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雪国の事を想う 1

自分とっても随分古い話という感じ、しかし不思議なほど鮮明な心象である。積雪にさらされるニュースの冬になると必ず思い出す。
それは疎開したころの話だ。兵役で”武運長久”万歳などと出征する人のお姉さんに抱かれて見送ったのは、とーい遠い数え6歳ころの事であった。あの中村草田男の「降る雪や、明治は遠くなりにけり」から既に「降る雪や、昭和は遠くなりにけり」だねえ・・・。昭和も遠くなりにけりというほどの後期高齢者の一人となった今でも昨日今日のように雪に対しては敏感になっている。昭和20年3月東京大空襲(3月10日)の3日後に上野発夜行列車に乗って仙台経由仙山線で山形に入ったのである。この線は宮城県と山形県のJR路線接続の一つで、面白山トンネル(1937年開通)がある。戦後、新幹線向きの各トンネルが造られるまで、距離は清水トンネル、丹那トンネル、に次いで第3位であった。清水トンネルのことであるが、川端康成の小説あの「雪国」の一節に「トンネルをでたら雪だった」はロマン感をえぐられる部分の一節である。
それが仙台から宮城県側は3月になればほとんどの処が雪はまだらになっていて、フキノトウが目を出しているが、トンネル通過越えして山形に入るとまだ、鉛色の空、深い雪であった。奥の細道で芭蕉が夏、有名な俳句「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」を山深い岩の屹立する光景の中で詠んだところだ。しかし山寺の3月は未だ雪深いところに出るのである(今でかなり雪の量は少ないが山寺・立石寺の本堂からの里は深い雪に覆われている、それは今でも変わりない。

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