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短篇「ハイ・ライト」

ハイ・ライト (小説) 

幼い頃から僕は、ずっとタバコに憧れてきた。

もくもくと立ち昇るあの白い線や、タバコのある場所にしか香らない独特の臭い、大人になるまで禁じられているものであるはずなのに、ある種の少年たちを魅了する、あのどうしようもない二面性に憧れていた。

***

8歳の時に亡くなった祖父に、なぜタバコを吸うのかを尋ねたことがある。

祖父は広い屋敷の居間に寝そべりながら、赤いマルボロを吸っていた。僕の質問に、いくらか拍子抜けしているところがあった。横になった状態で、数秒、虚空を見つめた後、一言だけ、目も合わせずに、

「一服するため、だな」

とだけ答えた。5歳か6歳だった僕は、一服という言葉をその時はじめて覚えた。その言葉が僕の周りに飛び交うようになったのは、それから10年以上後になってからだった。

***

これまで、僕は、誰にも自分が喫煙者であるとは打ち明けてこなかった。

いくつか思い当たる理由はあるけれど、第一の理由は、ひとりきりでタバコを吸いたかったからだ。村上春樹の近刊にも例によってタバコの描写が登場したが、あの喫茶店の女性のように、僕はひとりきりの空間で儀式的にタバコを吸うのが好きなのだ。ゆっくりと時間をかけて煙を吸い込み、するのかしないのかすら微妙なタバコの味に意識を集中する。煙は吸い込みたければ肺に吸い込めばいいのだし、吸い込みたくないと思うのなら吐き出してしまえばいい。僕はそれを自分自身に問う、あの瞬間が好きだ。

たいていの場合、僕は1本を吸って満足する。一度喫煙所に入っても、2本、3本とタバコを消費することは滅多にない。喫茶店で本を読むのに疲れたり、酒場での、あの俗世的現象の総集編とでも形容すべき、絶望や希望、人間の生に関する有象無象を見たり聞いたりすることに辟易すると、僕は決まって喫煙所に逃げ込む。席でタバコを吸えないことを嘆くものは多いが、僕はあの喫煙所という文化、また、分煙というシステムは、決して嫌いではない。

銘柄は「ハイ・ライト」が好きだ。ハイ・ライトのメンソール。はっかタバコの類いである。市販のタバコの中では、タールとニコチンの含有量が多い方で、重いタバコだという者もいるようだ。しかし、そんなことは知ったことではない。僕はあの、甘さと苦味の絶妙なバランス、ほのかに香るラムの風味、吸い方によって軽くも重くも楽しめて、それでいてすっきりとした気分を口に残してくれる、ハイ・ライトが大好きなのだ。

ハイ・ライトに出会うまでは、長い紆余曲折があった。タバコを吸い始めた頃は、何の銘柄を吸って良いのかわからず、友人に勧められるがまま「ウィンストン」、通称「キャスター」を吸った。バニラの甘さのわかりやすい、いかにも若者っぽいタバコだった。喫煙者の界隈には、銘柄を決めて吸うべし、というような不文律もあるようだが、僕はそんなものは気にしなかった。キャスターに飽きたら、何度もほかの銘柄に乗り換えた。憧れの人物が吸うタバコの銘柄を真似たこともあった。あるコメディアンに影響を受けて「アメリカン・スピリット」を吸い、三島由紀夫のドキュメンタリーを観た後は「ピース」を吸い、又吉を読んだ後は「ショート・ホープ」を吸った。父が若い頃吸っていたと聞いて「セブンスター」を吸った。定まらない自分に嫌気が差すこともあったが、今思えばあの時期に、自分の嗜好を確かめ、定めることができたのかもしれない。

***

タバコを吸うことを明かしてこなかったのには、もう一つ理由があるので、それをここで語ろうと思う。端的にいうならば、僕は周囲に煙たがれたくなかったのだ。タバコだけに、というのは寒い冗談だが、僕は切実にそれを恐れていた。とりわけ女性との関係において、タバコの話をするのは極力避けてきた。そうしないわけにはいかなかった。僕はすでに説明した通り、孤独に、内省的にタバコを吸うのが好きだった。それはどこまでも自分のための営為なのだ。

