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愛には実践が伴わなくてもいいか

2023年6月25日(日)枚方くずは教会主日礼拝 宣教
ガラテヤの信徒への手紙5章6節(新約聖書・新共同訳 p.349、聖書協会共同訳 p.342)
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▼ガラテヤの信徒への手紙5章6節

 キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。(新共同訳)

 キリスト・イエスにあっては、割礼の有無は問題ではなく、愛によって働く信仰こそが大事なのです。(聖書協会共同訳)

▼パウロという人がおりました

 およそ2000年前のローマ帝国の東半分の地域に、旅をしながらキリスト教を宣べ伝えていた、パウロという人がおりました。
 パウロは熱心なユダヤ教の律法学者で、最初はキリスト教を迫害し、キリスト者を投獄したり殺害したりしていましたが、ある時、十字架につけられたイエスの幻を見て、自分が何という罪深いことをしてきたのかを悟り、悔い改めて自らキリスト者になりました。
 キリスト者になってからは、彼は一般信徒としてではなく、「自分も『使徒』である」すなわち、イエスの直接の弟子なのだと(直接生前のイエスに会ったことがあるわけでもないのに)言い張って、キリスト教を宣べ伝える役割を果たすことになりました。
 しかし、もともとはキリスト者を殺しまくっていた人ですから、教会の人たちからは怖がられ、信用されなかったと思います。それでも、彼は自分が見た十字架のイエスは本物であるという確信から、信仰を宣べ伝えることをやめませんでした。
 彼の伝道のもっぱらの対象は、エルサレムの都から遠く離れて、ローマ帝国のあちこち、主に地中海の沿岸周辺で生活しているディアスポラのユダヤ人。また、ギリシア人、ローマ人も宣教の対象でした。
 ディアスポラというのはギリシア語で「撒き散らされた種」という意味で、ユダヤ人にとっての都であり聖地であるユダヤ地方のエルサレムから離れて、あちこちに点在しているユダヤ人コミュニティのことです。パウロ自身もディアスポラ出身で、ユダヤ人特有の言葉であるヘブライ語より、ギリシア語の方が母語であるような人でした。
 ですからパウロは、エルサレムのヘブライ語を話すユダヤ人キリスト者の間で働くことはせず、自分が育ったディアスポラのユダヤ人や、異邦人と呼ばれていたローマ帝国のいろいろな地方の民族に、ギリシア語でキリスト教を伝える働きをしたのでした。
 もっとも、そういう言葉や生活習慣、文化の違いだけではなく、そもそもエルサレムにはパウロの過去を知りすぎていた人たちもいたでしょうから、エルサレムのキリスト者たちもパウロを怖がったでしょうし、ユダヤ教徒からは裏切り者として命を狙われる可能性も十分あったでしょうね。
 ですから、パウロがエルサレムから遠く離れたあちこちの地方を旅をしながら宣教していったのは、ある意味自然なことだったかもしれません。

