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鬼滅の刃 無限列車編考察

劇場版『鬼滅の刃』無限列車編が歴史的な記録を打ち立てました。

その見どころと、鬼滅の刃からのメッセージを考察します。


『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』が、ついに16日に公開を迎えました。

新型コロナウイルスの影響で世界中の映画業界が苦境に陥っているなかで“日本の映画興行の完全復活”を託されていたとも言われています。

そして今まさに、その期待を大きく上回る大旋風を巻き起こしています。

では、さっそく劇場版『鬼滅の刃』無限列車編の考察を始めていきたいと思います。
それでは皆さん、全集中でお聞きください。

結論

カッコいい。
鬼滅が持つカッコいい要素が、アニメ化されたことで更にカッコよくなっています。

武道のカッコよさ、命のやり取り、術、そしてそのビジュアルエフェクト。
なにより、人間の徳、洗練された達人の技。

私、映画を観た後で、全巻「一気読み」しましたが、単行本を読んだうえで、もう一回映画を観たいと思いましたね。

なんというか、登場人物の背景と極められ、洗練された技が、アニメーション内で「ほとばしる」という印象です。

アニメーションとしては、地上波テレビで観てから、ネットフリックスで全26話を「一気見」しました。

つい最近、観始めた「にわか」ではありますが、凄く面白かったです!
というか、映画でアニメを観るなんていうのは、25年ぶりですw

まさか、この歳になって「アニメ映画」を観に行くとは思っていませんでした。

鬼滅の刃「無限列車編」とにかくカッコいいんですが、年齢問わず、これだけの支持があるというのには、理由があるんでしょうね。

例えば、ほとんどの世代にフィットする、面白さと分かりやすさ。

各世代で受け取り方は違うと思いますが、最近、あまりアニメを観ていない層にも受け入れられる内容だと思いました。

今回の鬼滅の刃「無限列車編」は、漫画そのままのストーリーなんです。

大抵のアニメ映画って、映画用にストーリーがあるじゃないですか?
この鬼滅の刃は、漫画そのままなんですw

アニメ放送26話の続きが、今回の映画になっているようです。
おそらく、この後、映画で放映された内容を含むアニメが公開されるのだと思います。

正直、この類のアニメを観て、面白さが理解できるのか不安だったんですよ。
なので、かなり真剣に観ましたし、テンションも上げていきましたw

良かったのは、テレビコマーシャルとか、コンビニなんかで、沢山の鬼滅グッズを見かける事が出来たのと、私の娘が、鬼滅に超激詳しかったことでしょうかね。

娘から、ありがたく解説を頂きながら観たのも良かったですね。
結果、誰の異論もなく、家族でこの映画を観に行きましたから。

ということで、今回の動画は、この映画の見どころと、ベネフィット。

すなわち、受け取る事の出来るメッセージや教訓のような、人世や生活を豊かにするヒントを得ることが、カッコよく理解できるという点です。

不老不死である鬼という基準を示して、その基準から見た人間の生死。
人間の先の姿であるLIFE3.0が鬼ですね、ハードウエアさえも自ら変化可能な生命。
そして、それでも尚、自然には敵わないというメッセージも感じます。

『鬼滅の刃』は、吾峠呼世晴(ごとうげこよはる)さんによる少年漫画で、「週刊少年ジャンプ」にて2016年11号から2020年5月まで連載されていました。

大正時代を舞台に、主人公が鬼と化した妹を、人間に戻す方法を探すために鬼たちと戦う姿を描いています。

この漫画は、生死、すなわち生きるとはどういう事かという内容を多く含んでいます。
なので、最初にアニメを観た感想は「しんどい」でした。
とにかく、しょっぱなからの主人公の境遇が辛すぎるんです。

シリーズ累計発行部数は、単行本21巻の発売時点で1億部を突破しています。
聞くところによると、序盤は、大人気という漫画ではなかったそうです。

おそらく、少年漫画としては、シリアスすぎて、多くの人に認知されなかったのだと思います。

漫画は、ある程度物語が進んでから面白さが伝わる場合も多いので、世の中には、面白いのに多くの人にリーチしない作品も存在します。

なぜ、鬼滅の刃は、空前の大ヒットになったのか?
その理由を明確にすることは、極めて困難です。

これは、本編の解説でもお話しするかもしれませんが、上手くいく、勝負に勝つというのは、大抵、たまたまです(運です)