しかし、恋人ができたり、親密さを求めるようになってからは、タバコは巨大な障害物であるように思われた。僕の感覚では、僕の友人の7割くらいはタバコを忌み嫌っていた。そしてその傾向は、女性には尚更強いように感じられた。だから、僕は徹底的に自分が喫煙者であるということを隠してきた。それが露見することがあっても、そういう付き合いにおいて、タバコは決して持ち出さなかった。それは今もそうかもしれない。そんな自分に対し、ある種類の人々は、「健康的だね」と言った。それは断じて違う。僕はただ、怖かったのだ。

***

そんな訳で、成人を迎えてから、程度の差こそあれ、僕は喫煙者であり、愛煙家であった。チェーン・スモーカーといっても良いかもしれない。

一方で、読者諸氏は、なぜ今になってそれを語りだすのか、と問うかもしれない。今まで恐れをなして言えなかったことを、どうしてこのような形で公表するのか、と思われる複数の読者の顔が、僕には思い浮かんでいる。

結論から言えば、僕が喫煙者であると公表することを曇らせるくらい、おもしろく、興味深い逸話があるからだ(少なくとも僕にとっては)。それは実際に僕の身に振りかかったことである。それを説明するには、自分が喫煙者であるということを説明することを避けられない。だから僕は、自分の秘密を公開してしまうことを決めたのだ。

***

前置きはこれくらいにして、本題に移るとしよう。これは、僕は大学4年の時、大学を卒業する直前に起こった出来事だ。

読者諸氏にも経験があるかもしれないが、僕は大学を卒業して就職する前に、会社の指定する健康診断を受けた。入職者の健康状態を調査するための、便宜的で形式的な、あの健康診断である。僕の会社は、その費用が自己負担だった。僕にはその15,000円程度の出費が憎かった。友人の多くは、会社負担の健康診断を受けていたからだ。それでも、それは仕方のないことだった。世の中は原理的に不公平なのだ。

僕は自宅の近所にある病院にて、健康診断を受けることにした。地名の後に「病院」とつく、いかにも従来的な病院だった。自宅からアクセスが良かったし、何より検査費用が安かった。また、結果の判明までも、その他の病院より時間を要さないとのことだった。そういう実際的な手続きの早さを、僕は何より重視していたのだ(その傾向は今も変わらない)。

電話で予約を取ったので、実際に現地に赴くまで、病院の佇まいや雰囲気を知らなかった。それは、文字通り古風な病院であった。年季が入っている、というのは完全に惹句となってしまうような、そういう類の建物であった。築年数はどう少なく見積もっても35年以上は経過しているだろう。それでも決して不潔な印象は受けなかった。むしろ、その中にどこどなく清潔で小綺麗な印象があり、それがとても不思議だった。きっと地域の人々に支持されているのだろう。読者諸氏の住む場所にも、一つや二つ、そういう病院があるはずだ。それを思い浮かべていただければ、話は早いだろうと僕は考えている。

病院で受付を済ませると、40代後半と見られる看護師が、僕の名前を呼び、検査が始まった。それは実に事務的で、実際的な検査だった。10点ほどの検査項目があったはずだが、時間の経過を感じさせないほどのスムースさがあった。僕はのちに看護の仕事をするようになったが、今振り返っても、あれは実に的確な手技と方法に基づかれた看護の実践であった。受け手の消耗はほとんどなかったといって良い。それでいて、採血の時に看護師が、浮きあがった僕の静脈を見て、「あら、素敵」というような生活感、温かさがあった。僕は心からこの病院を選んで良かったと思った。

すべての検査を終え、そんな心地の良さに身を委ねていると、最後に医師による対面での診察があるという。先ほど担当した看護師が、あくまで補足的なものですよ、と僕に説明した。僕にとってもそれは差し支えのないことだった。どうせ時間は取らないだろう。僕は待合室を出て、指示されたように薄暗いリノリウムの廊下を奥まで進み、医師の部屋の扉をノックした。

