知覚の不思議

人は見たいものしか見ない、見えない。

カラーバス効果とはある特定のものを意識し始めると、関連情報が自然と目にとどまりやすくなる心理効果のことを言う。これは色に限ったことではないし、もっと言うと視覚にとどまらず聴覚などほかの知覚にも当てはまることではある。同じ風景を、ほぼ同じ場所から眺めていたとしても、それぞれの人が見てる部分は全く異なる。話をしてみると、全く違う世界を知覚していることが分かる。だからこそ、対話は面白くなるし、多様性が溢れる世の中になる。

久しぶりに上述のようなことを思い出したのは、『人間をかんがえる アドラーの個人心理学入門』を読んでいたから。アドラーの教えの主要部分を占めるのは「目的論」と「共同体感覚」であり、「目的論」は自らの行動は、自分の設定した目的に向けて、主体的に選べるという立場をとっている。原因論が主体であった当時に、目的論や主体性を持ち出したのは斬新であると思う。原因論は、「なぜ」を考えるので、結果的に非難されているような気持ちになってしまうので、どちらの考えが正解ということがなくとも、目的論の方が生きる意欲は得られやすいように思う。

目的論の考えは色々なところに応用されている。対話や質問で個々のありたい姿や理想像を思い描き、成長や目標達成へのモチベーションとするのがコーチングである。ビジネスで事業のありたい姿を描き、現状とのギャップを特定し、打ち手を考えることが戦略構築でありデザインシンキングなどのワークでもある。人類や社会課題を考え、理想的な世の中や社会を成し遂げるために、17の大きな目標とそれぞれの具体的ターゲットを設定したのがSDGsである。目的論に基づいて生きていたら、高い意欲を持ちながら、人生を歩んでいけるはずではあるが、なぜ世の中にはこんなに生きづらさを感じてしまう要素が溢れているのだろう?(この問い自体が原因論的な問いになってるw)

端的に言うと、個々人が「目的」と思い込んでいるものが、主体的に設定したものでは無いからだろう。ただ、それが主体的に設定したものかどうかすら本人自身が理解していないケースも多々あるように思う。生まれ育った環境、その世間や社会での常識、教育、体験。生きていく中で培われた価値観に基づき、そこから培われた指針が、「~したい!」になればよいが、「~ねばならない」になってしまっているケース。また、そもそも養育者の敷いたレールの上を走ってたたために、目的自体が分からないケース。そういう状態で資本主義の過酷な競争社会に放り出されたら、生きづらさを感じるのも仕方ない。みんな仲良く一緒にと言いながら、受験勉強や企業・国家間の競争に巻き込まれたら、誰だって簡単には対応できない。対応しているように見えて、何かしら気付かぬうちに犠牲にしているケースもあるかもしれない。

そう、仕方ないのだ。よほど恵まれた人でないと、この仕方ないケースに陥ってしまうのが現代社会である。それなら一回、諦めてしまうことが大事なのではないだろうか。「諦める」の意味には事情や理由を明らかにするという意味もあり、「明らめる」と書くこともある。世の中の仕組みを理解し、社会の現状を理解し、そして自分の立ち位置を理解する。その中で一旦諦めてみる。諦めて空白や余白が心にできたら、そこに「~したい!」を埋めていく。そうすると、知覚がしたいことの情報をたくさん拾ってきてくれて、心は本当に見たい/聴きたい/感じたいことで溢れてくるのではなかろうか。

私自身も、まだまだ執着や期待が強くなることもあり、感情が揺さぶられたり、気分が沈みこんだり、結果的にそれで失敗することも多々あるのだが、「まぁ自分も人間だし仕方ない」と諦めることは上手になってきた気はする。そして、一旦諦めたら、世界や人についてもっと知ろう(明らめよう)という目的をもって、また新たな対話や読書の旅に出かける。こうやってフラフラしながらも歩いていけば、どこかにたどり着けるかもと思いながら、毎日に感謝して生きていければよいかなと思う。

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