上手くいく方法論が、最初からあった訳ではなくて、結果的に、上手くいった「方法論」が浮き彫りになるに過ぎませんし、ありとあらゆる原因と結果の集積、すなわち努力が、大成功を収めたと言い換えることができますね。

鬼滅の刃で描かれる、人間や、剣士の強さの源とは何でしょうか?
彼らの強さの源、武器は、ズバリ確率です。

人間や、剣士は、確率を武器にして、鬼という手の届かないような強大な敵と戦います。
この辺りは、解説しながらしっかりと回収して行きたいと思います。

まず、鬼滅の刃は、話が分かりやすく出来ていて、その世界観に浸れるアニメであったというのには、いくつか確実に言える理由があります。

ひとつは、心の言葉が、そのままナレーションになっていて、自然と解説を聞きながらストーリーを追っていくことが出来るという点です。
登場人物は、けっこう自分の心の声を喋りまくりますよねw

あと、原作の漫画を、アニメーション、演出や音楽で強力にバックアップしている点。
戦闘シーンの表現において、アニメーションがとても活きる内容であったと思います。
アニメだと、スピード感や、凄みが更に表現出来て、とにかくカッコいい。

戦闘シーンが、カッコいいからこそ、登場人物が発する言葉のひとつひとつを、とても重いものに感じることが出来ます。

これは、戦闘シーンが誇張され、強調されないと、臨場感を得られないからに他なりません。

戦っている本人たちが感じているリアリティは、遠くから戦闘を眺めても、十分には伝わって来ませんからね。
戦っている当事者と比べると、圧倒的に地味です(リアリティがない)

したがって、命のやり取りほどの戦闘の中で発せられる言葉には、とてもリアリティを感じるんでしょうね。(入ってくる)

私、映画を観た後で、最も反省したことがありまして、映画館で渡される外伝漫画を先に読むべきだったという事です。

鬼滅の刃「無限列車編」では、上映前に限定コミックのプレゼントがあります。
私ね、なんか貰えたラッキーくらいにしか思っていなくて、上映前に、それを読まなかったんです。

これは、この漫画全体に言えることですが、登場するキャラクターの個性、すなわち、登場人物の魅力のほとんどを、その登場人物の背景が支えています。

したがって、今回の映画の主役とも言える「煉獄杏寿郎」を「杏寿郎」たらしめるその歴史や背景を知っておくことは、とても重要だったんです。

配布コミックは、僅かな情報ではあるものの、知っていると知らないとでは、映画への没入感は、まったく違ったものになると思います。

これに関連したことですが、冒頭申し上げた通り、今回の鬼滅の刃「無限列車編」は、
漫画そのままのストーリーです。

そして、今回の主役とも言える「煉獄さん」についての馴染みがありませんでした。
ここまでの物語では、少し出てきた程度ですし、しゃべり方が変なので、最初は、強いんだろうけど、ただのおかしな奴という印象しかありませんでした。

「うむ!美味い!」とか「承知しかねる!」とか、竹を割ったような性格というか、割りすぎた性格というか、とにかく、おかしな人物です。

目線は、つねに前を向いていて、人と喋る時でも、しゃべる相手でなくて、正面を見たまま喋ります。

でも、この「前を見ている」というキャラクターが、映画終盤で、観ている私たちを「ぞくぞく」とさせます。

今なら、映画にもっと「煉獄杏寿郎」のカッコよさを感じることが出来たと思います。

賛否はあると思いますが、私自身は、映画を二度以上観るか、事前に漫画を読んでおきたかったという感想を持っています。

というのも、今回の映画で、最も衝撃的、サプライズだったのは、上弦の鬼の出現と、その戦いだったと思うので、ストーリーを知っていたから楽しめなかったという事は無いのではないかと思います。

ちなみに、上弦の鬼というのは、中ボス級のめちゃくちゃ強い鬼で、十二鬼月という鬼の精鋭部隊の中で上位6体の鬼を、上弦の鬼と言います。
この上弦の鬼については、後で解説します。

