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生まれてこなければと思ったけれど

2024年7日28日(日)徳島北教会 主日礼拝 説き明かし
コヘレトの言葉9章7-10節(旧約聖書・新共同訳 p.新共同訳 p.1045、聖書協会共同訳 p.1030-1031)
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 さあ、喜んであなたのパンを食べ
 気持ちよくあなたの酒を飲むがよい。
 あなたの業を神は受け入れてくださる。
 どのようなときも純白の衣を着て
 頭には香油を絶やすな。
 太陽の下、与えられた空しい人生の日々
    愛する妻と共に楽しく生きるがよい。
 それが、太陽の下で労苦するあなたへの
    人生と労苦の報いなのだ。
 何によらず手をつけたことは熱心にするがよい。
 いつかは行かなければならないあの陰府には
 仕事も企ても、知恵も知識も、もうないのだ。

旧約聖書・コヘレトの言葉9章7−10節(新共同訳)

▼こんなはずじゃなかったと思う人生

 「私の人生、こんなはずじゃなかった」と言いたくなったことはありませんでしょうか。私にも何度かあります。「もうちょっとましな人生だったら」とか、「なんで自分の人生はこんな風になってしまったのだろう」とか、悔いてしまう時が何度かありました。そして、しかしそうは思っても、それが自分の人生なのだから、仕方ないと思って生きてゆくしかないのだろうと諦めて、山を乗り越えて生きてきました。
 不思議にそういう思いにかられて「死にたい」と思うことはありませんでした。いや、実際には「死にたい」と思ったことは何度もありますけれども、それは心の病気で鬱を発症した時に、症状として「死にたい」と思うことは何度もありましたけど、知識的に「これは鬱の症状だ」ということがわかっていたので、その精神状態が過ぎ去るまで待っていました。そして、だいたい本当に鬱が重い時というのは、自死に踏み切るエネルギーもパワーもありませんから実行せずに済みました。

▼「生まれなかった方がよかった」と言われた人

 聖書の中には、「生まれない方が良かった」と言われた人がいます。ご存知でしょうけれども、イスカリオテのユダです。マルコによる福音書の14章を見ると、イエスが逮捕される直前、過越の祭の食事をしていた時に、イエスが「私を裏切ろうとしている者が、この食事の場にいる」と言います。
 弟子たちは「まさか、私のことでは」とイエスに聞きますが、イエスは「12人のうちの1人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ」(マルコ14.20)と言います。そして、「人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」(14.21)とイエスは言います。
 この時イエスは、それがユダだとはっきりとは言いませんでしたが、ユダは自分のことだとわかっていたでしょうね。
 「生まれなかった方がよかった」。このイエスの言葉は非常にショッキングです。あまりに過激だったせいか、この言葉は最初の福音書であるマルコにしか書かれていません。マルコを下敷きにして書かれたマタイとルカでは、この言葉は削除されています。「イエスさまがこんなことを言うはずがない」という気持ちが働いたのでしょうか。
 イエスさまが本当にこんなことを言ったのか……。マルコの最初の福音書ですから、実際のイエスが言ったことを、あまり装飾をつけずに、加工もせずに書いてしまった可能性があります。イエスのイメージが悪くなるであろうことだけに、消してしまえばいいものを、そのまま残しているということは、これが事実で、周囲の人にも周知の事実であった可能性がある、と考えることができます。
 もちろん、マルコが裏切り者のユダを憎むあまり、このようなセリフを作ってここに入れてしまった可能性もあります。真実はわかりません。推測するだけです。
 私は、もしこの言葉を本当にイエスが言ったとしても、この「生まれなかった方がよかった」という言葉は、やはりユダに対する愛の言葉ではなかったのかなと推測しています。
 ユダの人生、こんなはずじゃなかった。なんで俺はこんな人生を歩むことになったんだろうと思っているかもしれないユダ。そんなユダに対して、「そうだ、いっそ生まれなかった方がよかったよね」という同情の言葉をかけたのではないかな、と。そんな風に思ったりもします。
 そのあとユダが、イエスが処刑されたあと、自死したというのは、これはさっきから取り上げているマルコによる福音書には書かれていません。ですから、本当にユダが自死したのかは、実はわかりません。そうでなかったらいいのにな、と思いたいところです。

▼ハマルティアの嘆き

 聖書で「罪」と訳されている言葉、特に新約聖書のギリシア語では「ハマルティア」と言いますけれども、「的外れ」というのがもとの意味だというのは、多くの人に知られています。
 「的外れ」というのは、本来の人間の有り様から離れてしまっているということです。聖書では神さまの方に向かって、神さまと共に生きることが的を得た生き方だとされていますが、そういう生き方から外れてしまっている。それが「的外れ:ハマルティア」です。
 そして、そこから「方向転換する」。日本語では「悔い改め」と訳されています「メタノイア」という言葉ですけれど、これは「180度方向転換する」というのがもとの意味です。
 「的外れな生き方」というと、それこそ「罪」と訳されても仕方ないような、まるで本人が悪い事をしたかのような、ネガティブなニュアンスを感じそうになりますけれども、これが「本来の人生と違ってしまっている」という風に解釈したらどうでしょうか。
 的外れであることの苦しみは、「こんな人生になるはずじゃなかった」という嘆きに通じるのではないでしょうか。「こんな人生を歩むはずじゃなかったのに。これなら生まれなかった方がよかった」という思いも、また「ハマルティア」なんではないかと思います。
 この「こんな人生でなければよかったのに」と思ってしまう思いから人間を救うのは何なのでしょうか。