▼割礼が必要かそうでないか

 ディアスポラや異邦人相手の伝道は、ユダヤ人の文化や風習には全く束縛されない、誰に対しても注がれるキリストの愛を伝えようとするものでした。パウロの伝えようとしていたキリスト教は、ひとつの民族の文化にはとらわれない、自由なものであったと思われます。
 しかし一方で、エルサレムに本拠地を置く、12人の使徒たち(こちらは本当に生前のイエスと行動を共にしていた直弟子たちですけれども)は、自分たちがユダヤ教から分離した新しい宗教を始めたとは思ってなかったんですね。ユダヤ人である自分たちの救いが、予想していたのとは違っていたけれども、イエスによって成就したと信じるようになっただけで、その救いは基本的にはユダヤ人のものだと思っていたわけです。
 ですから、キリスト教が生まれる以前からも、異邦人(外国人)からユダヤ教への改宗者はいましたけれど、このいわば「イエス派」とでも呼ぶべき運動に加わるのは、彼らにとってみれば、ユダヤ教イエス派に入るだけであって、要するにユダヤ教への改宗だったわけです。
 ユダヤ教に改宗するには、男性は割礼というものを受けないといけません。割礼というのは、男性器の皮の一部を切り取る手術で、ユダヤ人の男の子は、生まれて8日後にこの割礼を行います。ですから、ユダヤ人の男性は自分が割礼を受けた痛みなんか記憶にありません。物心ついたらみんな「俺たち割礼してもらってるよな」というわけです。
 エルサレムのキリスト者たちは、イエス派の運動に加わるのはユダヤ教への改宗に他ならないので、ユダヤ人以外の人たちがキリスト教に改宗しようとすると、「割礼しなければならない」となるわけです。大人が割礼の手術を受けるとなると、昔のことですから十分な麻酔の技術はありませんし、これは一大事なわけです。
 パウロは、キリスト教はユダヤ教という枠を超えたものだと思っていましたから、割礼なんか必要ないと思っていました。しかし、エルサレムの12使徒の教会は(こっちが本家だと思っていたんでしょうけれども)、「割礼は必要だ、ユダヤ人が食べてはならないことになってる食物も食べるな」と要求するわけです。
 そこで、ディアスポラや異邦人のキリスト者(つまりギリシア語を話すキリスト者)と、エルサレムのキリスト者(ユダヤの言葉であるヘブライ語を話すキリスト者)との間で対立が起こったわけです。
 今日の聖書の箇所はそんな論争の中で、パウロが書いた手紙の言葉です。
 「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です」(ガラテヤ5.6)

▼愛の実践が必要だ

 前置きが長くなりましたが、今日は、この「愛の実践を伴う信仰こそ大切です」という言葉がメインテーマです。
 「愛の実践を伴う信仰」……。
 これは新共同訳の翻訳ですが、新しい聖書協会共同訳では、「愛によって働く信仰こそが大事なのです」となっています。こちらも「愛によって働く信仰」という訳し方になっていて、やはり信仰というのは働くものでないといけないのかと思われます。
 しかし、最初に読んだ新共同訳のほうが、やや衝撃が強いですよね。
 「愛の実践を伴う信仰」というものが大切なんだと……。
 この言葉に戸惑ったり、気後れしたりする人もいるのではないかと思います。
 信仰には愛の実践が伴わなくてはいけないのだろうか。実践する力やスキルが必要なのだろうか。ただ信じているだけではダメなのだろうか。
 パウロ自身、別の手紙の中では、「人は心で信じて義とされ(つまり、おまえはそれでいい、と認められ)、口で告白して救われる」と書いています(ローマ10.10)。
 「信仰義認」という言葉をお聞きになった方もいらっしゃるのではないかと思いますが、「人は神さまやイエスさまを信じるだけで、義と認められる」という考え方のもとになっているのは、今のこの言葉です。「心で信じるだけで義とされ、口で告白するだけで救われる」。ありがたいことです。
 私たちは、何か特別な行動や奉仕活動や修行などしなくても、神さまを信じるだけで、救われる。行動が伴わなくても、関係ないんだ。
 そう思うわけです。
 しかし、ここではパウロは「愛の実践を伴う信仰こそ大切です」と書いています。
 本来は割礼についての話なので、この言葉はポッと入った何気ない言葉なんだと思います。しかし、ポッと言ってしまった言葉の中に、無意識にうちに本音が隠されているということもあり得ると思います。
 つまりパウロは、「信仰には何らかの実践の伴った愛が必要なんだ」と本心では思っていた可能性があるわけです。
 信仰には愛の実践が必要だ。やっぱり実行力の無い奴はダメなんだ。心の中で「神さま信じます」とか「愛しています」と念じているだけではダメなんだろうか……。
 教会に集まって、讃美歌歌って、聖書読んで、お祈りしているだけではダメなんだろうか。何か奉仕活動や社会運動をしなければいけないのだろうか。実践が伴っていないと、信仰は本物とは言えないのでしょうか?!