ということで、そろそろ、映画の内容に入っていきたいと思います。

ここからは、映画の内容に触れますので、漫画を観ていない方や、
事前情報なしに映画を楽しみたい方は、ご注意ください。

まず、物語に常に登場しているメインキャラクター4人を少し紹介します。

主人公の竈門炭治郎(かまど たんじろう)
鬼によって、鬼にされた妹、竈門禰豆子(かまど ねずこ)を背中の箱に担いで、妹「豆子」を人間に戻す為に「鬼殺隊」という鬼を駆逐するための、政府非公認の武闘組織の一員として鬼と戦っています。

呼吸は、水の呼吸を使います。
呼吸については、後程解説します。

我妻善逸(あがつま ぜんいつ)主人公と同期の剣士。
非常に憶病だけど、とてつもないポテンシャルを秘めた金髪の剣士です。

その秘めた実力は、危機がおとづれたときのみ発揮されます。
要するに、弱虫だけど、やるときはやる男です。

呼吸は、雷の呼吸を使います。

嘴平伊之助(はしびら いのすけ)主人公と同期の剣士。
イノシシに育てられているので、言葉が荒くて、常識を知りません。

ノコギリの様な刀を二刀流で使います。
イノシシの被り物をしています。(育ての親イノシシの頭?)

呼吸は、獣(けだもの)の呼吸を使います。

登場キャラクターの中で、どのキャラクターもめちゃくちゃ魅力があって、私は多分、伊之助が一番好きみたいなんですが、雷の呼吸を使う我妻善逸(あがつま ぜんいつ)が、攻撃するシーン。

雷の呼吸、壱ノ型、霹靂一閃(へきれき いっせん)という技を放つんですが、何度見ても、ここでいつも、目頭が熱くなります。

一番カッコいいんでしょうね。私的にw

彼ら4人は、鬼殺隊本部からの命令で、無限列車の炎(えん)柱の「煉獄杏寿郎」と合流するように命じられます。

「煉獄杏寿郎」は、鬼殺隊の階級において最上位の位置にある、「柱」という階級の猛者です。

鬼殺隊の階級は、癸(みずのと)から甲(きのえ)まで10段階あって、その更に上に鬼殺隊の最高戦力である9人の「柱」が存在します。
もうね、異次元の強さですよ、柱は。

ちなみに、柱は、炎柱とか水柱とか、それぞれの呼吸の名前が付きます。

炭治郎は煉獄さんに父親のヒノカミ神楽と円舞、火の呼吸について尋ねます。
ここについては、無限列車編以降の布石になるので、説明は省きますが、煉獄家と、日の呼吸、ヒノカミ神楽に重要な関連性がある事が分かります。

鬼が出現して、鬼殺隊が結成されたのは、1000年も昔。
平安時代だったようです。

柱の中でも、炎柱の煉獄家は、鬼殺隊結成当初から、代々鬼殺隊を受け継いで来た歴史のある家系です。

先に言いますが、この「煉獄杏寿郎」は、親族を鬼に殺されたり、ひどい目にあった事をきっかけに鬼殺隊に入隊した他の柱と違って、鬼殺隊に入り、鬼と戦い、人を守ることを運められた柱です。

煉獄さんは、炭治郎、善逸、伊之助の3人を自分の継子(つぐこ)※弟子
にして、面倒を見ると言います(3人は喜びます)

この無限列車では、今まで40人と数名の鬼殺隊剣士が行方不明になっています。
要するに、この列車に巣くう鬼が、人を食っている訳です。

鬼は、人を食べるほど強く進化し、身体能力と治癒能力を高めていきます。
更に強くなっていくと、血鬼術という「呪術」のようなものを使うようになります。

この物語で描かれる「鬼」は、まさにバンパイアのような存在です。
歳を取らず、手足がもげても、首がもげても死ぬことはありません。

筋力は、大型の猛獣をも軽くしのぐような、馬鹿げた力を持っていますし、体力は、ほぼ無限というほど持続させることが出来ます。
唯一、太陽の光を浴びると灰になってしまう弱点があります。

