言語科学への招待 (i)

生得的な能力



特別な障害がない限り,人間は5歳になる頃には母語が使えるようになります(早い子供たちもたくさんいます).1歳前後で二足歩行ができるようになったり,歯が生えるようになってきてミルクや母乳以外の物を食べられるようになったりする性質と同じで,多少の個人差はありますが,それほど大きな違いはありません.

これらは,全ての人間が備えている性質です.生まれながらにして皆が備えている能力ですから,生得的な能力という言い方をしてもいいかもしれません.生得的な能力には段階性があって,本当に生まれてすぐの瞬間から持っている能力である,泣くこと,肺で呼吸ができること,母乳を飲むことができることといった能力もあります.そして,きちんと光が目に入る環境であれば,赤ちゃんは白黒で見えている状況から,1ヶ月程度で赤色,3ヶ月程度でその他の色が見えるようになってきます.とても残酷ですが,産まれてからずっと目隠しをされた状態で数年放置されてしまうと,目が見えなくなってしまいます.視覚能力を発現させるためには,光という刺激が必要になるわけです.また,生後半年から8ヶ月くらいの頃からハイハイをすることができるようになりますし,12ヶ月前後で2本足で立つ練習を何度か繰り返すことで,少しずつ歩くことができるようになります.歩行することができるようになるためには練習が必要ですから,二足歩行の能力は生まれた瞬間から持っている生得的な能力ではありませんが,二足歩行ができる能力を潜在的に持っているからこそ練習することで2本足で歩くことができるようになります.

知らなくとも知っている知識

言葉はどうでしょうか.もちろん,産まれた瞬間から言葉が話せる赤ちゃんはいませんから,産まれた瞬間から存在する能力ではなさそうです.ですから,言葉を話せるようになるためには,お父さんやお母さん,お兄さんやお姉さんなどの周囲の人たちからたくさん話しかけられ,自分からも言葉を話すようにする練習がたくさん必要になってきます.潜在的にはみんな言語を話す能力を持っていますから,(障害がなければ)そのうちみんな母語は使えるようになります.というわけで,二足歩行以上にたくさんの経験を必要とはしますが,人間はみんな生得的に言語を使う能力があると言えそうです.

生得的な能力ですから,学習においてはそれほど負荷がかかるわけではありません.たとえば,以下の日本語の例に関しても母語話者であればその区別が容易にできます.

(1) a. 小指だけが曲げられないよ.
      b. 小指だけを曲げられないよ.

(1a)では,他の人差し指,中指,薬指は曲げられるのだけど,小指は曲げることができないという意味がありますし,(1b)では,小指だけを曲げて薬指を曲げないといったことができない(小指も薬指も一緒に曲げてしまう)という状況が表されています.「が」と「を」の違いだけですが,随分と違う意味になっていまいます.他にも,以下の例などはどうでしょうか.

(2) a. 父が帰ってきたら,書斎で仕事をする.
      b. 父は帰ってきたら,書斎で仕事をする.

違いは「が」と「は」だけですが,(2a)では書斎で仕事をする人がこの文を発した話者のように感じられますし,(2b)では父のように感じられます.これは「は」を使った文が従属節では使用されないという規則のためです.ですから,以下のような例では「は」を使った例が不自然に感じられます.

(3) a. 私が作ったロボットです.
       b. ??私は作ったロボットです.

(3a)では問題なく解釈することができますが,(3b)は変に感じられます.「私」という人と作ったロボットが同じという状況を想像すれば不可能ではありませんが,私がロボットを作ったという意味では使うことはできません.

このように助詞というのには複雑な使用法がありますが,日本語を母語とするのであれば容易にこれらの違いを理解することができます.ただし,これらの事象を説明するには特殊な訓練が必要です.つまり,自分では意識していないような知識を使いこなすことができているわけです.言語学ではこのような知識を「無意識の知識」と呼んでいます.言語学の目的はこのような無意識の知識がどのようになっているのかを解明することを目的としているわけです.

言葉の中身

さて,人間であれば言葉が使えるようになるようですが,言葉とはいったいどのような能力なのでしょうか.無意識の知識にはどのような種類があるのでしょうか.言語研究では,言葉は以下の項目に細分化することができると考えられています.

(3) a. 複雑な音声:言語音は複雑な音を組み合わせることでできています.ただし,聾者の場合には手や顔の動きなどを利用した手話という言語があります.
      b. たくさんの単語:特定の言語音が特定の概念と結びついています.たとえば,「うさぎ」という音がウサギ目・ウサギ科の耳の長い哺乳類を指し示すことができ,こういった単語をたくさん活用することができます.
     c. 単語の組み合わせ:単語を組み合わせて句や文といったかたまりを作ることができます.たとえば,「野ウサギ」や「うさぎが逃げたよ」といったかたまりにして特定の概念を表すことができます.
     d. 単語や句の文字通りの意味と状況に応じた意味:単語や句が特定の意味を持っているというだけではなく,状況に応じて特別な意味が生じることを理解することができます.たとえば,「醤油とれますか」というのがただのYes/No疑問文ではなく,「醤油をとっていただけませんか」という依頼の意図で発せられることがあります.
     e. 社会状況や地域,時代に応じた特別な意味:dの「醤油とれますか」のようにほぼ依頼の意味で捉えることができるような意味だけではなく,「ぶぶ漬けどうどす」,「僕にお味噌汁を作ってくれませんか」,「ここがお前の墓場だ」,「そちも悪よのう」といった発言に特殊な意図が含まれたり,通常とは反対の意味で使われることがある.

こういった個別の事象に応じて言語研究が進められることが多いのですが,それだけ複雑なことを人間は無意識に使いこなすことができます.母語でよく使う音声であれば容易に発声することができますし,基本単語であれば意味が分からないということもありません.また,外国語として理解するのが難しくとも,母語であれば複雑な構造も容易に理解することができます.ただし,eにある状況に応じた意味を理解することはなかなか難しく,判断に迷うことが多いという点で,学習の要素がたくさん必要とされる生得的ではない能力と言うことができるかもしれません.

次回からは,これらの能力について少しずつ説明してみることにしましょう.


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