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男であることの罪についての一考察

2024年8月2日(金)日本基督教団 部落解放センター朝祷会 奨励
ローマの信徒への手紙7章18−25節(新約聖書・新共同訳 p.283、聖書協会共同訳 p.278)
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(最後に動画へのリンクもあります)

 私は自分の内には、つまり私の肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はあっても、実際には行わないからです。私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行っています。
 自分が望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです。
 それで、善をなそうと思う自分に、いつも悪が存在するという法則に気付きます。
 内なる人としては神の律法を喜んでいますが、私の五体には異なる法則があって、心の法則と戦い、私を、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのです。
 私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、誰が私を救ってくれるでしょうか。私たちの主イエス・キリストを通して神に感謝します。
 このように、私自身は、心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。

ローマの信徒への手紙7章18-25節(聖書教会共同訳)

▼toxic masculinity

 最近見たFacebookの投稿の中で、ある人がこんな書き込みをしていました。
 「僕が良かったと思うこと。toxic masculinity(有害な男らしさ)の呪縛に囚われないで生きてこれたことかな。」
 “toxic masculinity(有害な男らしさ)”
 私にとって、自分がこれからどのように生きていったらいいのかを考えるという大きなテーマの中で、この“toxic masculinity”というのが、今重要なキーワードになっています。
 これと関連して、今日はパウロの手紙から聖書の朗読箇所を選ばせていただきました。
 この手紙の中でパウロはこんなことを言っていますよね。
 「自分の内には、つまり私の肉には、善が住んでいない」とか、「善をなそうという意志はあっても、実際には行わない」、「私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」、「自分が望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのだ」……そういった言葉が目を引きます。
 そして、パウロはそんな自分について、「私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、誰が私を救ってくれるでしょうか。私たちの主イエス・キリストを通して神に感謝します」と、嘆きつつも、自分を救ってくれるのはイエスしかいないということなのでしょうか、神さまに感謝を捧げています。
 これは、「私の罪は私の意志ではどうすることもできないんです」と、開き直って言い訳をしているのでしょうか?
 それとも、自分では望んでいない罪があとからあとから湧いてくる、その罪の力の執拗さ、恐ろしさを嘆いているのでしょうか。
 日本語で読む限り、ここでのパウロは心底困っているのか、それとも欺瞞的に言い逃れしようとしているのか、微妙なところだと思います。両方なのかもしれません。困っているけど欺瞞的。欺瞞的だけど、そんな自分に気づいていて、どうしたらいいのか困っている……と、そんな風に読むのは、私がこの箇所に自分の心情を投影しすぎているのかもしれませんけどね。
 彼は、「自分は望んでいることができず、望んでいないことをしてしまう。それは私ではなく、私の中の罪なのだ」と言います。
 この言葉を読むと、私は自分の中の“toxic masculinity(有害な男らしさ)”のことを思い浮かべてしまいます。そして、自分でも気づかないうちに、あるいは気づいていても、女性を貶めてしまう、見下してしまう、自覚なき差別を行ってきたことを思わずにはおれません。

▼都知事選のあとで

 つい先日、東京都知事選が終わりました。その後、負けたある女性候補に対する強烈なバッシングがネット上で起こり、今も続いています。
 その女性候補の方は、政権を握っている男の牙城のような与党に対しても、またその政権与党と強く結びついている現職の都知事に対しても、厳しく批判する主張をしていましたが、そのような姿をとりあげて、「こわい」というワードがネット上に溢れました。
 男性の候補に対しては、きつい言葉で相手を論破したり、追い出しだりする姿がネットで流れたりすると、そういう男性をもてはやす声が上がる一方で、女性の候補に対しては、「こわい、こわい」と集団で揶揄する。選挙が終わって本人が負けたという結果になったら、まるで鬼の首でもとったかのように、そしてまるでこれまでの恨みを晴らすかのように、叩きまくる。
 「女性」で、「男性に脅威を与え」、しかも「敗者」。三拍子揃った彼女は、ここぞとばかりに攻撃にさらされました。世間は、彼女より票は得たにせよ、選挙で負けたことは同じなのに、家父長制的、父権的な体質、パワハラ的体質、態度のデカさ、そういったものを隠さない男性候補が、まるで真の勝者であるかのような宣伝が続けられました。
 ここにきて、この国の男性の多数派が、どんなに家父長制的な体質を温存していて、どんなにミソジニーを抱いていて、しかもそういう自分たちのほうが、女性たちから「抑圧されている」「攻撃されている」という被害者意識に満ちているかということがわかった気がします。