今回、無限列車で出現した鬼の一人は、先ほど説明した十二鬼月の、下弦で最も強い魘夢(えんむ)という鬼です。
要するに、十二鬼月で7番目に強い鬼です。

この鬼は、夢を操る血鬼術を使って、相手を戦闘不能にして倒します。

鬼である禰豆子以外の4人を眠らせてしまい、本人たちが心地よく、都合のいい夢を見ている間に、精神崩壊を起こさせて戦闘不能にしようとします。

まずは、炭治郎が、夢で鬼から攻撃されている事に気づきます。
煉獄さんも危なかったですが、持ち前の生存本能で無意識で精神崩壊を免れます。
あとの二人も、なんか上手い事、精神崩壊を脱します。

その後、それぞれが、それぞれの特徴や力量を発揮して、列車に乗っていた200人の命を守りながら、下弦の鬼「魘夢(えんむ)」と戦います。

煉獄さんの目指す優先順位は、鬼に勝って倒す事を目指すが、人命が優先されるというものでした。

これは、煉獄さんが受け継いで来た宿命というか教えが背景にあります。
「与えられた才能は、弱い物を守るためにある」というものです。

だからなのか、煉獄さんは「強さ」に対して、強烈な憧れを持っています。

彼が思う「強さ」において、身体的能力としての強さは、彼が思う「強さ」を実践するための重要な能力のひとつであると認識しているように見えます。

そして煉獄杏寿郎が憧れる「強さ」を解釈しうる物語が、映画館で配られた単行本に描かれていました。

自分を遥かに上回る鬼と戦っていた仲間の鬼殺隊剣士を見て、「彼らは、自分以外の誰かを命を懸けて助けようとした」「君たちの様な立派な人に、いつかきっと俺もなりたい」と言います。

この言葉を発した背景は、もっと様々な出来事に基づきます。
とにかく、彼が思う「強さ」を言語化するのは難しいので、この後の話と併せて、物語を見て理解して頂くしかないかもしれません。

鬼滅の刃は、言葉の力が凄い。言葉が強い。
強いがゆえに、映像とセットで観なければ、ちゃちに聞こえてしまうほどです。

鬼滅の刃には、熟語が沢山出てきます。
この、いくつかの漢字で一つの意味を成すような熟語についてですが、最初ピンとこなかったけど、
結果的に共有され反復され、強い印象を残す効果がありますね。

この熟語を、技や言葉に込めている事が、カッコよさと奥深さを、両立している理由だと思います。

そして、一人の死者も出さないまま下弦の鬼「魘夢(えんむ)」との戦闘は、終盤へ向かっていくことになります。

魘夢は、列車と融合して、乗客を人質にする形の戦術を使います。

この戦闘シーンは、漫画に比べ、表現がかなりスケールアップしています。
長く狭い列車の中での戦闘になるんですが、煉獄さんの猛々しい攻撃は、車両の5両分を跨いで大迫力を演出しています。

夢から覚めていない「雷の呼吸」を使う「善逸」は、寝ると本領を発揮する特性があるので、寝たままめちゃくちゃ強いっていうw

逆に、眠らされたことが、彼にとって最適な環境を作っているという面白さがありました。

善逸は、不器用なのか、雷の呼吸の6つある型のうち、壱ノ型:霹靂一閃のひとつの型のみしか使う事が出来ません。

逆に善逸以外がこの型を使えないという、至高の型だというのもカッコいいw
この霹靂一閃は、雷の呼吸における全ての基本となる型だそうです。

この型は、神速の踏み込みからの居合い一閃。
速度のみが物を言う直線的な攻撃が特徴です。
その強烈な踏み込みによって、雷鳴のような音がします。

映画内におけるこの型を使った攻撃が、めちゃくちゃカッコいいんです。
列車の窓が、善逸の霹靂一閃から起こる雷の閃光によって、リニアにそして一瞬で走り抜ける様は、狭く長い列車での戦いにおいて、最も絵になるシーンでもありましたね。

武道においては、この踏み込みというのが、最も基本的で最も重要な要素です。
一瞬にして相手との間合いを詰める動作は、強力な脚力と併せて、相当量の反復練習と、体幹を必要とします。