待っていたのは70代くらいの男性の医師だった。体型は痩せていて、髪は全て白く生え変わり、清潔に整えられていた。確かに彼は痩せていたが、それによる不健康さは感じられなかった。第一に受けた印象は、「老い」であることは間違いない。しかし、彼の老い方には美しさが感じられた。年季の入ったワインやウイスキーが時間の経過を味方につけているような、そういう類の馴染みの良さと品格があった。そして何より、彼は精悍で、仕事の早さと有能さを感じさせた。僕は、この医師は信用できる人物だと思った。

その医師の診療もまた、洗練されていた。もちろん高度な外科的な処置ではなかったし、僕が重篤な疾病を抱えているわけでもなかった。誰が担当しても同じだったかもしれない。それでも、僕には、一切の消耗感がなかった。緊張もしなかった。少しの間、僕は裸になったが、彼は僕の身体を解剖学的に、神経学的に、生理的に、点検しているに過ぎなかった。こういう仕事のできる人間になりたいとすら僕は思った。

体調に関するヒアリングや、触診などが一通り終了すると、医師は聴診器を置いて、
「問題ない」
と呟いた。どうやらそれは僕に向けられた結果の報告であったらしいので、
「そうですか、ありがとうございます」と僕は応答した。

「この春から働くのか?」と彼は僕に尋ねた。
「はい、そのつもりです」
「ふむ」
と、彼は答えた。返事の仕方までクールだった。

「君は、何か運動はするのか」と、突然話題が変わった。僕は拍子抜けして、変な声色で、
「テニスです」と答えた。
「ずっと?」
「はい」
「ふむ」

確かに僕はテニスをしていたことがある。高校生の時だ。だから、厳密には「ずっと」ではない。僕は、ランニングやスイミング、サッカーやサイクリングをする。長い散歩も好きだ。でも、いちいち自分の運動歴を説明するのが面倒だった。なので誤魔化すように「はい」と返事をした。彼もそのことに察しがついているようだった。そんな気配を感じた。この医師にはいろいろなものが見えるのだろう。

すると医師は、僕の問診票と思われる書類に目をやり、その刹那、再び僕の方に向き直った。鋭い眼光の強さを感じる。

「君、自分の心拍、つまり、自分の心臓の音を聞いたことはあるか」
「いえ、実際にはないですね」
「なら、この際、聞いてみるといい」

その医師の語りの前に、僕は自我のない若造に過ぎなかった。有無を言わせぬ語りの強さがあったが、一方で、医師の提案はいささか興味深かった。自分の心臓の音。記憶を遡る限り、そんなものは真剣に聞いたことがなかった。僕は医師の導きによって聴診器を耳に入れ、医師が僕の心臓に聴診器を当てた。

「どうだ」
「はい」

確かにその音には、健康な印象を受けた。そしてそれが自分のものであるというのは、いささか不思議な事実だった。その時、僕は平静時の心拍が55回くらいだったので、音の連なりはゆっくりに聞こえた。そしてその音には奥深さがあった。衒学的な物言いをするつもりは毛頭ないが、嘘偽りなく、僕は生命の深淵さのようなものを感じた。生きている人間の心音に、こんなに興味をそそられ、恍惚とするとは、思ってもみなかった。

「どうだ」 
彼はもう一度訪ねてきたので、
「はい、思ったよりも大きな音がするんですね」
と答えた。先の個人的な感動は隠蔽し、僕も彼のように、あくまで事務的な返答を心掛けた。

「君がこの22年間、いろいろな運動、さまざまな負荷にたえながら鍛え続けたのが、この心臓の音だ」
「はい」

彼の語りには、妙な強度があった。それでいて、優しさや寄り添う気持ちが見え隠れしていた。医療や福祉の世界に横行している、あの気味の悪い「傾聴」でもなければ「思いやり」ではない、本物の、真正の想像力にもとづいた優しさであった。僕はそれが嬉しかった。少し間があいたので、僕はその語りの中で、少しだけ寛ぐことが許された。

しかし、次の瞬間、僕は嘘のように虚空に投げ出されることになった。
医師は、再び書類の方に目をやり、今度はそれが差し込まれたバインダーを僕に読ませるように提示した。

「それを破壊して、蔑ろにするのが何かを知るか。それが、君、喫煙なんだよ」

そう僕に鋭く語った次の瞬間、確かに僕が記入した「喫煙歴」の欄に、医師は暴力的な筆致で力強く円を描いた。それは確かに、先刻僕が記入した喫煙歴の記述に違いなかった。彼のインクの濃いはっきりとした円と、僕の弱々しい字が、微妙に交差していた。

