンがいて、例えば「イエスさまを信じれば、全ての悩みがなくなり、全てのことに感謝できるようになり、生きることが喜びで満たされる!」と言う人もいます。最近私はそういうことを嬉しそうにまくしたてているYouTuberの動画を見て、複雑な気分になりました。
 私はイエスさまのことを信じていますし、神さまのことも信じていますけれども、それがそのまま日々の生活が楽になることには直結しているとは実感していません。
 もちろん、日々の苦労が信仰によって癒やされるということは体験しています。まさにイエスは私の苦労を「いたわり」「ねぎらって」くださいます。なせなら、イエスさまほど私の苦労をわかってくださる方はいないだろうというのが私の今の信仰の形だからです。
 イエスの軛は軽いと今日の聖句には書いてありますけれども、イエス自身はものすごく重い軛を背負った方です。人を救ったけれども自分を救うことはできず、多くの人に罵られ、これ以上ないほどの苦しみだと言われる十字架刑に処せられて、この世の人の誰よりも大きな苦しみを味わった人です。そういう人なら、自分の苦しみはきっとわかってくださるに違いない。イエス自身が負った軛に比べたら、自分の軛なんて小さいもんだと思える。だから、イエスを心に抱くということが、自分を支える助けになっていることは事実です。
 けれども、だからといって、私たちはこの世の厳しい現実から逃げ切ることはできません。一旦はイエスさまによって癒やしを与えられても、また現実の厳しさの中に戻ってゆかなくてはなりません。この行ったり来たりの人生を歩むというのが私たちの人生の実態なのかも知れません。
 ですから、「イエスを信じたら全てが万事解決、ひゃっはー」というのは、どうも嘘のような気がするんですね。そうではなくて、嫌になるほど疲れ切って、そしてイエス様にいたわってもらって、そしてまた日々の苦労の中に、何とかイエス様への信頼に支えられてやっていく、というのが現実なんではないかと思うんですね。

▼そして果たして「いたわる」こととは?

 そして、一番最初にお話しました、水平社宣言の「勦る」も、もう一度思い出してみたいと思います。水平社宣言の言うところの意味で「いたわる」という言葉をとらえ直すならば、「いたわる」ということは、かえってその人をダメにしてしまうことなのだという考え方もあるのですね。
 ですから、あるいは、あえて自分をダメにしてしまうような「いたわり」を断って、この世の戦いに挑み続ける人生というのもあり得ると思います。
 皆さんは、どのようにお考えになりますでしょうか?
 イエスさまにいたわっていただくことで、十分自分は癒やされて、毎日の問題は全面的に解決できるのだという信仰もあるでしょう。
 また、イエスさまにしばしば癒やしていただきながら、しかし、それだけでは解決しない現実の問題に立ち向かってゆくしかない。しかし、イエスさまという帰る場所はある、という人生もある。これは私自身の今の状況に近いです。
 そして、「いたわり」「ねぎらい」なんてものは、かえって自分をダメにしてしまうから、そんなものは要らない。絶えず厳しい現実と戦い続けるのみだ、という人生観もあるでしょう。
 その他にも様々な人生観、信仰理解があると思います。皆さんはどのように自分のあり方を捉えていらっしゃいますでしょうか。どのようなあり方も神さまは認めてくださっていると思いますが、この先は皆さんご自身で分かち合っていただければと思います。
 祈りましょう。


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