足の運び、体の姿勢、力を入れるタイミング「極め」のすべてが洗練されている必要があります。

こうやって脚力と併せて、武道では驚くような移動速度を実現しますが、実際には、この踏み込みが目に見えないほどの速度になるのには、理由があります。

それは、シルエットです。
視覚工学的にいうと、人間を含む動物は、ものを視覚的に把握するのに、輪郭を抽出して物の大きさや形を把握します。

要するに、私たちは「物の輪郭」しか見ていないという事です。
したがって、踏み込んで相手との間合いを詰める時に、相手から見て、シルエットに変化を与えず接近すれば、動いているという認識が出来ない為に、瞬間移動したかのように目の前に現れる事が可能です。

これも、やはり、人間が短命で非力であるために生まれた技であり技術ですね。
実は、このあたりが鬼滅が発するメッセージの一つだと思います。

下弦の鬼「魘夢(えんむ)」との決戦に移る訳ですが、魘夢は、相手を直接眠らせる血鬼術を使います。

あらゆる所に存在する魘夢の眼を見た瞬間、眠ってしまうというやばい術です。
炭治郎は、眠らされたと認識して、すぐさま夢の中で首を切って自害します。

夢から覚める手段は、これしかないので、何度も眠っては覚醒してを繰り返しながら戦い、魘夢の首を切ることが出来ました。

鬼は、鬼殺隊が持つ日輪刀という太陽光と同じ効力のある素材で出来た刀によって首を切断されると死に至ります。

ここで戦いは終わったかに見えたんですが、直後に、十二鬼月、上弦の参の猗窩座(あかざ)という新たな鬼が出現します。

ここからが、クライマックスなんですが、今までの話は何だったんだというくらい、この猗窩座が規格外に強いw

猗窩座と戦える実力があるのは、この時点で煉獄さんのみ。
猗窩座は、煉獄さんに、鬼にならないかと誘います。

人間なのに、これだけ強く、洗練された技を身に着けている煉獄さんなら、無限の体力と老化しない体、猛獣をも遥かにしのぐ筋力を得られるのだから、その強さをもっと極められると考えるはずだと思ったんでしょうかね。

しきりに、せっかくの強さが、そのうち失われるのが勿体ないと説得します。
それに対し、煉獄さんは「如何なる理由があろうとも鬼にならない」と断ります。

そして「強さというものは、肉体に対してのみ使う言葉ではない」と一蹴します。
そして「お前と私では価値の基準が違う」と言い戦闘開始になります。

そう、そもそも命を繋いで生きている人間の「強さ」と、
鬼が認識している「強さ」とは、尺度そのものが違ったという事です。

煉獄さんと猗窩座の実力自体は、拮抗したもではあったんですが、猗窩座は、腕を切られてもすぐ再生します。

対して、煉獄さんは徐々に傷を増やし、左目は潰れ、肋骨が骨折し、内臓も損傷します。

満身創痍の煉獄さんは、一撃で多くの面積をえぐり斬るため、炎の呼吸の奥義「玖の型 煉獄」を放ち、猗窩座も「破壊殺・滅式」で迎え撃ちます。

結果、猗窩座の右腕が煉獄さんの急所であるみぞおちを貫きます。
それでも尚、煉獄さんは日輪刀で猗窩座の首を切断しようとします。

それと同時に、日の出が近づき、双方命を懸けたギリギリの状態に入ります。

煉獄さんは、幼いとき母が、「弱い人を助けるのは、強く生まれた人の責務。決して忘れないように」との言葉を思い出しながら、必死に日の出まで堪えます。

ストーリーを知っても尚、感動できそうな予感しかしません。
もう一回行ったら号泣してしまうでしょう。
カッコよさで泣いてしまいますよ。

この戦闘シーンは、クライマックスですが、手に汗握るという内容ではありませんでしたね。

至高の戦い?究極の戦い?
言葉にすればするほど、表現が遠ざかるというか、瞬きするのも息をするのも忘れるような、細い糸をピーンと張ったような、そんな戦闘シーンでした。