「それを破壊して、蔑ろにするのが何かを知るか。それが、君、喫煙なんだよ」

彼の強烈な一言は、ほんの先刻投げかけられたものであるのに、もうすでに、僕の身体を巣喰い、その内部に深く木霊していた。

医師は、僕の顔と瞳を、それまでで一番力強く見つめていた。僕を試すような視線だった。しかしそれは、決して説教ではなかった。啓蒙でもなければ、健康意識の押し売りでもなかった。しかし、確かに僕という存在の総体を、根本的に問い直す命題の提示に違いなかった。僕はただ、そこに茫然とするしかなかった。

「よく考えるといい、じゃあ、以上だから」

そう言い残し、医師は部屋を去った。僕に退室を促すのではなく、医師が部屋を去った。そんなことは初めてだった。後に続いて、看護師が去った。僕は医師との会話に夢中で、看護師がそこにいることに露も気づかなかった。

僕はしばらくそこに佇むほかなかった。その部屋で、どれほどの時間が経過したか知らない。数秒だったかもしれないし、あるいは、数分であったのかもしれない。その間、僕はばらばらになった自分の存在を、少しずつまとめ上げ、整え直すことに必死だったのだ。遠くに散らばったパーツもあれば、すぐに近くに落ちるに済んだもの、剥がれ落ちた不用品も見つかった。それらを修復するのには、少し時間がかかった。

呼吸を整えて立ち上がり、あの薄暗いリノリウムの廊下を通り抜けた。支払いを済ませて病院を出ると、太陽はもう西に傾き始めていた。目の前に広がっているのは、東京とは思えないほど閑静な、いつも通りの街だった。病院の敷地を出ると、無性に歩きたくなったので、僕は隣駅まで歩くことにした。歩いている間は、先程の医師との問答は、不思議と思い出されなかった。

***

ひたすら長い歩行の終盤に、目的とする駅が見えてくる。ひどく喉が渇いていた。すると、その駅前には個人経営の小さな酒屋があった。酒屋と称しながら、食料品や日用品、切手から大きな米の袋まで売っているような、片田舎には必ずあるタイプの酒屋だ。そして、その酒屋にも例によって、使い込まれた灰皿が置いてあった。僕はポケットに手をやり、コインケースを取り出そうとすると、ポケットには、ハイ・ライトのソフトケースがあった。タバコは残り2本だった。

気がつくと僕はタバコを取り出し、それを歯で噛みながら、マッチの火をつける準備を始めていた。自分でも驚くほど無意識な、いつになくスムースな動作であった。僕はさしあたり、その流れには逆らわないことを決めた。マッチの火をつけ、息を吸い込んでタバコに火をつけた。これまでに感じたことのないような、爽快なメンソールの冷涼感があった。

タバコを吸い終えると、店に入って冷たい缶コーヒーを買った。長い距離を歩き、幾らかの発汗があったのに、直後にコーヒーを飲むというのは、人間の生理を思えば明らかに思わしくない。それでも僕は缶コーヒーを選ばざるを得なかった。レジ番の中年の女性は、事務的にそれを処理した。そして僕に微笑んだ。

外を出て、冷たい缶コーヒーを飲み込んだ。別に美味くはなかった。いつも通りの味と、いつも通りの冷たさがあるだけだった。それでも、コーヒーは、歩き疲れた自分の渇きをいくらか癒してくれた。

ポケットには、残り1本のハイライトが残っていた。キリが悪いな、と僕は思った。そしてその時、ようやくあの医師の言葉を思い出した。

「それを破壊して、蔑ろにするのが何かを知るか。それが、君、喫煙なんだよ」
「よく考えるといい、じゃあ、以上だから」

僕はタバコをくわえ、火をつけた。いつも通りのハイ・ライトだった。そして、時間をかけてそれを味わい、もう吸えるところがなくなるまで、じっくりと、最後まで吸い切った。

僕はもう一度店の扉を開けて、レジの中年の女性に「ハイ・ライト、メンソールを」と告げた。

僕は、喫煙者であることを選んだのだ。

(完)


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