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おばあちゃんが亡くなった


なぜか、5月からずっと憂鬱な気分だった。

義父が亡くなり、仕事のメンバーが入れ替わり、仕事内容が変わり。
そして、おばあちゃんが今年の夏を超えられないかもしれない、と聞いていた。

私は生粋のおばあちゃんっ子。

家に帰ったら共働きの両親の代わりにおばあちゃんが待ってくれていて、一緒に宿題を考えたり、その日あったことや考えたことを沢山喋ったりした。習い事に行く時もついてきてくれて、帰りにファストフード店で照り焼きバーガーをいつも食べた。ご飯を作り、洗濯をし、布団を敷いてくれて、夜にはごっこ遊びに付き合ってくれたり、「戦い」を挑んだりした。(取っ組み合いをして相手に降参と言わせるのだが、おばあちゃん必殺のコチョコチョが最強すぎて、いつも負けていた)

大学で上京するまで、おばあちゃんが私のことを1番知っていて、理解してくれる人だった。

そんなおばあちゃんだったが、数年前から、少しずつ「昔みたいな会話」が出来なくなっていた。

帰省するたびに少しずつ弱っていて、いつのまにか入院してしまい、その後は認知症が進み、グループホームに入ってしまった。

最初は私の夫を認知して結婚を大喜びしてくれていたけど、3回目くらいに会った時には記憶がリセットされていて、「この人誰だろう?」状態になっていた。私のことは覚えていてくれたので、「私、結婚したんよ」と伝えると、「ほんまに!よかったなあ」と新鮮に驚き、涙を流して喜んでくれていた。その次の面会では、1分前に結婚したことを伝えて喜んでくれたのに、その1分後には既に見知らぬ人になっていたので、再度喜びの涙を流してもらうことになったりもした。

そして、最後にあった日、病院のベットに横たわっていたおばあちゃん。もう目も開けられなく、息するのも辛そうな状態で、傍目にももう長くないだろうことがわかった。すごくすごく悲しかったけど、泣かないように「おばあちゃん、●●来たよ!」と耳元で叫ぶと、おばあちゃんは「おん」と返事してくれた。そして、このキラーワードを使うしかない!と思い、「私、結婚したんよ!」と叫ぶと、「おお」と呟いてくれた。そこから夫にも耳元で名乗らせると、おばあちゃんがかすれた声でこう言った。

「おめでとう」

そして、私にはつむったままの目の端から、涙が流れたのが見えた。

そこからたまらなかったので、今までありがとうと言いたかったし今しかないと思ったけど、泣き崩れてしまうことが目に見えていたので、「またくるね!!」とだけ叫んで部屋を出た。
そのあと、外で号泣した。

おばあちゃんとの別れはそれから2週間後くらい。

訃報を聞いてまた実家に戻って、通夜と葬儀に参加した。
通夜は家族葬専用で、一晩泊まることもできる綺麗な施設で、2人きりになれる時間があったので大いに泣いた。

悲しさ寂しさはあった反面、苦しんで、何が何だか分からないようなぼんやりとした時間をずっと過ごすより、おばあちゃんは楽になれて良かったと思っていた。これは生存者側が楽でいたい気休めかもしれないけど。

私が大好きだった時間、大好きだったおばあちゃんは消え去ったわけでなく、たしかにその時間は過去にあった。それに私の心の中にずっと生き続ける。

近年稀に見る憂うつ気分が続いた6月が終わり、泣き腫らした目で迎えた7月だったが、意外にも心がスッキリし、元気になってきた。

早寝早起きを心がけ、淡々とやるべきことをやることに集中しているからかもしれない。
それとも、おばあちゃんが安らかな世界に旅立ったことで、ある意味一区切りがついたからかも。

おばあちゃんの思い出が私の人生に多すぎて、思い出せばいつまでも号泣できるのだけど、それは今後の人生でいくらでもできるので、今全部味わい尽くさないでおく。

大好きなおばあちゃん。
今天国にいるなら、絶対絶対絶対幸せでいてね。
愛してくれて、大事に育ててくれて、本当にありがとう。
ひ孫を見せられなかったことは心残りだけど、どっかで見てるシステムを導入してるなら、私の人生の慶事のたびに横で喜んでいてください。

また会おうね。
孫より。


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