生きるということ

下記の言葉から何を感じますか?

ね、ワーニャおじさん、生きて行きましょう。長いながい日々の連なりを、
果てしない夜ごと夜ごとを、あたしたちは生き延び運命が与える試練に耐えて、
今も、年老いてからも、休むことなく他の人たちのために働き続けましょう。
そして寿命が尽きたら、おとなしく死んで、あの世に行き、
「私たちは苦しみました、泣きました、本当につろうございました」
と申し上げましょう。神様は憐れんでくださるわ。

先日の横道氏の『イスタンブールで青に溺れる』で紹介されていたチェーホフの『ワーニャおじさん』の最後の一節。気になったので早速ポチって読み進めてみた。閉塞状況の中で生きざるを得ない人々の様子を描いた作品になっており、物語の流れからこの言葉が出てくると、一層深い意味を感じられた。

ただ、この言葉自体は、閉塞状態ではなくてもすんなりと自分には入ってきた。そもそも仏教でも一切皆苦というくらいであるし、生きるということは何かしらの苦悩と隣り合わせであることは否めない。そんな中で、無理やり生を素晴らしいものと肯定するのではなく、悲観的にありのまま受け入れるということも、時には必要なのではないだろうか。

こういう捉え方が出来てこそ、逆説的に日々のとりとめのないことに感謝や感動を覚えることが出来るように思う。現に、この言葉に関しても、孤独で一人頭の中で考えている訳ではなく、語りかける相手がいるという時点で、救われた気持ちにもなる。そして、こういう感性で作品を創り上げたチェーホフに対して、静かな共鳴を覚える。


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