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【短編小説】ピアノマン

「彼氏いないの?」

僕たちは今日はじめて会って、一緒に焼き鳥を食べて、そして今彼女を駅まで送るふりをして散歩している。雨が降った後のじめっとした空気で、明日も雨だねとか早く梅雨が終わればいいねとかその場しのぎの天気のことを言いながら歩いて、ふと彼女の左手が僕の右手に触れたから僕はそのまま左手をさらった。さらっておいて、そんな質問をした意気地なしの僕を、彼女はからかうように少しだけ微笑んで、もしもさと呟いた。

「もしもさ、仮に彼氏がいたとして、今この状況。和真くんと手を繋いでいるっていう状況はさ、浮気にはならない?キスとかセックスとか、和真くんにとっての浮気の境界線はもっと深いところにあるわけ?」

そういうもしもの話をSNS上でもよくする子だったが、それが仮なのか本当なのか会ってみてもよく分からない。

「僕の境界線としては、もし君に彼氏がいたとしたらこの状況は、浮気だと思うよ。」

「そっか。そうなんだね。うん、私も同じ。これは浮気だよね。」

そこで、会話が途切れるから、やっぱり彼女のもしもはリアルな世界なんだと思った。所々にある水溜まりに車のライトや信号の明かりが反射して俯いていても青く見えたり赤く見えたりした。そのまま手を離せずにいた僕を横目で見て彼女はまた微かに笑った。

「でも私ね、浮気できるほど賢くないの。そういうの上手じゃないから。」

僕は、ふぅんとか、そうかとか、そんな相槌でやり過ごしたかったが、彼女はそのまま続けて言った。

「いないよ、もうどれくらい経つかな。3年?いや4年か。盆が過ぎたらね、梅雨が終わって夏が過ぎたらもう4年になるね。お盆休みの最後の日に振られたの。でもよかった、もしさ、盆のはじめに振られてたら死んだ婆ちゃんと一緒にあの世に行ってたかもな~。ほら、盆って先祖が帰ってくるって言うでしょ?よかったよ、婆ちゃんたちがあの世に帰ってから振られて。」

1回目のもしもは仮定の話で2回目のもしもこそ本当だったかもしれないと思っていると、後ろから自転車が僕たちを追い越して微かな風と音で僕は彼女の手を少しだけ強く握った。そのあとすぐにその自転車の人が纏った柔軟剤の香りが一瞬して右手の力を弱めた。

「じゃあ4年も恋愛してないの?」

僕はまたろくでなしの質問をして、すると彼女はからかうように笑った。

「恋愛ってさ、ひとりじゃできないでしょ?いくら好きでも、向こうがそうじゃなかったらそれはもう恋愛じゃないよ。」

「片思いは恋愛じゃないの?」

「和真くんってたまに小学生みたいなこと言うよね。」

僕はきっと焼き鳥屋かどこかで小学生が言うような幼稚なことを言ったのだろう。

「私は君を好きで、もしかしたら君も私を好きかもしれない。」

僕は少しドキッとしたが、彼女はそのまま続けた。

「その状況は恋愛だと思うよ。けどさ、私は君を好きだけど、君の好きな人は別にいるんだって知ったらもうそれは恋愛にはならないよ。そういう意味でね、私はもう恋愛してないかな。ひとりで生きていけるの。このまま君が私の左手を離したら、またひとりで生きていくのよ。平気、私はひとりでも生きていけるわ。」

僕は何も言えなくて、ただ左手は離せずにいた。

「焼肉もお寿司も1人で全然平気。飛行機も乗れるし、海外旅行も1人でへっちゃらよ。でもね…」

彼女が目を掠めて続けた。

「でもね、例えばの話だけど。」

また彼女の好きな例えばの話が始まった。

「例えば、少し体調崩してさ、風邪かなって思って病院に行ったとするじゃん。まあ念の為と言って採血したら思いの外結果が良くなくて精密検査とかされてさ、診察室が妙な空気になるの。それでね医者から言われるの。肝臓癌が見つかりました。どうやらあなたの病気は進行していてステージ4です。残念ながら手術はできません、もってあと半年ほどだと思います。残りの人生を悔いのないよう大切な人とお過ごしください。って言われたらさ。大切な人って誰だろうって。親や兄弟とは別にね。最後に誰とどんな風に過ごすんだろうって。そういうことを考えると少し1人が怖くなるかな。」

ただ君の左手だけをさらっている僕なんて彼女の大切な人にはなっていないと気づいた。どうしようかと考えていると彼女が足を止めて道にあるベンチを見つめて座ろうよと促した。木にたっぷりと水を含んだそのベンチは座ると少し冷たさを感じて、彼女はスッと僕の手を離し持っているエコバックを敷いた。僕たちはそのエコバックにどうにかおさまろうとお尻の半分を譲り合って今度は君の右手が僕の左手がさらった。

「4年前の彼なんてさ、もう記憶ですら曖昧だもんね。覚えてるって言ったら誕生日とよく聴いてた曲くらい。ビリージョエルのピアノマンが好きでさ。最近cmでも流れてきて、嫌になる時あるな。あとはもうあんまり。でもね、もし今、余命宣告されて死を覚悟したら、私の人生で私が最後に愛した人はその人になっちゃうんだよ。その人にとって私なんて数ある女性のうちの1人にしか過ぎないのに。最初でも最後でもなくてさ、中途半端な数で。もう何番目かも分からないだろうね。そういうのさ、ちょっと寂しいよね。愛されるなら、やっぱりさ人生の最後に愛した人になりたい。」

彼女の例えばは、話すたびにリアルな世界に引き込んでいく。もしかしたら彼女は大きな病気を抱えていて、最後の過ごし方を本気で考えているのかもしれない。ふと考えると僕もいつの間にか彼女のもしもが移ってきていること気づく。少しの沈黙を破って僕は彼女の横顔を見ながら言った。

「このまま僕が手を離さずに君とキスをして一緒に朝を迎えたら、僕は君の最後になる。」

僕の渾身の告白はそうなの?と笑いながら、ボクサーパンチを意図も簡単に避けるような華麗なディフェンスで受け流した。まるでそんなことにはならないよって言ってるみたいに。彼女は遠くの空を見つめて、夜の空に飛ぶ飛行機を眺めていた。あまりにも美しかったのは、その瞳から溢さないように溜めている涙が夜の明かりに反射してキラキラしていたからだろう。その時、彼女が最後にしたい男は、他の誰でもないことに気づいた。僕ができることはひとつ。

「ピアノマンの彼のどこが好きなの?」

彼女が溜め込んだ空白の4年間を聞いてあげよう、今年の盆が終わるまでに。

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