選ばれたのは誰よりも弱かったから
2024年12日1日(日)徳島北教会 アドヴェント第1主日礼拝 説き明かし
マタイによる福音書2章1-6節(新約聖書・新共同訳 p.2、聖書教会共同訳 p.2)
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▼アドヴェントゥス
今日から「アドヴェント」が始まります。「アドヴェント」というのは日本語の教会暦では「待降節」と呼ばれていまして、「降誕を待つ季節」という意味になります。つまり、教会の暦では、イエス・キリストのお誕生を待つ、クリスマスの準備をする時期ということです。
「アドヴェント」というのは、カトリック教会の公用語であるラテン語の「アドヴェントゥス」に由来していて、「到来」「やってくる」という意味があります。「アドヴェンチャー」というのも、この「アドヴェントゥス」に語源があって、「次々に危機や危険がやってくる」という意味で、冒険を指す言葉になったそうです。
暦では12月24日のクリスマス・イヴまで4週間のことを指していて、今日の12月1日(日)がアドヴェント第1主日、8日が第2、15日が第3、22日が第4となり、その週の火曜日の24日の深夜がイエスさまのお誕生ということになります。
カトリック教会では、その24日の夜から25日の朝まで徹夜のミサを行うところもあるようですし、プロテスタントでも教会によってはそうするところもあるようですけれども、私たちの教会では22日の第4アドヴェントの日曜日に「クリスマス礼拝」を行う予定です。
今日は、そのクリスマスの準備をする季節の最初の日曜日というわけです。
▼ヴィラン
本日お読みしました聖書の箇所に描かれているのは、イエスさまが誕生された直後のエルサレムでの様子です。
キリスト教系の幼稚園や学校で、クリスマスによく上演されるページェント(聖劇)に必ず出てくる、東の方からやってきた博士たちが、ここに登場します。
不思議なことに、大抵のクリスマス・ページェントでは、この3人の博士たちが幼子のイエスさまのところに来て、ひれ伏して3つの贈り物を献げるというシーンは描かれるのですが、ヘロデ大王が登場することはほとんどないと思うんですね。
ヘロデ大王というのは、悪役、ヴィランですよね。ヴィランが登場してこそ物語は面白いですよね。ですから、私が自分の勤めている学校でのクリスマス・ページェントの台本を書いたときは、ヘロデ大王を登場させました。
そして、3人の博士たちが「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか?」と訊くと、「なんだと? ユダヤ人の王は、このオレさまだ!」と怒鳴る、そういうキャラですね。
しかし、考えてみれば、ここで博士たちがヘロデ大王に、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」と訊いたというのは、本当に間抜けな質問ですよね。ユダヤ地方をローマ皇帝の委任を受けて統治していた男にそんな事を言うなんて、「新しい王が現れて、あなたの支配は終わりですよ」と言っているのと同じですから、そりゃ大王も怒りますよね。
それでも、大王はその怒りを噛み殺して、「どこに生まれたか、お前たちが探してきてくれないか。そして知らせてくれ。私も行って拝みに行こう」と言います。新しい王と言われる赤ん坊の居場所が見つかったら、その子を殺害しようと企んでいるわけですよね。
「そうか、わかった。じゃあその子が見つかったら知らせてくれ。私も行って拝もう。ぬは、ぬは、ぬははははは〜っ!!」と高笑いする。
この悪役がウケましてね。毎年、この役をやりたがる生徒さんが出て来るんですね。演じる生徒さんは大いに楽しんでやっていました。
このページェントもコロナで無くなってしまったんですけれどね。今後、復活できるかどうか。今は手探り状態ですけど、いつかまたやってみたいですね。
▼いと小さき者
ヘロデ大王は博士たちに「新しい王はどこに生まれますか?」と尋ねられ、慌ててユダヤ人の神殿の聖職者たちや聖書に通じている学者たちに、「お前たちが、いつか来ると言っているメシア(救い主)というのは、一体どこに生まれることになっているんだ」と問いただします。
すると、ユダヤ人の指導者たちは、今私たちが「旧約聖書」と読んでいるヘブライ語の聖書を参照して、「ユダヤのベツレヘムです」と応えます。
その証拠として彼らが示したというのが、今日の聖書朗読の箇所です。もう一度お読みしたいと思います。
「ユダの地、ベツレヘムよ、
お前はユダの指導者たちの中で
決していちばん小さいものではない。
お前から指導者が現れ、
わたしの民イスラエルの牧者となるからである。」(マタイ2.6)
この聖書の箇所は、ヘロデ大王に質問された祭司長や律法学者たちが答えたという演出になっていますけれども、要するにこの福音書を書いたマタイさんが、「聖書にこう書いてあるから救い主はベツレヘムに生まれたのだ」と根拠づけたい。その目的のために作った物語です。昔の預言者がこう言っている。だから、イエスさまはベツレヘムにお生まれになることになっていたのだ、というわけです。
