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氷が溶ける

 穂香は自宅の階段で、スマートフォンの待ち受け画面とLINEの画面を交互に開いている。誰かから連絡が来ているわけでもないのにひたすらその行為を繰り返してしまう。じっとりと手に汗を握って、額からも汗がタラタラと流れた。手に汗をかいているのは、夏だからという理由だけではないと思う。
 連絡無精の雄一とは、二ヶ月前に友達の紹介で出会った。穂香にとって初めての彼氏だった。明るい性格で、いつも友達に囲まれてる。きっと雄一は一人になったときにだけ連絡をくれているのだと、穂香は思う。
 雄一のペースに流されないようにしたいと思っているのに、ついつい今日もスマートフォンを握りしめている。その間、雄一とのトークルームは開けない。開いたタイミングでLINEを送られると、すぐに既読がついてしまう。「待っていた」と思われてしまう事は、なんとなく避けたかった。
 これが良くない事だというのはわかっていた。実際に穂香は自分自信の行動に辟易している。けれど、気持ちを改めようと課題に取り組んだり、部屋の片づけをしたりしても、数分もたたないうちにまたスマートフォンを手に取ってしまう。家族にもばれないように、いつも階段の下から七段目に座っている。ヒンヤリと冷たい階段が、穂香の体温でじんわりと温まっていく。こんな行動を知ったら、雄一はどう思うだろうか。

――きたくー。土曜あいてる?
 ピコンという間の抜けた通知音と共に、雄一のアイコンがあがって来た。Tシャツと胸の間の汗が、タラタラと腹の方に落ちていくのを感じる。すうっと鼻から息を吸い込み、口から小さく吐き出した。これでやっと、穂香はスマートフォンを手放すことが出来る。返事はすぐには返さない。返してしまうとまたあの時間が始まる。待ち受け画面とLINEの画面を交互に眺め続ける苦痛なあの時間が。穂香は首を左右に振って軽く肩を回した。全身の力が、ふっと抜ける。
 穂香の自室は、妹と相部屋だった。二階には三つの部屋があるので、てっきりひとり部屋がもらえるのかと思っていたら、父親の書斎と両親の寝室、姉妹の相部屋というように振り分けられてしまった。けれどこれまで大して気にすることがなかったのは、人を好きになった事がなかったからかもしれない。
 雄一の部屋を思い出した。本棚には漫画本がぎっしり並んでいて、少し埃をかぶっている。カラーボックスの中には、くたびれたサッカーボールが飾ってあった。土曜日も、行く事になるのだろうか。
 翌朝、学校に行く直前、穂香は予めメモ帳に打っておいた文章を雄一に送信した。学校にいる間はスマートフォンを担任に預けることになっているので、いくらか気がまぎれる。玄関の鏡に映った自分は目の下にうっすらと青紫のクマを浮かべていた。

「まーやん、まーた彼女変えてんだぜ! そんでどうせあの元カノともちゃんと切れてないんだよな~」
 土曜日になると、雄一はいつものように友達の話をしていた。“まーやん”は、穂香が一度だけ会釈をしたことのある雄一の友達だった。
「なんか前にもそういう話聞いたような……」
「そうそう、いっしーもそうだった。男たるもの、彼女一筋が俺はかっけーと思うんだけど!」
「じゃあ、雄一君は、かっけー! ね」
 クスクスと穂香は笑う。雄一は、満足そうに顎をあげてニカっと歯を見せた。
 ふいに、部屋の向こうからコン、コン、というノックが聞こえてくる。
「はーい」
 ゆっくりと開いたドアの向こうから、クリーム色のスリッパが覗く。
「こんにちは、今日も暑いね。麦茶飲んでね、脱水症状になるといけないから」
 気の良さそうな顔をした雄一の母親が、さっと古びた木のおぼんを差し出した。麦茶を入れた透明のグラスを二つ載せている。
「ありがとー」
 母親の顔を見上げながら、片膝を立てた雄一が言った。あわてて穂香もお礼を口にする。雄一の部屋にいるとき、必ずこうして飲み物が運ばれてくる。グラスの淵ギリギリまで氷が詰まった麦茶。いいお母さんだなと、穂香は思う。
 雄一はキュッと麦茶を飲み干して、穂香の隣に右手を置いた。麦茶に手を伸ばそうとしていた穂香の動きが止まる。ふんわりと雄一の香水の香りがした。はじめて会った日と同じ、ブルガリのプールオム。たった二ヶ月で、この香りが大好きになった。目を瞑ると、雄一は左手を穂香の頭に添えて、キスをした。それから、スマートフォンをスピーカーに繋いで、爆音で音楽を流す。これが雄一のセックスの合図だった。
「こうしとけば、声出せるから」
 初めて穂香がこの部屋に来た時、雄一が言った。ふわりと覆いかぶさった雄一に身を委ねながら、気の優しそうな母親の顔が脳裏をよぎる。私達は高校生だ。仕方がないと思う。
「俺の事好き?」
 肌と肌を重ね合わせると、連絡を待っている時の孤独感が埋められていく気がする。穂香は絶対に声が出ないように、息遣いだけで雄一の動きに答えた。氷が、溶ける。

 翌年の夏、雄一との関係はあっさりと終わった。連絡が来ない日が半日から一日になり、いつの間にか一ヶ月になった。「終わりにしよう」と言い出したのは、穂香の方だった。
「どうしたんだよ急に」
「急にじゃないよ」
「最近あんまり連絡出来てなかったから、ごめん」
「うん。でも、もうおしまい」
 俯いた雄一から、左巻きのつむじが覗いた。どうしようもなく欲しかったブルガリの香りが、風に載る。

 大好きだった。寝ても覚めても愛しいでいっぱいだった。でもね、わたし本当は苦しかったよ。爆音の中のセックスも、連絡が来ない時間も、ずっとずっと苦しくて仕方がなかった。私が私じゃなくなっていく感覚が、ぐるぐるに身体を支配して、苦しかった。
 穂香は大きく口を開けて息を吸い込んだ。大粒の涙が頬を伝ったけれど、絶対に振り向かないと強く手を握る。
 願わくば、今度は自分を犠牲にしない恋ができるよう。

氷が溶ける(Tシャツ、爆音、階段)

あとがき

むらさきさんとの交換box、第五弾でした!
お題は「Tシャツ」「爆音」「階段」。
昨今の不倫騒動から連想され、後から嫌になるセックスを書きたくて……長かった……笑

この続きをむらさきさんが書いてくれる………かもしれません。笑(ほぼ完結のような形になってしまった……)(コピペ笑)。

むらさきさんのはこちら「凪の声が聞こえる」。どういう訳かわんわん涙が出た作品です。笑

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