▼1杯の水、1膳のご飯

 私は、救いというのは、大したこととは思えないような小さなことから起こってくるのではないかと思います。いや、大したことではないようでも、救われる人にとってはとても大きなことです。
 例えば、お腹が空いている人、飢えている人が食べ物にありついたら、「救われた」と思うのではないでしょうか。あるいは喉が乾いている時に、1杯の水を飲ませてくれたら、「救われた」と思うのではないでしょうか。泊まるところがない時に、泊めてもらえたり、寒くて凍えんでいる時に、1枚の毛布をかけてもらえたら、「救われた」と思えるのではないでしょうか。病気の時に見舞ってもらえたり、裸でいる時に着させてくれたり、孤独に陥っている時に訪問してもらえたら、そして話を聴いてもらえたら、それは「救い」と言えるのではないでしょうか。
 「そんなのは本来の救いではない」と言う人がクリスチャンの中にはいそうな気もします。「そんなのよりも、もっと素晴らしい崇高な救いがある」と主張する人もいそうです。
 「救いというのは、罪深い人間が、イエスの十字架によって赦され、復活によって神との和解に導かれる、真の救いである」と、そんなことを神学論議が好きな人なら言いそうです。あるいは、こんな風にまとめても、神学者から「それはちょっと違う。正しくは云々かんぬん……」と細かいところを指摘されて修正されるかもしれません。
 私だってもちろん、これに対抗して、「そういう抽象的なのが救いではないでしょう」まで言うつもりはありません。それもとても大切な教理です。
 けれども、そういう難しいことを考える以前に、ただ喉が乾いている時に、1杯の水にありつける。それも立派な救いじゃないか。ただ腹が減っている時に、パンひとかけら、ご飯1杯もらえること。そういうことも、とても大きな救いだと思うんですね。
 ですから、実はさっき言ったのは、実はマタイによる福音書25章の引用だったのですけれども、マタイの25章でイエスさまは、「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気の時に見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」(マタイ25.24−36)と言っています。
 そして、そう言われた人たちが、「いつそんなことをイエスさまにしましたか?」訊くと、イエス様は「わたしの兄弟であるこの最も小さい者にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と答えます(25.40)。
 つまり、目の前の小さな人間に、1杯の水を差し出すことでも、イエスさまに役立つことができる。それがイエスさまを救う。そんな人が天の国に入れる。ということは、難しい神学論議で説明されるような救いの理屈を理解しなくても、1杯の水で人は救われるし、そうやって人を救うことが、自分自身の救いにもなる。それが一番大事なのだよということです。 
 救いというのは、ある一部のクリスチャンが、ちょっと軽蔑を込めて言うように「この世的」です。イエスの教えは徹底的に「この世的」なのです。
 渇いたら飲む、飢えている時には食べる。それが救いであり、それを与える人もまた救われるということです。

▼ほんの小さなわざであったとしても

 そうやって救われた時、救われた人は、自分が生きていることの喜びに満たされるのではないでしょうか。1杯の水、1杯のごはん、本当にそれが欠けている時、足りない時に、それがもらえたなら、「生きていてよかった」と思えるのではないでしょうか。あるいは、そういう時に「生きていてよかった。ありがとう」と思えるような気持ちは失いたくないと思えませんでしょうか。
 そうやって、小さなことにおいても、生きていること、生かされていることの感謝を持っていたい。すべてを失って「生まれてこなければよかった」と思っている時こそ、その思いを、ただ1杯の水、1膳のご飯が救ってくれる。その時、その小さなことに感謝し、「生きていてよかった」と思える謙虚な気持ちを持っていたいと思うんですね。
 あるいは、誰一人理解者はいないという孤独感に陥った時、そばで、あるいはそばにいなくてもネットを通じてであったとしても、話を聴いてくれる人がいただけで、「生きていてよかったのかな」と思えるへりくだった思いでいたい。
 そういう時、人は救われているのではないか。それは小さな小さな救いかもしれないけれどもです。
 そして、その人を救う小さな思いやりを持つことで、私自身も「生きていてよかった」と思える、そんなほんの小さなわざを行うことを怠らないような人間でありたいと思うのですが、いかがでしょうか。

