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病気が治ることと治らないこと|イエスの癒しに思うこと

 新約聖書の中には、イエス・キリストが色々な人の病気や障がいを癒して回った話がたくさん収められている。

 だが、ぼくの知る限りの牧師たちは(といっても、ほんのひと握りのリベラルなクリスチャンだけれども)、「治ることが救いだというわけではない」、「治ることが大事だと言うわけではない」と説く人がいる。それにぼくは若干違和感を覚える。

 もちろん、治る治らないを超えて、病気や障がいのあるままで、いわゆる「助ける人」「助けられる人」といった一方通行の、いわば分断された関係を超えて、「共に生きる」。それを実現している人がいることは素晴らしいことだ。

 ただ、悲しいかな大多数の一般庶民は、たとえば自分が病気だったりすると、正直「治りたい」と思うものなのではないか。福音書にこれだけイエスが人を癒したり、治したりしたということをしつこいほど書いてあるということは、それだけ読者に「治りたい」、「治してほしい」と渇望していた証拠ではないのか。

 現代のクリスチャンが「治ることが大事なことではない」と言わずにはおれないことも理解できる。だって、本当に今のこの世で奇跡なんか起こらないのだから。治らないものは治らない。奇跡的に治るなんてことを起点に考えるわけにはいかない。そんなものは無意味な妄想であり、そんなことが起こる期待を持たせる方が酷ではないのか。

しかし、人間はそういうものではないのではないかと思う。「治りたい」「治したい」という思いは否定できない。死ぬ瞬間までは生きているのだ。苦痛からは逃れたい。苦しみと共に生きる、という達観した境地にはなかなか凡人には到達できない。

イエスは癒して回ったと描かれている。イエスが本当にその力を行使できたかはわからない。ただ、はっきりしているのは、聖書を書いた人々は「治る」ということがとても大事だと考えていたことだ。イエスはそんな私たちの当然の願いに応えてくれると、人々は信じたのだ。

そしてイエスは、最期は「治らない」現実に向き合わざるを得ない私たちを、共にその苦しみを担うというやり方で慰めてくれる。「治る」ことへの希望を肯定し、「治らない」現実に同伴する。それがイエスの癒しである。


 

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