煉獄さんは、猗窩座の攻撃を一度でも受けてしまうと絶命するほどのリスクと、回復によって、まったくと言っていいほどダメージを受けない猗窩座。

戦力として、圧倒的に弱い人間が、ここまでたどり着けるのかと。
この戦力差を埋めていたのは、煉獄杏寿郎の、まぎれもない準備と覚悟。

この時、この鬼滅の刃という物語が、このまぎれもない準備と覚悟を、1000年に渡って繋ぎ、積み上げていき、人間の本性であり脅威である鬼を滅するという事がどういうことなのか、少し分かったような気がしました。

結局は、猗窩座にもう一息で逃げられることになります。
この時、炭治郎が、逃げる猗窩座に対して、日輪刀を投げ差し「逃げるな」「誰も死なせず守り抜いた煉獄さんの勝利だ、猗窩座の負けだ」と叫びます。

ここは観ていて、くっそー、惜しい!悔しい!と強烈に思いましたね。
映画終わってからも、くっそーって言ってましたしw

このあたりが、人間と鬼の、生きる上での戦略の違いだとも言えますね。
鬼は、おそらく死ぬとき以外「くやしい」と思う事は無いと思います。

人間は、共感し、それを継承することが出来ます。
個としてではなく、種、すなわち集団として命を保障します。

炭治郎は、煉獄さんの姿、戦いを見て「くやしい」思いをすることが出来たという事です。
この「くやしい」という思いは、人間にとって、自らを顧みる為の、強烈な原動力になります。

したがって、1000年にも渡る鬼殺隊の戦略が成り立つと言えます。

逃げる猗窩座は、「お前から逃げているんじゃない」
「俺は日光から逃げてるんだ。こいつは脳みそ詰まってないのか?」

などと、心の中で言いますが、猗窩座基準の「強さ」においても「負けた」と感じて居たかもしれません。
絶対的だと思っていた「強さ」に疑問が湧いた、そんな猗窩座の表情でした。

最後に、煉獄さんは、死んだ母親の姿を見て、「俺はやるべきことを全うできましたか」と尋ねます。

母親は「出来ましたよ」と答えます。
そして煉獄さんは、笑顔で息を引き取ります。

この猗窩座戦は、この戦闘20分間だけで、おつりがくるほどの内容でした。
投げ銭システムがあったら、追い銭してましたね。

鬼というのは、人間にとって、魅力的な存在にも映ります。
永遠の命、高い能力、失うものがあったとしても、欲しくなるものなのかもしれません。

冒頭でもお話したように、LIFE3.0は、正に鬼そのものです。
自らのハードウエアさえも変化させることが出来る、太陽を克服した鬼ですね。
私たちの未来は、鬼の長である、鬼舞辻無惨と同じような立場とも言えます。

これは、私たちの未来に訪れるであろう生き方を、考えさせられるものです。
その場合、モチーフは、鬼じゃなくても、仙人でも神でもいいですね。

永遠の命を目指す生命。
そこから生まれるであろう、未知の価値観を表現しているのかもしれません。

作中に、人間には、限りある美しさがあるという表現がありました。
人とは何者なのか?という事も色々と考えさせられる映画でもあります。

限りある美しさ、これは「尊い物」を指すのだと思いますが、辞書を引くと、尊いは「崇高で近寄りがたい、神聖、高貴」「きわめて価値が高い、非常に貴重」と言う意味だそうです。

鬼よりも人間の方が尊いなどと、軽々に言えませんが、少なくとも、人間の立場でポジショントークすれば、猗窩座君は、至高の存在と呼べる位置、すなわちチャンピオンにはなれませんね。

