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コロナ感染者の全数把握見直しにひそむ「焼き豚問題」 〜 DX推進のカギは思考の壁を乗り越えること

2022年9月2日から、宮城、茨城、鳥取、佐賀の4県でコロナ感染者の全数把握見直しの運用が開始された。

この話、ここにいたるまでにツッコミどころ満載のスッタモンダが繰り広げられていた。

しかし、この問題、最初から不思議でならなかったのは、「新型コロナ対応にあたる医療機関や保健所の負担を減らす」という目的を実現するために、「新型コロナ感染者の全数把握を見直し、詳しい報告の対象を限定する運用」という手段が必要なのか、という点だった。

手段と目的の関係が、何段もとばして階段をかけ上がっているような気がしたから。

2022年8月24日に放送されたNHKのニュース「業務をデジタル化 保健所の負担軽減」を見ると、やはりこの議論の背後にはもっと大きな根本的な問題があることがわかった。

その問題とは、米国の社会学者、ロザベス・モス・カンターが説く「焼き豚問題

実現したい目的と、そのために選ぶ手段とのつながりがブラックボックスになっていると、結果的に大きなムダや望まない状況を生み出してしまう、という問題だ。

問題の核心は「デジタル化の遅れ」ではない

ニュースで取り上げられていたのは、横須賀市の保健所が進める「業務のデジタル化を進めて負担の軽減」を図る取り組み。

これまでは、健康観察を行うための台帳をつくるために、医療の現場で入力された「感染者の氏名や年齢のほか、基礎疾患の有無、それに症状といった情報」について、厚労省の「HER-SYS」というシステムから引き出した「患者一人一人の情報をそれぞれ印刷し、職員が紙を見ながら手作業で入力し直して台帳を作って」いた。

「毎日5人から6人の職員が専従で」作成にあたっていて
「多い日は1人で200人を入力することもあった」

なかなかパワフルな映像。

個人情報の入力に間違いがあってはならないから神経を使わないといけないだろうし、この作業をひたすら繰りかえす日々もシンドそう。とはいえ、横須賀市デジタル・ガバメント推進室の担当者が語るように、そもそもこの作業は「人がやる必要のないこと

というわけで、「画面上のスタートボタンをクリックするとプログラムが自動的に「HER-SYS」から必要な情報を抜き出して一覧表を作成」するシステムをつくったところ、「一連の作業を職員1人だけで行うことができるようになり、重症化リスクの高い人への健康観察など、ほかの業務にあたる人数を増やすことができた」とのこと。

職員はパパッと進む自動化作業を見ていればいいだけなので
「肉体的にも精神的にも負担軽減に繋がっている」

もちろんすべての自治体でこうした「人がやる必要のないことに膨大な時間が割かれて」いるわけではないと思うけど、少なからずのところでこんな状況が起きているのだとすれば、「現場の負担を減らす」という目的を実現するために、「全数把握を見直す」という手段を取るというのは、その途中にあるいくつものステップをすっ飛ばしていると思う。

ここにある問題の核心は、単に業務のデジタル化が遅れているということではなく、目的と手段のつながりがブラックボックスになっていて、結果的に大きなムダや望まない状況(この場合は、全数把握を行う意義が失われる)が生まれていることに気づけていないのではないかということ。

それが、ロザベス・モス・カンターのいう「焼き豚問題」だ。

焼き豚を食べるためには何が必要なのか?

企業家精神に富むミドルレベルのメンバーによるイノベーションが組織全体の変革につながることを説いた「ザ チェンジマスターズ」という本の中で、カンターは19世紀末の英国の随筆家 チャールズ・ラムの「焼き豚論A Dissertation Upon Roast Pig)」というエッセイを引用して、組織全体の意思決定に関する「焼き豚問題」を指摘している。

ラムの「焼き豚論」は、どうやって生肉をローストして食べるようになった起源に関する(皮肉に満ちた)「試論」

こんな話だ。

まだだれも肉に火を通して食べていなかったころの古代中国の村。

父親が外出している間の留守番をいいつかった息子が誤って火事を起こしてしまった。

戻ってきた父親が全焼した家の跡を見てまわっていると、飼っていた豚が焼け死んでいることを発見。なんとなく指をつき差すと、(まだ熱かったので)反射的に指を口に入れたところ、これが「美味い」ことに気づいた。

それ以来、焼き豚を食べたくなった村人は家を焼くようになった。

カンターによればこの話の教訓は、焼き豚がどうやってできたのかをしっかり理解しないと(つまり、焼き豚をつくるという目的と家を焼くという手段との間のつながりがブラックボックスのままでは)、結果的に手にするものよりもはるかに大きなものを失ってしまう、ということ。

ここでカンターが指摘しているのは、ちょっとした変化を生み出すために、70年代の多くの米国企業が組織全体を対象にした巨大で複雑なシステムを導入したけど、それは結果的に大きなムダや新たな問題を生み出すことになった状況。

(そこから、ミドルレベルの変革を組織全体に広げるアプローチが大事だよ、という話が導き出される)

「現場の業務負担軽減」という「焼き豚」をつくるには?

そういうわけで、新型コロナウイルス感染者の全数把握を維持すべきなのか、見直ししてもかまわないのかについては、どちらがどうなのかは分からないけど、「増大する業務負担を減らすために全数把握を見直す必要がある」というロジックは間違っていると思う。

業務のデジタル化が遅れたまま、全数把握を見なすのは拙速だ、ということではなく、「増大する業務負担を減らす」という目的のために、新型コロナウイルス感染者の「全数把握を見直す」という手段を講じることは、古代中国の「焼き豚問題」と同じ間違いをしている。

飼っている豚が焼け死なないように、家の中ではいっさい火を使わないようにすることで、火を使って得られるあらゆるメリットを失ってしまうように。

そしてこれは、単に「デジタル化が遅れている」ということよりもはるかに大きな問題をはらんでいる。

なぜなら、デジタル化を「する・しない」の問題以前に、何が原因でどんな状態が生まれるのか、どうすれば結果的にどんな状況が生まれるのかといった因果関係をブラックボックスにしたままで仕事を進めているということだから。

だとすれば、デジタル化とは関係のない場面でも、業務を改善すれば済むところを取り組み全体をやめることで対応していることがあるかもしれない。

保健所業務のデジタル化を報じたニュースには、「見直さないといけない業務はまだまだ多いが、現場から見直しに抵抗感を示されることも多い」から、「デジタル化は現場で実務にあたる職員の声を取り入れながら、平時よりボトムアップで時間かけて取り組むことが重要だ」と書かれているけども、それはトップが意思決定するにあたって「焼き豚問題」を乗り越えた後の話だと思う。

そんなこんなを考えながら、全数把握見直しをめぐるスッタモンダをながめ、「いずれは全国一律の運用に移行する方針」なんて言葉も目にしたりすると、焼き豚を食べるために古代中国の村でたくさんの家が燃やされている映像がアタマに浮かんでくる。


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