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春の庭支度をしながら、ティム・インゴルドの「メッシュワーク」のことを実感する/一日一微発見410

枯れた雑草を根っこから抜いて、そして鍬を入れて土を掘りかえす。土の中から、根や地下茎があらわれ、それを僕は丁寧に取ってゆく。すべてを取り除くなどということは不可能にしても、まあ、あきらめないで作業をし続ける。

正確に言うとその作業は、無毛な作業に見えても、僕にとっては、ある可能性へのレッスンのようなところがある。
切断され残存した地下茎が、生きのこり新たな芽を出すか、それとも枯れ行くか。

庭をやっていて、いつも思うのは「こちらの意志」ではなく、植物が植えられた「その場所」を気にいって繁茂するかということだ。

うちの「前の庭」は、ほとんど湖(希水湖)に属していて、その間に細めの道があり、そこを近くのシルバーハウスの高齢者の方々(ほぼ80才以上)が、毎日散歩する。
そしてうちの「仮の家」の庭の状況を日々見る。僕が庭仕事をしていると「草取りが大変ですね」と言う。

そう、全くだ。草取りは大変な作業だ。
4月以降、10月末まで3日も放っておくと、草が生え放題になる。
ガーデナーたちが言うように、コントロールを全く放棄したら、それを庭と呼ぶことはできない。しかし、庭は畑ではないし、駐車場ではない。そこは生命の園であり、そこに人間も入りこんで動いていく世界なのである。
大変だ、というのは、だから、少し違う。

僕は長く編集の仕事をしているので、適材適所的な、オーケストレーションの感覚は強いから、土地と相談しあって、どんな植物をそこに植え、生活してもらうかについては過敏な方だと思う。

そして子どもの頃から植物を愛してきたから、その声をきいたり、あるいは彼らが適応できなかったり、寿命であっさりと死んでゆく姿をながめ考えてきた。
また、切り花に根が出たり、枯れたと思っていた植物が翌年に芽を出したりすること、つまり、生命はサイクルであるというリアリティも学んできた者だ。

だから、人間はたかだか100年で死んでも、庭の植物たちは、この後、何代も生き続ける。タイムスケール、ライフスケールが全く異なるものが、庭で接っしているのだといつも実感する。

現代日本の男性の手による、ガーデニングエッセイが少ないのはちょっと寂しい(知らないだけかもしれない)が、これから若い世代で新星が出てくるだろう。そんな人に会いたい。

それは本を編集するように、アート作品を生成するように庭を創り出す者が現われてくるだろうと思うから。

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