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2月11日に思うことなど

(長文で、しかも政治に関する話題です)

 毎年2月11日はいわゆる「建国記念の日」ということになっている。しかし、私のような少しでも歴史に関心のあるクリスチャンにとっては、「信教の自由を守る日」という呼称の方がしっくりくる。とは言っても、もうそんな感覚も既に時代遅れのようで、私のような50代半ばの者でも、この手の問題に関心がある人々の中では、最早「若手」になってしまった感がある。

 この日を「建国記念の日」呼ぶことを拒み、「信教の自由を守る日」とすることに固執するクリスチャンが何故存在するのか。

 この「建国記念の日」は、元々「紀元節」という祝日で、8世紀の神話の書である『古事記』や『日本書紀』に記された、おそらく架空の人物である初代天皇の神武の即位を祝う日である。しかもこの祝日が制定されたのは明治6年。つまり、「紀元節」など、1000年近くも放置されてきた神武天皇の即位にかこつけて、急に明治政府(大日本帝国政府)が提唱したものなのだ。

 当時、大日本帝国は欧米列強に対抗して、強力な国家になるべく、国民統合の原理が必要だった。そのために取った方法のひとつが、「天皇は神の子孫である」「日本は神の国である」と言って全国民に教育する、一種の国家宗教の捏造だった。これは現在「国家神道」と呼ばれている。

 この国家神道が極限まで暴走したのが、太平洋戦争の時だ。「生きて帰って来いよ」ではなく、「天皇陛下のために死ね」と言って多くの若者が戦場に送られた。彼らは「死ねば靖国神社の神として祀られる」と教え込まれていた。これもたった150年ほど前に急ごしらえで作られた捏造の教義だ。その結果、兵員だけでも300万人近くの命が失われた。

 犠牲になったのは日本人だけではない。大日本帝国が侵略、占領したアジアの国々でも、国家神道は強制された。日本軍は、一般市民を殺し尽くし、犯し尽くし、奪い尽くしながら、方々に神社を作り、鳥居を立てた。

 そして、大日本帝国は戦争に負けた。あろうことか、敗戦直後、当時の昭和天皇は「実は私は神ではなく人間でした」と、明治時代と全く逆のことを国民に触れ回った。いわゆる「人間宣言」である。このいい加減さ、卑怯さについて詳細を述べるのはとりあえず置いたとして、ともかく国家神道は終わった……ように見えた。

 しかし、国民を統合し、意のままに操る快感は何にも代え難いものなのか、敗戦後20年近く経ってから日本国政府は、かつての「紀元節」と同じ日を、今度は「建国記念の日」として制定し直した。歴史的には日本国の建国の日などはっきりしたものは無いのだから、建国記念日ではなく、建国記念「の」日である。こういう言葉のあやで誤魔化して、彼らは「紀元節」を復活させたのである。

 話が長くなったが、要するにこの天皇を神として崇拝する国家神道は、まずは単純に考えてもクリスチャンにとっては異教である。クリスチャンにとっては神のみが神なのであって、人間を「現人神」として崇拝することはできない。こんな国家の都合で捏造された宗教まがいの洗脳を認めるわけにはいかない。

 しかも、この国家神道によって、多くの無辜の人命が奪われ、その責任も取らずに「神」とされていた男は「実は神ではありませんでした」と言って、おめおめと逃れおおせた。これが「神」であり、その「神」に命を捧げよなどと要求することが、いかにインチキであるか説明するまでもない。

 太平洋戦争真っ只中の時期、キリスト教会の礼拝には憲兵が監視のために立ち入り、牧師が「平和を祈りましょう」などと一言でも言ったものなら、引きずり出されて殴る蹴るの暴行を受けたという。牧師個々人だけでなく、教会ごと弾圧を受けた所もある。国家神道は、単に信教の自由への侵害に留まらず、キリスト教信仰に対するはっきりとした否定であり、迫害だったのだ。