▼「強い」男性の弱さ

 なんで私に、そういう男性心理がありありと推測し、理解できるのかというと、それは私自身の中にも、そういう「有害な男性性」が残っているからなんだろうと思います。
 パワハラ的で、戦闘的で、切れ者っぽい男性に憧れ、弱くて従順で奉仕的な女性を望み、強い女性を叩きたくなる。この根底には先程から申し上げている“toxic masculinity”があると思います。
 そういう男性の心理が理解できるということは、私自身の中にもこの
“toxic masculinity”が残っているからです。
 もっとも本当に強い人格を持つ男性は、女性に対してそんな恐れを抱いたりはしません。強い女性に会うと、自分の弱さを侮辱されたように感じ、激しい怒りを覚えるのは、芯の部分では弱い男性です。
 これは一見強そうに見える男性においても、よく起こることです。
 そういう男性は、普段、自分を強く見せることに成功していたとしても、真の意味で強い女性に出会うと、自分が隠している(たぶん心理学の用語で言うと「抑圧している」)自分の弱さを掘り起こされたように感じて、(実際にはそんなことを女性はわざわざしているわけではなく、男性の側の心理の問題なのですけれども)強く感情を揺すぶられてしまいます。
 その時、その男性の心には、自分が抑圧している弱い部分を見透かされたような被害者意識が沸き起こり、同時にそれに伴って激しい怒りも湧いてきます。
 そして、忍耐力のない男性は、その怒りを露わにしてしまいます。そして、普段抑えつけている女性に対する鬱屈した怒りを、たとえばその女性が敗北して弱者の立場に転落したと見るや、これで絶対に反撃できないだろうと見なして、その攻撃性をぶつけてしまうのです。
 こういう男性でも、自分に余裕がある時には、女性のいたわるかのような態度を取るときもあります。特に、弱者、敗者の立場にいる女性に、憐れみの視線や言葉をかけ、自分は理解者であり味方ですよといった風に振る舞うのです。
 けれども、被害者意識にかられてしまい、自分の中にある葛藤を抱えきれなくなってしまった男性は、手のひらを返したように、女性に対する攻撃に回るのです。

▼差別はなくならない

 厄介なのは、ある程度人権意識があったりする男性です。そのような人は、自分の弱さを掘り起こされた怒りをも、それが見えないように抑圧します。その葛藤を抑え込むにはエネルギーが要りますけれども、なんとか自分の中の人権意識が勝った時、彼は自分の中にある被害者意識や怒り、妬み、劣等感といったものを抑圧する、我慢することに成功します。そして、女性に対する理解者であることを演じ続けることに成功します。それで一応社会生活には適応できます。
 ただ、私が忘れずにいたいと思うのは、自分の中にそういう弱さや、怒りが起こる「火種」のようなものが、無くなっているわけではないのだという事実です。
 私自身、一瞬でも女性から何か問題点を指摘された時、あるいは糾弾された時、「くそっ」と思ってしまう。相手が男性だとそんなに感じなかった感情を、女性に対しては抱いてしまう。
 (重ね重ね言いますが、そういうことは今では稀なのですけれども)わずかではあれ、そんな心理が宿っているし、宿っているからこそ男性の弱さも理解できるし、理解できるからこそ、それを他の男性と共に乗り越える工夫を編み出していかなくてはいけない。また、それができるのではないかと思うのです。

