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これもうビールじゃないよね

ビール屋で働いている。
私が働くお店は少し業態が複雑なのだが、「ビール屋」という呼び方が一番しっくりくるので、そう呼ぶことにする。

少しビールについて話をしたい。
ビールは麦芽、ホップ、水を酵母で発酵させてできる醸造酒。フルーツやスパイスなどの副原料を使用する場合もある。麦芽もホップも数えきれないほどの種類があり、水も硬軟によって味わいが変わる。酵母を変えれば全体的なフレーバーは一変する。それぞれどんな原料を使うのか、それらを投入するタイミング、熟成期間、全て造り手次第。
全ての選択の掛け合わせで異なるビールが出来上がるとすると、この世には数えきれない種類と味わいのビールが存在するわけだ。なんたってレシピが同じでも味が変わったりするというのだから、いつでも目の前のビールとの出会いは一期一会なのである。

私の働くお店にも800種類以上のボトルビールが並んでいる。それらの中には、まるで喉越しの悪いフルーツジュースのような、コーヒーにチョコレートを溶かしたような、ウィスキーを少し甘く飲みやすくしたような、様々なビールが存在する。
そんなビールを、お客さんが一口飲んでこう言うことがある。

「これもうビールじゃないよね」

うん、しょうがないと思う。
彼らの中の「ビール」の全ては、アサヒスーパードライなのだ。一番搾りなのだ。しょうがない。でもなぜだか、悔しくなってしまう。
そのお客さんが、「ビールではない」ということに驚いた後に美味しいと飲んでくれればまだいいのだけど、そのギャップについていけずに飲むのをやめてしまったりするから、悔しい。

なんなら「ビール」なんて名乗らなきゃもっと受け入れてもらえたのかなあ。なんて一瞬頭をよぎる。いやいや、それが「ビール」であることに意味があるんだよ、とすぐに振り切る。

ビールは造り手も、飲み手も、自由なお酒だ。そんな多様性に寛容なところに惹かれた。
ブルワリー毎、ビール毎のこだわり、ラベルのデザイン性の高さに興奮した。ゆっくり一人で味わって飲む、みんなでワイワイ飲む、それぞれに合わせたスタイルがあるところに生活との近さを感じた。「ビール」だから可能なんだ。

なのに日本では、黄色い液体に白い泡という「ビール」でなければ、もしくはそれに近くなければ「ビール」とも呼んでもらえないのかとやるせない気持ちになる。ビールのことを想って悲しくなっている時点でかなりの変態であることは自覚している。

例えばの話だが、産まれてから「音楽」に関してはクラシック音楽しか聴いてこなかったお姫様かなんかがいたとして。その人に私の大好きな星野源とかフレンズとかを興奮気味に紹介して聴いてもらっても、
「これもう音楽じゃないわね」
なんて吐き捨てられちゃったりするんだろうか。
悲しい。なんて悲しいんだ。

そんなかわいそうな思いをするビールが無くなるように、自分にできることはきっと、伝えていくことだ。知ってもらうところから始めるんだ。
それが自分のできること、というか、やりたいことだ。自分の中だけで納まらなかったから、ビールの仕事をしたいと思ったんだ。

正しく伝えて、ワクワクしてもらって、好きになってもらう。

仕事終わりの日本のサラリーマンが、喉越しの悪い黒くて泡のないビールを飲んで、
「こりゃ美味いビールだ!」
と一日を締めくくる、そんな日が来るまで。