▼俗っぽく生きることを楽しむ

 今日お読みした旧約聖書の『コヘレトの言葉』という本は、
 「なんという空しさ
  なんという空しさ。すべては空しい」(コヘレト1.2)
 ……という、虚無感に満ちた言葉から始まります。
 どうしようもない空しさ。何をやっても同じこと。全ては同じことの繰り返し。快楽に身を委ねることも、苦労を重ねることも、知恵や知識を追い求めるのも空しい。貧しい者が虐げられ、金持ちが金持ちを守る。「善人がその善のゆえに滅びることもあり、悪人がその悪ゆえに長らえることもある」(7.15)すべては空しい……。
 コヘレトは「流産の子の方が好運だとわたしは言おう」(6.3)とまで言います。「生まれなかった方がよかった」ということです。これは旧約聖書に収められた最初の「反出生主義」だとも言えます。反出生主義というのは、「生まれなければよかった」、「生まれてきたくなかった」という考え方です。「人生こんなはずじゃなかった」という、「本来こうでありたかった」という人生の的を外してしまった、「的外れ」の」人生。つまり「ハマルティア」です。
 しかし、最終的にコヘレトは、1つの結論に至ります。それが今日お読みした、9章の7節以降です。もう一度読んでみます。

 さあ、喜んであなたのパンを食べ
 気持ちよくあなたの酒を飲むがよい。
 あなたの業を神は受け入れてくださる。
 どのようなときも純白の衣を着て
 頭には香油を絶やすな。
 太陽の下、与えられた空しい人生の日々
    愛する妻と共に楽しく生きるがよい。
 それが、太陽の下で労苦するあなたへの
    人生と労苦の報いなのだ。
 何によらず手をつけたことは熱心にするがよい。
 いつかは行かなければならないあの陰府には
 仕事も企ても、知恵も知識も、もうないのだ。

 食べなさい。飲みなさい。神さまはそんなあなたを受け入れていますよ。きちんとした身なりをして過ごしなさい。おしゃれをしていい。人生は空しいのだ。その空しい人生を、愛する人と一緒に楽しく生きなさい。そして、仕事も熱心にしなさい。死んでしまったらそういったことはできなくなるのだから、生きているうちにできるうちに精一杯やろう
……。
 賛否両論あります。基本的にこの記事は、そこそこ若くて、仕事もあり、配偶者もいる男性に向けて書かれた言葉です。ですから、全ての人に当てはまるわけではありません。そのあたりは誰にでも当てはまることではないと言わざるを得ません。
 しかし、この言葉の根底にあるのは、コヘレトの結論は、「生きていることを楽しめ。それはとても『この世的』なもの、俗っぽいものなんだよ」ということなのですね。
 大事なことは、「どんな人生観があってもいい、どんな生き方をしてもいい。ただ、この世に生きていることを楽しみなさい。知恵も学問も空しい。この世は空しいのだから、俗っぽく楽しく生きたらいいんだよ」ということです。
 俗っぽい楽しみ方でいいから、生きているうちに生きていることを楽しめ。人生は空しいけれど、そんなに悪いものじゃないと。

▼生まれてきて本当によかった

 コヘレトの言葉は、「生まれてこなければよかった」「生まれなかった方がましだ」という考えから始まりましたが、ついには「一番いいのは、生きることをただ楽しみなさい」という結論に導かれました。
 反出生主義から、出生を肯定する考えに変わる。「生まれなければよかった」が、「生まれてきてよかった」という発想に変わります。
 食べること、飲むこと、寒い時に着せてもらえること、孤独な時に寄り添ってもらえること。そんな単純なことが大事。その大事なことが、人を「生きてきてよかった」という気持ちに導きます。それが人の救いではないでしょうか。
 すなわち、難しい理屈ではない。「生まれてきて本当によかった!」「生きてきて本当によかった!」とただ思えること、それ以上の大きな救いはないのではないか。そして、その一番大きな救いは、山あり谷ありの起伏のあるなかでも、小さなことに喜びを発見し、それを味わう瞬間を積み上げてゆくことから始まるのではないかと思います。
 そして、そんな「生まれてきて、生きてきて本当によかった」という最高の救いを得るには、ひとりぼっちではなかなか難しいです。そこには、小さなお互いの与え合いが必要です。「生まれてきてよかった」と思えるための与え合い、分かち合い。それを一緒に追い求めるために、教会という場があるのではないか。
 また、ここで培った与え合いの心を、この世の暮らしにおいても活かしてゆくことが、自分自身の救いにもつながるのではないかと思うのでは、皆さんはいかがお考えになりますでしょうか。
 お祈りいたしましょう。

▼祈り

 天にいらっしゃる神さま。
 今日、私たちがこうしてあなたの教会に集い、敬愛する人びとと共に、あなたに礼拝を捧げることができますことを、心から感謝いたします。
 私たちは、ともすれば「自分の人生こんなものなのか」、「なんでこんな風になってしまうんだ」、「生まれない方がよかった」と絶望したり、人生に失望したりすることがあります。
 神さま、どうかそんな時、私たちを孤独の中に見捨てないでください。どんな時にもそばに寄り添ってください。
 そして、人生がどんなに空しくても、楽しめる心持ちを与えてください。
 そのために、あなたが作ってくださったこの世の全てが、あなたによって与えられた良いものであると、改めて私たちに悟らせてください。
 そして、私たちを孤独に陥らせず、一緒に人生の楽しみを見つける仲間として、この教会を導いてくださいますように。
 眼の前に与えられた全てのものに感謝し、この祈りを、イエス・キリストのお名前によって、お捧げいたします。
 アーメン。


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