では、この聖句は旧約聖書のどこの引用かというと、ミカ書の5章1節です。読んでみます。
「エフラタのベツレヘムよ
お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために
イスラエルを治める者が出る。」(ミカ5.1)
この引用元のミカ書と、引用先のマタイに間に、決定的な違いがあります。お気づきになられましたでしょうか。印刷したものを並べないとわかりにくいかもしれませんが、ミカ書の方では「ユダの氏族の中で『いと小さき者』」と書いてあるのに、マタイはこれを「ユダの指導者たちの中で、『決していちばん小さいものではない』」と書き換えているんですね。
元々は「いちばん小さい者だ」と言っているのに、マタイは「いちばん小さい者ではない」と言い換えている。
「救いをもたらすのはいと小さき者なのだ」というのが本来の預言なのに、これを「いや、他でもない世界に救いをもたらす方なのだから、それは大いなる方でなければならない」という意図が、マタイの心理に働いてしまったのかもしれません。
しかし、マタイの気持ちもわからないことはないですけれども、それは大きなもの、強いものにこそ正義は宿るという権威主義につながる危険性がありますし、それは本来、預言者が伝えようとしたものとは違うんですね。
▼宝の民
「いと小さき者こそが選ばれる。」それが、本来の神さまが人を選ぶときのやり方です。それは、神さまがイスラエル民族を特別の民として選んだ由来を語る聖書の箇所にも、はっきり書かれています。
申命記7章6から8節。主なる神が、なぜイスラエル民族をエジプトから救い出し、彼らを特別の民として選んだのかが説明される場面です。
「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。」(申命記7.6-8)
かつてイスラエルはエジプトで奴隷でしたが、「他のどの民よりも貧弱であった」からこそ、神さまは彼らを選び、救い出した。しかも神さまの「宝の民」とされたと言います。「宝の民」なんて素敵な言葉ですよね。あなたがたは神さまの「宝の民」なんだと。
最も貧弱だからこそ、イスラエルは「宝の民」として選ばれた。今のイスラエルに「よく聖書を読め」と言ってやりたいですね。
▼難民
マタイは、ミカ書の言葉を「いと小さき者」から「いと大きな者」に改変してしまいましたが、それでも、マタイが描くイエスとその家族は、大変弱く小さな存在として描かれています。
先ほどの博士たちですけれども、ヘロデのもとから送り出されてベツレヘムで幼子のイエスを発見します。そのあと彼らは、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げを受けて、別の道を通って自分たちの国へ帰って行ったと(マタイ2.12)。
これもまた、どんだけ間抜けな話かですよね。ヘロデは博士たちに自分の兵隊を同行させるとか尾行させるとか思いつかなかったんですかね。まあ、これも劇としては面白い場面になるんですけどね。ヘロデが「ぬおおおお〜! 博士たちめ!!」と叫ぶ。
そして怒り狂ったヘロデはベツレヘムとその周辺一帯にいた2歳以下の男の子を、1人残らず虐殺するという凶行に出ます。ジェノサイドです(マタイ2.16)。
イエスの父親ヨセフは、「子どもとその母親を連れてエジプトに逃げて、私が言うまでそこに避難していなさい」と夢でお告げを受けました。だから、この赤ん坊連れの家族は、ジェノサイドから逃げる難民になったわけです。
イエスは難民だった。いかにイエス自身が弱く小さき者だったかということです。
▼ナザレ
イエスは成長してからも「いと小さき者」として描かれています。
大人になって、人々の前に姿を現したイエスに、初めて会ったナタナエルという人が、こんな言葉を発する場面が、ヨハネによる福音書の1章46節に書かれています。
「ナザレから何か良いものが出るだろうか。」(ヨハネ1.46)
ナザレというのは、今となっては(ベツレヘムではなく)実際にイエスが生まれて育ったところだとされていますが、ユダヤから見て、北の方の田舎の小さな貧しい村でした。
そのナザレが「あんな村からろくな奴が出てくるわけがないだろう」と言われている。出身地差別です。ナザレがいかに小さく、貧しく、低められた地域であったか。イエスは差別を受ける人であったわけです。
しかし、イエスが弱く、小さく、低められた人であったからこそ、神に選ばれたのではないか。
▼パウロ
イエスだけではありません。
かつてはキリスト教徒を迫害し、多くのイエスを信じる人たちを死に追いやったにもかかわらず、十字架にかけられたイエスとの決定的な出会いをしたあと、キリスト教の宣教者になるという人生の大転換を行ったパウロという人も、やはり弱い人でした。
