その日、全世界で(第1章)
第1章 由香の告白
暗いニュースばかりで落ち込んでしまう私が唯一楽しみにしているのは、お笑い番組だ。最近はテレビ番組でなくても、自分の好きなコントや漫才をYouTubeで見ることができるのでありがたい。この世の嫌なことを一瞬だけでも忘れさせてくれるお笑い芸人さんには本当にリスペクトしかない。私にとっては、ありがたい存在だ。
夜11時になると私、田村みゆは床に就く。いつもの通り、私が横になると、決まって左脇のあたりにミルクがやってきてすぐに寝る前のルーティーン、毛づくろいをする。ミルクはその名の通り真っ白の雄猫(2歳)である。いとこが飼っていた猫が子猫を3匹生んで、その1匹が我が家にやってきたのである。
夫も息子たちもミルクに自分のベッドに来てもらいたいのだが、ミルクは私のベッドにしか来ない。彼らの寝相が悪いので致し方ないのである。私はミルクをいつも通り左手でなでながら、右手では携帯でYouTubeの漫才動画を見ていた。すると親友、辻井由香からメールが来た。話があるから会おうというものだった。
由香は高校時代からの親友で古い付き合いだ。子供たちも小さい時から遊んでもらっているので、とても懐いている。しかし、私は会うたびにいつも複雑な心情になる。独身のキャリアウーマンで今でも若さと美貌を保つ由香を見て、化粧っ気がなく古びて疲れ切った顔の自分と比べてしまうからだ。それに子供たちからもお母さんと由香ちゃんが同じ歳だなんて信じられないと何度言われてきたことか。その度に地味に傷ついているのである。
とはいってもこの歳になって、気の知れた由香と会うのは気も楽だし楽しい。しかも、今回誘われたのは、由香がお気に入りの超高級ホテルのビュッフェだ。たまには美味しいものを食べて気分転換するのもいいだろうと考え、由香と食事に出かけることにした。
子供が小学生の頃までは、なかなかランチにも行けなかったが、下の子が中学生になる頃から自由に出かけられる時間が増えた。子供の成長は少し寂しい気もするが、自分の行動制限が解かれた部分もあり、楽しいこともある。
早めにホテルに着いたので、ロビーの高級感溢れる座り心地抜群のソファーに座り、人間ウォッチングをしていた。当然なのかもしれないが、ホテルのフロント受付、ベルボーイ、黒服など、みんながマスク姿なのも不気味な感じがした。ホテルマンの笑顔が見えるのも目だけになったからだろうか?以前より、サービスが悪いと感じてしまう。
客として来ている営業マンが得意先の人と待ち合わせをしていたり、年配の方々が同窓生何人かで集まっている程度で、相対的に客数も少ない。そんな中、顔の半分隠れている者同士が頭を下げたり、話しているのを見ると、なんというか、活気がなく、寂しい限りであった。
コロナで世界は一変してしまった。私も20代の頃はバリバリ働いていて、たまに同僚や友達とこのホテルに食事をしに来たものだった。その頃は、バブル絶頂期で、みながエネルギッシュで活気があった。日本中の誰もが自信に満ちているように思える時代で、一万円札があちらこちらを行き交っていた。1回のボーナスも公務員の1.5倍から2倍近くはあったような記憶がある。今では考えられない古き良き時代だったのだ。
昔を懐かしんでいると同じ歳とは思えないスタイルと髪型の由香がやってきた。髪はストレートで毛先は今流行りのゆるふわカール、服装はシャネルのピンクのスーツに白のパンプス、真珠のネックレスと指輪、エルメスの白いバックだ。
由香は学生時代のように右手を振りながら「みゆー、ここ、ここ。ここに来てー」と叫び、手招きしている。ホテルで大声を出す人はいないので、ロビー中の冷たい視線を浴びながら、由香のいる場所まで速足で歩いた。由香は、そんな空気をまったく意に介さず、手入れされた白い歯を見せながら
「久しぶりー。お腹がすいたから、すぐに入ろう。予約しているし、とりあえずさっさといっぱい取るだけ取って、ゆっくり話しながら食べよう。先に行かないと、どんどん混みだして汚くなっちゃうから」
と言い、私の背中を両手でポンポンたたきながら、私を前へ前へと追い立てるようにして、ビュッフェ開催中の店の入り口まで私の背中を押し続けた。
ホテルのビュッフェは本当に久しぶりだ。ごはん系だけでも、白飯、五穀米、玄米、もち麦入り白飯、チャーハン、カレーピラフ、シーフードドリア、ちまき、そして握り寿司には鯛、ヒラメ、赤貝、いくら、うに、しゃこ、エビ、甘えび、あわび、ウナギ、イカ、タコ、サーモンがあり、カリフォルニアロール、巻き寿司、ちらし寿司、押し寿司、いなり寿司と豊富だ。
それに、ステーキ、ローストビーフ、北京ダック、とんかつ、煮込みハンバーグ、オマールエビのグラタン、伊勢海老の炭火焼き、小籠包、スパゲッティーは海鮮ペペロンチーノ、ホタテのキノコの醤油風味、ウニたっぷりの生クリーム仕立て、蟹とほうれん草のクリーム仕立て、タコとズッキーニのジェノベーゼなどがあり、その隣にはカツ、玉子、ハムとレタスのサンドイッチとキウイ、イチゴ、マンゴーに生クリームたっぷりのフルーツサンドもあった。