鬼滅の鬼というのは、基本的に死ぬことは無いので、死に物狂いにはなれません。

チャンピオン、すなわち一番を争うというのは、全て準備したもの同士の争いなので、この死に物狂いが、豆粒にも満たない要素であっても勝負には勝てません。

そこに価値を見出すなら、人間は限りある美しさを持つと言えると思います。

とは言え、永遠の命を与えられると言われて、断る人がどれくらいいるでしょうか?
人間は死ぬものだとか、尊さを求めるなら、断ると言う人も居るでしょう。

しかしこれは、実際にその判断とリアルに向き合わない限り、机上の空論です。

歴史を見ても、生物の本能から鑑みても、自ら死を選ぶ理由はほとんどありません。
この判断は、その場で、死ぬか生きるかの判断と同じだからです。

今、鬼滅の刃のようなフィクションを観る感覚というのは、随分変化していると思います。

あり得ない世界と分かって観ているのと、あり得るかもしれないという世界を観るのでは、メッセージの受け取り方は、まったく違ってきますね。

現代人は、生きているうちに、老化、健康、なんとか出来るかもしれない。
という感覚を共有してますよね?確実に。

今は、それを本気で考えられる時代なので、受け取り方も広がったと思います。

鬼滅の刃の物語は、実に共感出来る、想像出来るという点においては、主人公の炭治郎が、ありふれた少年というのも共感しやすく、全体の面白さにつながったかもしれません。

煉獄さんと猗窩座の戦いにおいて、限りある命を持つ人間だからこそ、洗練されるみたいな話ありましたね。

物語全体として「洗練」という言葉を感じることが出来ると言ってもいいかもしれません。

洗練とは何か?

辞書では、文章や人格などを練りきたえ、上品なものにすること。
だそうです。

そういう意味では、「型」と、「洗練」は相性がいいですね。
武道では、型がとても重要な要素です。

これは、型自体が合理的な作りになっていることもあるでしょうけど、合理的であろうがなかろうが、同じ型を反復して身に着けることによって、少なくとも、ひとつの基準というものを持つことが出来ます。

基準を持つことによって、人間は顧みる事が可能になります。
形無しの場合、比較する基準が無いので、顧みることが極めて難しくなりますね。

余談ですが、鬼滅の刃には、日・炎・水・雷・岩・風・月・恋・蛇・花・蟲・音・霞・獣
14種類の呼吸が存在します。
そして、それぞれにいくつもの型が作られています。

呼吸の始まりは、日の呼吸。
そこから、炎・水・雷・岩・風の5つの基本呼吸と月が生まれます。

さらに、炎から恋、水から蛇・花・蟲、雷から音、風から霞へと派生したそうです。
ちなみに、獣の呼吸は、伊之助の我流。(応用して作った)

作中で、日の呼吸以外は、日の呼吸の劣化版だと煉獄さんの父親が言うシーンがあります。

実際には、これだけ沢山の型に分化していったというのも、技術の応用、すなわち、新しい価値を積み上げによって作り出したと言えます。

これは、寿命の短い人間が命を繋ぐ中で、それぞれの長所を蓄積した結果だと思います。

作中においても、戦闘中に新たな型をあみ出し、危機を脱するシーンがありますしね。

呼吸も同じく、身体能力を最大化するために人間があみ出した技術です。
特殊な呼吸法によって、血中酸素濃度を上昇させるそうです。

何故感動して涙が出るのか?

色々あると思いますが、辛い悲しいシーンや、やさしさを感じるシーン、鬼気迫る、登場人物の迫力を感じるシーンなどが原因でしょうか。

おそらく、作中のどの部分においても、おおよそ万人が共感できる、内容やシチュエーションなんでしょうね。

大小違いはあるにせよ、人間みな映画で描かれていたシーンと同じような体験をしているという事です。

それぞれ、様々な実体験を抽出して共通点をうまく表現出来ているのかもしれません。
だから、多くの人が共感し、感動して泣くのだと思います。

それぞれ、なりたい自分の要素が大きい場面でこそ、感動も大きくなります。
私は、「カッコいいシーン」に異常に心が反応しますから、

弱いものを守っている剣士に強い憧れがあるのだと思います。
私も、こういう風に、この人たちの様になりたい!みたいな。

もうひとつは、至高の領域に達した人にも憧れます。
これはアスリートが結果を出したときに感動するのと同じですね。
こんなことが可能なのかと、驚きとともに、その努力に心打たれます。