▼トカゲの尻尾

 私は「差別は完全に無くなる」とは簡単には言えないと思っています。
 差別する心、差別やヘイトを生み出してしまう精神構造というのはしっかりと存在しています。それは生きている限り、消せないように思います。消せると思うのは、甘い考えだと思います。
 まさに、パウロが言うように、私たちは自分で望んでいない罪を犯している、そういう存在なのです。自分の中には差別の種があるのです。
 ただ、注意深く生きていれば、その、差別したくなってしまう、人を貶めたくなってしまう、そういう心理が自分の中で立ち上がりかけた時に、素早く気づくことができます。
 これは逃げるトカゲの尻尾を捕まえるようなものです。トカゲをたとえに使うのは、トカゲに失礼かもしれませんが、ここは赦していただきたいのですが、トカゲが姿を表すとします。それは自分の心の中の、他者を貶めたいと思う心理、あるいはどこかで相手が自分より弱い立場にいるときに、その相手にマウントを取ったり、悪い意味で憐れんでやらないといけないなどと思ったりする心理。
 これを見つけた瞬間に、つまり自分の中の差別性に気づいた瞬間に、私はパッとそれを捕まえないといけません。捕まえることに成功すれば、私は差別をやめることができるのではないか。
 そして、たとえその時トカゲを逃してしまっても、つまり自分が望んでいなかった差別をしてしまっても、もし尻尾だけでも手の中に残っていたら、その差別意識を客観的に観察し、自分の中の何がそういう過ちを起こさせたのかを吟味することができます。
 そうやって自己分析がちゃんとできてきたら、だんだんと過ちが少なくなり、自分をアップデートしてゆけるのではないかと思うのは楽観的すぎるでしょうか?
 そのために私は、不断の努力をし続けなくてはいけない。気を抜くことはできないのだと思います。

▼未来の自分を育てる

 差別は次から次へと湧き上がってきます。それは差別することを望んでいない人の中からも出てくるのです。
 しかし、自分のなかに、自分では完全に消すことのできない罪の種があるからこそ、自分の差別性に常に自覚的であることができるというのは、逆説的な、見方によっては優れた点と言えないこともないとも思います。
 パウロのように、「私の中には罪がある。私は自分では望んでいない罪を行ってしまっている」という自覚があるということは、自覚なき差別を行わないようにするためには良いこと、あるいは、自覚なき差別をしてしまったことを糾弾された時に、すぐに悔い改める力を持っているということにつながるのではないかと思います。
 ただ、そんなことを考えるなかで、ふと今私が不安に思うのは、自分がもっと歳を取って、もしも認知がおぼつかなくなった場合。この私の脳の前頭前野の抑制機能が落ちてしまった時に、自分の養育歴の中で刻みつけられてしまった差別的な本性が、再び姿を表すのではないかということです。
 どんなに歳をとっても、私は自分を糾弾する人に対して、心を柔らかくして受け入れ、自分を更に成長させてゆこうと思うことができるでしょうか。それとも、傷つけた相手や周囲の人を更に落胆させるような年寄になっていくのでしょうか。こればかりは、今からではわかりません。
 いずれにせよ、今の自分にできることは。当たり前のことかもしれませんが、自分が出会う人を、改めて大切なひとりの人格だと覚えながら、殊更に慇懃にするのではないけれども、打ち解けることができることを期待しつつ、しかし丁重に人を扱うこと。
 そして、人と共に生きる1日1日を丁寧に生きること。
 将来、ひょっとしてボケてしまったとしても、それでも残るような心の柔らかさを持った自分、そんな未来の自分を今から育てるつもりで、日々自分を教育するつもりで、生きていたいなと。
 そんなことを思っています。
 お祈りいたします……。


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