 だから、戦後しばらくは、純粋な信仰を一心に守ろうとする人たちほど、近代天皇制に対する批判精神は非常に強かった。普段はリベラルに比べて、社会や政治に無関心と思われたコンサバティブなクリスチャンが、信教の自由という問題になると、リベラルがたじたじとするほどの団結力を持って抵抗運動を展開していたのである。

 しかし、最近の20〜30代のクリスチャンには変化が見られるような気がする。私などが近代天皇制に批判的な意見などをSNSで書いたりすると、コンサバティブなクリスチャンの若手から、「いつまでそんな昔のことを言っているのか」、「今は普通のロイヤル・ファミリーだし、天皇はとてもいい人なのに、そんなに特定の人を攻撃するなんてクリスチャンとは思えない」、「そんなことを言う頭の硬い爺いがいるから、日本にクリスチャンが増えないのだ」などと猛烈な非難に晒される。若いクリスチャンたちから見れば、天皇制を支持する方が、世間にキリスト教を受け入れてもらいやすいという嗅覚からの判断だろう。

 もちろん私も私の不安が杞憂に終われば良いと思う。しかし、国は国民が従順であることを望んでやまないものだ。彼らは宗教を広めたいのではない。マインド・コントロールが国民を利用するのに便利だからそれを使うだけだ。

 為政者たちが、なぜ「紀元節」の焼き直しである「建国記念の日」に拘り、事あるごとに明治期の「教育勅語」に礼賛し、マスコミを総動員して、天皇が人間的にいかに素晴らしいかを演出するのか(もちろん、現天皇が人間的に素晴らしいということは一概には否定はしない。そんなこととは全く関係ない。問題は天皇「制」の政治利用だからだ)。

 もはや神では無いはずの天皇の代替わりの宗教儀式に莫大な税金を投入して、総理大臣に「天皇陛下万歳」を叫ばせるのはなぜか。そして、なぜ義務教育に「特別な教科 道徳」などを導入して、同調圧力を強化する教育を推進しようとするのか。

 それを私たちは警戒心をもって監視しておかねばならない。ソフトな形で私たちは再び心理を操作されているのではないか。

 繰り返しになるが、彼ら為政者こそ、国家神道などという宗教(的なもの)を本気で信じているわけではない。彼らにとって宗教とは、国民を一致団結させ、コントロールするためのテクニックに過ぎない。そのテクニックを使用するために、国民がそれぞれ自由に宗教を信じていること自体が邪魔なのである。

 国民が何か国家以上のものを信じる自由も、国家も含めて何も信じない自由も、国家にとっては邪魔である。国家こそ最高の権威であり、命を捨てるに足る対象であると国民が思ってくれることがベスト。

 またそこまで行かなくても、心の中で何を信じても信じなくてもいいから、とにかく個人として自由に振る舞わず、命令に従って行動してくれたらいい。平時にはしっかり税を払い、有事には命令どおり戦ってくれたらいい。あなたの心の中で何を信じようが自由ですよ。ですから我が国では「内心の自由」は保証されていますよ。……これがこの国の「思想・信条の自由」の実態である。

 2月11日は、そのように個人の「信じる自由」、「信じない自由」を一見認めているかのような体裁を取りながら、その思想・信条そして信仰に従った行動は一切認めないという、この国の二枚舌政策の象徴の日である。

 我々はもうこれまでのように自分たちの信仰の自由を蔑ろにされ、国家のために命までしゃぶり尽くされる歴史を繰り返すのはまっぴらだ。だから、2月11日を「建国記念の日」などという欺瞞的な呼び方は決してしない。それは「信仰の自由を守る日」である。

 しかし、これはあくまで象徴的な日でしかない。信仰の自由は2月11日だけ守ればよいのではない。日々我々は我々の自由を守るため、自由を奪おうとする者たちの動きを監視し、警戒しなければならない。

 そうでなければ、足元を救われる時は一瞬だ。そのことを若いクリスチャンたちに伝えたい。「あなたがたは既に取り込まれているのではないですか?」と。


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