これに加えて、映画ではビジュアルとサウンドを効果的に使う事で、感動を一気に高めることに成功しています。

もちろん、描かれている親子愛に強く憧れる人、自分と違うものに対する理解力に強く憧れる人、眼をそらさず、前を向いてブレない人物に憧れる人。

この映画では、登場キャラクター×シチュエーション分の憧れを受け取ることが出来ます。

なぜ、ねずこは可愛いのか。

まーいちいち可愛いんですよw
眼(丸くなったり)
うーとかあー(赤ちゃんみたい)
可愛いの詰め合わせですよ。

透き通る世界

これは、究極の観察眼でしょうね。
これ以外にも、こういった特殊能力がいくつか存在します。

人間の持つこのような能力は、鬼の持つ血鬼術とはちがって、透き通る世界、痣、赤色刀は、訓練によって習得可能なものです。

一種の悟りの様なものでしょうかね。
これも、技や感覚が洗練されると実現します。

また、この映画では、自分が、何に対して憧れをもっていたのか?
そういう事を考えさせられた映画だったように思います。

ひとつあるとすれば、私は、覚悟を持った行動そのものに憧れを抱いている事が分かりました。
覚悟はカッコいいという事なんでしょうね。

覚悟を辞書で引くと、危険なこと、不利なこと、困難なことを予想して、それを受けとめる心構えをすること。
迷いを脱し、真理を悟ること。
きたるべきつらい事態を避けられないものとして、あきらめること。
観念すること。
覚えること。記憶すること。
知ること。存知。

だそうです。

なるほどと、より正確に知る事が覚悟に繋がり、そこから生まれる行動にこそ、人間は感動を覚えるのでしょうね。

完全な連続性は、安定し面白さや美しさを失わせる。
不完全なものの中にこそ洗練がある。

映画鑑賞中、そういった思いに支配されていた気がします。

最終的には、自分がいかに満足できるか。
様々な行動に満足できる生き方が出来るかどうかは、

自分のミッションを知る事。
自分に出来る事を知る事。
すなわち覚悟を持つという事。

そのうえで、自分自身に満足のできる行動がとれ、結果、満足できる人世が歩めるというメッセージだと思います。

この映画を観た人は、自分の役割を探し始めたかもしれませんよ。

覚悟を持つと、周りから見て「カッコいい」という事になるのかなと。
そう思いました。

最後に、
鬼滅の刃で描かれる、人間や、剣士の強さの源とは、その強さの源や武器は、ズバリ確率だと言いました。

鬼滅の刃における、鬼殺隊と鬼との闘いは、常にギリギリです。
鬼滅の刃では、圧倒的な鬼の力を前にして、沢山の奇跡が起こり続けます。

しかし、その軌跡には必ず理由があり、その軌跡を生み出した根拠があります。
その根拠を生み出すのは、人間「たち」です。

人間たちは、1000年をかけて、その準備を、根拠を作り続けています。
ひとつの奇跡を起こすために、想像を超えた準備がなされていて、鬼を滅殺するのに関わった個体は、とんでもない数です。

この1000年をかけて積み上げられた確率が、あの奇跡を起こしています。

今回の映画では、まだ出てこない先のストーリーですが、1000年前、鬼の長、鬼舞辻無惨よりも圧倒的な力を持つ継国縁壱(つぎくに よりいち)という剣士が存在していました。

実は、1000年前に、この二人は戦うのですが、継国縁壱は、鬼舞辻無惨に逃げられてしまいます。

要するに、縁壱は、無惨に勝つことは出来ても、倒すことのできない相手だった訳です。

これは、鬼舞辻無惨に歯が立たなかったと同じ意味です。
縁壱は、人間なのでそのうち死んでしまいますからね。

しかし、人間たちは、倒せる確率を、その純度を、長い時を掛けて練り上げます。
これは、現代の私たちが知る「技術」です「知識」です。

結果、最終的に鬼舞辻無惨を倒すことを可能にしたのは、つまるところ、科学の力でしたね。(もちろんそれも奇跡の一部ですが)

この積み上げられた確率による奇跡が、私たちの知る「洗練」という言葉なのだと思います。

だからこそ、私たちは、品性に対して強い憧れを抱くし、それを伝わる形で映画化した鬼滅の刃「無限列車編」は、これだけ多くの共感と、感動を巻き起こしているのだと思います。

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