無題

俺様は猫である 第1話

その日は、私の気持ちを代弁するかのような、長い長い雨が降りしきる夜だった。

水玉模様が散らばるピンク色の傘をさして、少し傾斜のかかった道をふらふらと歩く。
ポツリポツリとしか街灯がないこの通りは、人通りもあまりなく、とても静かだった。
私は重い足を引きずりながら、あと数十メートル先にある自分の家を目指す。

気分は最悪だ。

2年間付き合っていた男に、別れを告げられた。
聞けば浮気相手がいつの間にか本命になっていたという話。

付き合いも長かったので、彼との結婚を考えることもあったのに。
それでも何となく私からその話をするのは憚られて、いずれ彼から話を切り出してくれたら、という淡い期待も抱いていた。

でも、告げられたのはそれとは対照的なものだった。

『……俺、実は好きな子いるんだ』

その言葉を聞いて、ただただ唖然とするしかなかった私。
いや、本当に夢かな。夢じゃなかったらいいのにな。
そう思ってみたものの、こっそりと腕をつねると痛かった。やっぱり現実だ……。

何なんだ、この恋の結末は。
「ドラマかよ!」と言いたくなる今の状況は、全然笑えない。

彼とのやり取りを思い出して、目尻にじんわりと涙が浮かぶ。
奥歯をギュッと食いしばって、震える唇を必死に押さえた。

足早にマンションに向かって歩く。
早くシャワーを浴びて、胸に渦巻くどす黒い感情も一緒に綺麗に洗い流してしまいたかった。

「ミャア」

その時、どこからともなく猫の鳴き声が聞こえてきた。
私は足を止め、辺りを見渡すと、街灯の下で小さくうずくまる猫を見つけた。

黒猫だ。

この雨の中、猫はびしょ濡れになって小さくなっていた。
見たところ、寒いのかぷるぷると小刻みに震えている。

「……大丈夫?」

気付けば私は猫の傍にしゃがみこみ、傘の中へ入れてやっていた。
猫は逃げずに、ただじっと私を見つめている。

よく見てみると、黒猫の目は綺麗なアイスブルーの色。
キリッとした顔つきで、どこか品が漂うそんな感じの猫だ。

「野良猫、かな……?」

高そうな猫だから飼い猫かと思ったけれど、首輪はない。
人を怖がる様子もなさそうだし、元飼い猫なのかもしれない。

さて。
立ち止まったはいいものの、どうしようかと頭を抱える。
澄んだ瞳で見つめられると、このまま雨に濡れている猫を放っておくのは心苦しい気もした。

けれど、私はついさっき失恋したばかりで、猫にかまってやれる程心に余裕があるわけでもない。
ポンポンと頭を撫でてやり、心の中で「ごめんね」と呟いてその場を立ち去ったって、誰かから責められる謂われはないはずだ。

……むしろ頭を撫でて慰めてもらいたいのは私の方だし。

すくっと立ち上がり、この場を離れる決意をする。

「よしっ」

そう言って勢いをつけてみた。
猫と目が合う。
猫はただただ私を無垢な目で見つめているだけで、そこに非難めいた様子なんてこれっぽっちも見当たらない。

さらに、猫と見つめ合う。
その時間がどれくらいだったか、私にはよく分からない。
このままここに置いていくのか、いかないのかという葛藤が頭の中で繰り返された。

「……おいで」

しかしながら、結局私の良心はそれを許さなかった。
気付けば両手を広げて、縮こまる猫にそう言っていた。
猫は逃げる素振りもなく、手を伸ばした私に大人しく抱かれている。

うちのマンション、ペット禁止なんだけどなぁ……。

そんな事を今さら思っても、もう遅い。
抱き上げた猫は思ったよりも暖かく、もはや離してしまうのが惜しいくらいだ。
そう……今の私はこんな小さな温もりにさえ、縋りつきたいくらい、独りで惨めな気持ちだった。

**********

部屋に着いた私は、猫を片手で抱いたまま洗面所へ。
比較的古めのタオルを手にして、びしょ濡れの猫の体を軽く拭いてやった。
一通り拭き終わると、猫は体をぶるぶる震わせて水しぶきをはね飛ばす。
私が荷物を置きにリビングへ向かうと、猫はその後をゆっくりとついてきた。

「はぁ……」

自分の部屋に帰ってきた安堵感からか、大きな溜息が漏れた。
別れた男の言葉が頭の中を駆け巡り、じんわりと目元に涙が溢れてくる。

あんな最低男の為に泣くもんか。

そう決めたはずなのに、安心感のある自分のテリトリーに帰ってきたからか、その決意はあっけなく崩れ去ってしまった。
もう誰の目も気にしなくていい。
それが分かると、気丈に振舞っていた仮面の自分が剥がれ落ちたのだ。
私は溢れてくる涙と鼻水をティッシュで押さえながら、柄にもなくわんわんと泣き続けた。

この部屋にも、彼との思い出がつまっている。
一緒にご飯を食べたテーブル。
大笑いしながら観ていたテレビ。
2人で寝るには狭いシングルベッド。
ケンカだって何度もしたけど、それでも彼との日々は幸せだった。

『なら、別れるしかないね』

彼が浮気をしていると告げられたとき、私は自分でも怖いくらいに冷静でいられた。
冷静すぎて、口元には笑みまで浮かべてたくらい。
人間、ああいう状況に遭遇すると、怒りを通り越して笑えるんだと思った。

でも、時間が経つと、1人になると、そうはいかないみたいだ。
感情がごちゃごちゃになって、涙ばっかり流れていく。

「ミャア」

ふと気が付くと、バスタオルの上に寝そべる猫がじっとこちらを見つめていた。
手を伸ばし、頭を撫でてやると、気持ちいいのか目を細めている。
余程人間に対して警戒心がないようだ。
その仕草は見ていて微笑ましかった。

「ごめんね、アンタの事忘れてた」

私は涙を拭いて台所へ行き、冷蔵庫から牛乳を取り出すと、小さな小皿にそれを注いで猫の前に置いてやった。
猫はこちらをチラリと見るけれど、口にしようとはしない。
小さくバスタオルの上に丸まってしまった。

「アンタも食欲ないんだね……」

小皿をシンクに片付けて、部屋着に着替えた。
結局その日はシャワーを浴びる気にもならず、ご飯も食べずにベッドに潜りこんだ。

なかなか寝付けず、布団の中でもメソメソと泣いてしまう。
すると、猫が近くに寄ってきてくれた。
何をする訳でもなく、私の傍にいてくれる猫。
失恋の傷で胸は痛むけれど、それでもこの猫はほんの少し慰めになった。

**********

我が家に猫がやってきて3日が経った。
ぐったりとしていた猫は徐々に元気を取り戻し、今では家の中をちょろちょろと動き回るようにまで回復した。

食事は牛乳しかあげていない。
お腹が空くだろうと思い、キャットフードを出してみたりしたものの、この猫は牛乳以外受けつけず、ツンとすまし顔で器に見向きもしなかった。

魚も食べないし、猫じゃらしにもそっぽ向く。
そんな猫らしくない猫だけれども、3日も一緒にいれば愛着が湧く。
それに失恋で心に傷を負った私には、やはりこの猫の存在が思った以上に大きかった。

彼のことを思い出しては泣くときに、猫はいつも私の視界にやってくる。
ただじっと、私の傍にいてくれる。
「独りじゃないよ」って言ってくれているようで、それがどんよりとした私の心をほんの少し軽くしてくれた。

何はともあれ、そういう理由もあり、私は未だにこの名前も知らない野良猫のことを部屋から追い出せずにいたのだ。

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