そして、いくつになっても楽しみなデザートも高級ホテルは別格だ。ティラミス、マンゴープリン、抹茶ムース、イチゴのババロア、チョコレートムース、チーズケーキ、ベリーケーキ、イチゴのショートケーキ、モンブラン、季節の果物タルト、抹茶ケーキ、あまおうイチゴのミルフィーユ、チョコレートのミルフィーユ、静岡産抹茶のミルフィーユ、ダブルチョコレートシュー、エクレア、プチシュークリーム、バニラアイス、抹茶アイス、チョコレートアイス、クッキー&クリームアイス、ラムレーズンアイス、チョコミントアイス、レモンシャーベット、イチゴシャーベット、メロンシャーベット、オレンジシャーベット、ソフトクリーム、白玉入りお汁粉、ミカン入りヨーグルトなどである。
空腹で食べに来ると、人間の食欲は歯止めがきかず恐ろしい。自分の胃袋の許容範囲以上の食べ物を何皿も何皿も取ってきてしまう。夕飯抜きの覚悟で食べるしかないと、気合をいれて食べ始めようとした、その時、由香が声をかけてきた。
「ある程度お腹が満たされてからでいいのだけど、ちょっと真剣な話があるの。まあ、とりあえず、いっぱい取りすぎたし、先に食べちゃおう!」
私はもう鯛の握りずしを口に入れていた。やはり、回転寿司やファミリーレストランのビュッフェとは違う。身も分厚くて、新鮮だ。一口、一口、幸せをかみしめながら、私はひたすら取ってきたものを夢中で食べ進めた。
由香は会社の話やご両親の話などをしながら食べていたが、私は空腹すぎるのと、時間内にあとどれくらい食べられるのかを自分の胃袋に確認しながら時計を見て、ひたすら戦闘モードで食べ続け、由香の話は正直ほぼほぼ聞いていなかった。
「それにしても、相変わらずの痩せの大食いだよね。昔からちっとも変わらない。私の方が絶対に食べてないのに、いつも太るのは私だったよね。まあ、今は歳を取ったから私も太らなくなったけどー。本当にみゆは中年の大食いYouTuberになれそうだよね」
「YouTubeの世界はそんなに甘くないよ。私くらいの大食いではとてもとても、収益なんてとれないよ」
「あ、忘れていた」
由香が急にフォークを置いて目を閉じ、両手をテーブルの下にして、何やらぶつぶつ言いだした。
私は、不思議に思いながらもあまり気にせず、持ってきた食事の完食を目指し、ひたすら食べ続けた。そして、そろそろお腹が満たされてきたので、デザートを大皿2枚に載せられるだけ載せて席に戻り、マイペースでゆっくり写メしながら食べている由香に聞いてみた。
「さっき、目を閉じて何ぶつぶつ言っていたの?」
すると、由香が満面の笑みでこう返した。
「私、クリスチャンになったの。それで、食事の祈りを忘れていたから、思い出して慌てて祈っていたのよ。みゆに話があるって言ったでしょ。このことだったの。びっくりした?」
私は間髪入れずに質問した。
「クリスチャンって、キリシタン?」
「いつの時代の話?今は、クリスチャンっていうのよ」
「それってカトリックとプロテスタントがあるよね。どっち?」
「プロテスタントだよ」
由香は即答した。
私たちは二人ともカトリック系の高校に通っていた。だから、キリスト教にはカトリックとプロテスタントがあることは知っていた。それに週に一度「宗教」の授業があったので、ほんの少しだが、キリスト教については知識があった。
「どうしてクリスチャンになったか気になるでしょ?話すね。実は一年くらい前にココと偶然、高島屋の本屋で会ったのよ。それで、話が盛り上がったから、ドーナッツ屋さんに場所を変えてお互いのことを話したのよね。そしたら、ココに色々見抜かれちゃってさー。私の心の奥底にあるいろいろな思いとか悩みとかさ。多分3時間は話したよ。ドーナッツとコーヒーを何度もお代わりし続けてね。それで、帰る間際に私がまた、どこかで会いたいから連絡先教えてと言ったら、高校時代みたいに教会に来たらと誘われてー。学生の頃、みゆも何回か行ったことあったよね。アメリカ人が多いから英会話の勉強になるよってココに誘われた、あの教会。覚えている?それで、半年の間ずっと毎週通っていたの。そして、結果、クリスチャンになったってこと」
由香は、いつもにもましてにこやかに穏やかに自信に満ちた様子で話してきた。私は、何か一つの宗教にこだわるのは、昔から嫌いだったので、すぐさまこう返した。
「そうだったの。ココはずっとあのままってことだね。熱心だったものね。由香がクリスチャンになったのは、いいと思うよ。由香が決めたことだから。でも、私まで教会に誘うとかは絶対にやめてほしい。私は、昔ココに話したけど、無宗教でいたいから」
由香は、ニコッとして大きくうなずき、それ以上その話は何も言わなかった。私も気まずくならないように、最近はまっている漫才師の話や家での息子たちとの会話、最近行った食べ放題の店の話などをして、由香との関係がこれで切れないようにと笑顔を作り、頑張って話し続けた。
一瞬空気が張り詰めた気もするが、なんとか乗り切って私たちはまた美味しい物を食べに行こうという感じで別れた。
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