▼もっと力があれば

 信仰が本物かどうかはさておき、私たちは、自分が本当に人を愛せているかどうか、疑問に思ったりすることはないでしょうか?
 例えば、看護師さんや保育士さん、あるいは高齢者、乳幼児、障がい者の方々をお世話する福祉の仕事に携わっている方々。そして、私もその1人ですが、教師。そして牧師。
 そういう人たちは、愛を実践する仕事に従事しています。
 いや、あるいは全ての労働者は、誰か他の人のために役に立つ何かをすることで生きているのですから、すべての仕事が、実は愛の実践なのかも知れません。
 私は神学部に入って教師になる前、若い頃は営業マンをしていましたが、自分は営業を通して愛を実践すると本気で考えていました。お客様のニーズや困っていることを吸い上げ、それを自分の会社の製品で何とか問題解決できないか。もっと快適で便利にならないか。何か役に立つことはできないか、と必死に働いていました。働く動機は、お客様への愛でした。
 ですから私はそれ以来、どんな仕事でも愛の実践になり得ると思います。
 ただ、仕事にはスキルと実行力と経験が必要です。それらが無ければ、愛を実践することはできません。
 これは職業に関することだけではありません。たとえば、母親であること、父親であることについても同じことが言えると思います。良い母親であること、良い父親であることには、それやりの力量、技量が必要なんですよね。
 力の無いことや弱いことで裁かれてはなりませんが、力が必要な場面は現実にはあります。誰もが力がなくてはいけないということはありませんけれども、誰かが力を尽くさなければならないということはあるのではないでしょうか。
 そして私たちは、「もしここでもっと自分に実力があれば!」と悔しい思いをすることもあるのではないでしょうか。
 私たちは何もできなくても、神さまから愛されている。それは間違いない。しかし、「もう少し自分に技量、スキル、経験があれば、もっと人を愛することが実践できるのに!」。そうやって悔しくてたまらないと思うことが、私自身、日に何度もあります。

▼できることをやる

 では、老いや病気で弱ってしまった人は、愛を実践することはできるのでしょうか?
 私はその時、肉体的な、あるいは手先のわざや実行力だけが愛の実践だとは思いません。
 例えば、お祈りだって、立派な実践です。誰か自分以外の人のために祈ってみてください。それは愛の実践です。
 長く生きた人は長く生きただけの経験があります。その経験から、愛のある言葉を発するだけでも、それは愛の実践です。どうか愛のある言葉をかけ合いましょう。
 言葉はとても大切です。愛のある言葉をかけ合いましょう。そして、愛のある言葉で祈りましょう。それも愛の実践です。
 そして、若い人、元気な人は、可能な限り、愛を実践できるように、経験から学ぶことをやめないようにしましょう。
 自分にできることをやりましょう。できることだけしかできないのですから、できることをやりましょう。自分にはまだ伸び代がある、まだ成長する余地があると思う人は、その伸び代をより伸ばしてゆけるように努力しましょう。
 そして、じゅうぶん成長した人は、これまでの経験から出た言葉を発しましょう。言葉も出なくなった人は、沈黙の祈りを捧げましょう。
 それぞれにできることをやる。そこにパウロが口走った「愛の実践を伴う信仰」が立ち上がる土台ができるのではないでしょうか。
 祈ります。

▼祈り

 神さま。
 あなたに与えられた命を、今日もこうして生きることができますことを感謝いたします。
 また、こうして今日も礼拝を献げる群れの中に迎えていただき、ありがとうございます。
 私たちの中には強い者もおり、弱い者もおります。健康な者がいれば、病を抱えた者もおります。若い者もおり、歳を重ねた者もおります。経験の浅い者もおり、経験の深い者もおります。
 どのような者にも、その状況に応じてあなたが役割を与えてくださっていることを感謝いたします。
 どうか私たちが、良い生き方をして、あなたに与えられた命を生ききることができるように、神さまどうか私たちを強めてください。導いてください。
 我らの主、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
 


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