パウロは、コリントの信徒への手紙(二)12章9から10節に、こんな言葉を残しています。
「すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」(2コリント12.9-10)
これは、今年度のわたしたちの教会の年間聖句でもありますけれども、これこそがイエス以前の旧約聖書から、またイエス自身も、そしてイエス以後のパウロにおいても貫かれている真理。「弱いときにこそ強い」「弱いからこそ強い」という逆説の真理です。
イスラエルが、イエスが、そしてパウロがどうして選ばれたのか。それは最も弱く小さな存在だったからです。
だから、ひょっとしたら私たち自身が、パウロの言うように、「弱さ、侮辱、窮乏、迫害、行き詰まりの状態」に直面した時は、それは神に選ばれているのかもしれない。
それは、全くありがたくないことですが、自分の弱さ、小ささを思い知らされている時にこそ、神さまはそのような人間を用いようとしているのかもしれません。
▼人とともに苦しむ神
もちろん勘違いしてはいけないのは、神がそのような弱さ、侮辱、窮乏、迫害、行き詰まりの状態を与えているわけではない、ということです。そもそも、そういう苦しみは、人間社会に生きている限り、どうしても生じてくるものではないでしょうか。
それこそが人間の罪と言いますか。人間はどうしても弱い立場の人、小さな立場の人を生み出してしまうものであり、そんな人を押しつぶすこともあれば、自分が押しつぶされてしまうこともある。それが世の中の現実であり、神でさえもそれを止めることができていない。
人間世界から苦しみを取り除くことはできない。神にもそれはできない。むしろ、私たちの信じる神は、ご自身もこの世の中で苦しんでおられる。そんな神さまです。
クリスマスというのは、「神であるイエスが人としてこの世に来られた」ということをお祝いする日ですが、これは神さまご自身が、この世の人間の弱さ、小ささを、とことん一緒に味わいに来た、ということです。
この事をパウロは、フィリピの信徒への手紙2章6節以降で、このような言葉で表しています。
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」(フィリピ2.6-11)
クリスマスというのは、神が人間と同じ苦労を味わうために、人間として生まれた、という物語なんですね。
▼神の愛の運び屋
人間世界の苦しみはなくなりません。しかし、イエスのように、一緒に苦しんでくれる方がおられるなら、その苦しみは半減するのではないでしょうか。あるいは、ひょっとしたら、一緒に苦しみを担っている者同士、一緒に笑えれば、それが喜びに変わることもあるのではないでしょうか。
そして、その笑いが、ひょっとしたら「救い」のようなものなのかもしれないと思うのですが、いかがでしょうか。一緒に苦しむ仲間がいてこその救いではないでしょうか。
だからこそ、苦しむ人を独りぼっちにしてはいけないのだろうと思います。
神がイエスという人を通して、人としてこの世に来た。私たちの苦しみを共に苦しむために。ですから、私たちもイエスと共に生きてゆこうとするならば、人の苦しみを放置してはいけないのでしょう。
神が人を愛していることを伝えるのは、人間のわざです。人間が人間を愛さなければ、神の愛は伝わりません。人を通して、神が伝わる。人間イエスを通して、神が伝わる。神の愛の運び屋になるのが、人間の務めです。
弱さも多く、欠けも多い、そして臆病で利己的な自分ではありますが、そんな自分でも少しは神さまのお役に立てれば、と思うアドヴェントです。皆さまはいかにお考えになりますでしょうか。
祈りましょう。
▼祈り
神さま。
今年も、あなたの御子イエスさまのお誕生を祝う時が近づいてまいりました。
私たちは、今年も愛する仲間と共に楽しい時を過ごし、互いに喜びを分かち合うクリスマスを過ごしたいと願っています。
しかし、そんな私たちがクリスマスのお祝いをしようとする時、ともすれば、自分たちの閉じた仲間内だけの楽しみに終止してしまう、そのような過ちを犯しそうにもなります。
神さま、今一度、イエスさまがあなたのもとから私たち人間の世界に来られたことの意味を覚えさせてください。
あなたの御子が私たちのこの世の苦労を一緒に味わい、一緒に喜びを分かち合ってくださろうとした思いを受け止め、私たちもその愛に連なって、あなたの愛を、まだあなたを知らない人のところへと届けることのできる、そんな志を温めるクリスマスにさせてください。
今日から始まるアドヴェントの季節を、あなたとイエスさまの温かい愛を思い起こしつつ、大切に1日1日を送ってゆく日々とさせてください。
このつたなき祈りを、ここにいるお一人お一人の胸にある思いと合わせて、イエス・キリストのお名前によって、お受け取りください。
アーメン。
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