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いけばなで学んだ余白の美しさと潔さ、シンプルな暮らし

久しぶりの投稿になります。
今回は余白の美しさについて書いていきます。

私はいけばな、華道を習っていました。
どのくらいやっていたかの目安ですが、初心者に教えることができると言われる単位はとっていますが、指導したことはないです。

ただ花が好きです。
花だけではなく、植物が好き。
特に身近な植物が好きです。

いけばなとは、花器と剣山などを使って花や草木を美しく生けて空間を演出するものです。
花器にいけていくこともありますが、縦型のいわゆる花瓶にいけることもかなり多いです。
ご存知かとは思いますが、フラワーアレンジメントとは少し印象が違っていますよね。
フラワーアレンジはプラスしていくイメージですが、対していけばなはマイナスしていくイメージ。

元々いけばなは、床の間を美しく整えて、お客様の目を楽しませるため、空間を美しく華やか見せるためのおもてなしのひとつだと言われています。

私は20代の頃、華道を習っていました。
今はもうやっていないのですが、その時の経験は今でもしっかり残っていますし、生きる上で感覚というものがいけばなによって変化しました。

お稽古は月に数回ほど。
私にとって、とても楽しい時間でした。
毎回違う形にいけること、季節に合わせた草花をいける。
初めの頃は、基本を覚えるために同じ形を花材が変えられいけていましたが、稽古が進むにつれて色々な形でいけていくことがとても楽しく、新たな形を覚えることもとても楽しいと感じながらの稽古でした。

先生の教えの通りに、でもうまくはいかないからせめてそこに近づけるようにと足が痺れながらやっていました。
少し慣れてきた頃「今日はどんなお花を先生は選んだのかな」とか「どんな形でやるのかな」とワクワクしていました。
クリスマスが近い時は、クリスマスをイメージしたお花でしたし、そのあとすぐ来るお正月に合わせて葉牡丹や松を使っていけるように用意もしてくださいました。
この時期になると、そんなワクワクを思い出すのです。

いけばなを習ってから、得たことがあります。
まずひとつ目は季節の移り変わり、時間の経過を植物で表現できること、感じることができる。
当たり前ですが、いつも花に触れているとそれがより実感できます。
花に触れるたびに去年はこうだったな、数年前もこんな感じで行けたかもなど、花で記憶が蘇るような、そんな感覚もありました。
季節に合わせた植物を扱うことは、感性を磨くためにも取り入れたいことです。

あともう一つは、余白が美しいということです。
特に最初に習う形でとてもシンプルなものがあるのですが、それがまさに余白が花の美しい佇まい表現するものだとすぐに思いました。

シンプルな形では主役の花、枝物、葉物、それぞれの良さを活かしながらいけていきます。
花にだけ注目するのではなく、茎の形、葉の形、枝の伸び具合を見ながら生かすところを決めていきます。
花はどこを向いているのか、茎はどのように伸びているのか、蕾の位置は、茎にある花間引いた方が美しく見えるのかと、とにかくその植物の持つ美しさを最大限に表現します。
剣山はできるだけ見えないように美しく見せていくのですが、花、葉、枝の伸びやかさ、可憐さ、力強さ、繊細さなどを空間を使って表現していくのです。

そして空間がなければ、枝が特徴的で美しいということに気づけません。
間があって、花の美しさや儚さか垣間見れるのです。
たくさんの何かに囲まれていると、その美しさが際立たない。
それぞれに美しさがあり、美しさは空間で見せることができる。
まだ二十歳ごろと若いながらに、簡素な中にある美しさに気づいた瞬間でした。

花道は、日本の伝統文化ですが、昔から少しずつ喧嘩はしてきているでしょうが、基本の部分は変わっていないです。

『侘び寂び』という言葉がありますがその意味は、質素、シンプルである中での静けさ、枯れゆくものに趣を感じることです。
変化していくさまが美しいと捉えるということで、完全なものではない、完璧ではない姿も全て美しいものといった感じでしょうか。
不完全で慎ましいものに美しさを見出すという、とても日本的な感覚です。

昨今『シンプルな暮らし』『ミニマルに暮らす』多くの人が実践していますよね。
これは余白の美しさ、空間が魅せる美しさだと思っています。
シンプルであれば効率的でありながら、見た目にも美しい。
それはひとつ一つが際立って見え、ついでに細部まで見える。
それがオシャレかどうかではなく、無駄を削ぎ落としたものかどうか。
潔く、そして余白が生む美しさが、人の心を惹きつけていると私は思っています。

完璧に整っている様子はもちろん美しいです。
でも、侘び寂びの観点で言えば、無駄がなく、劣化とらえがちな変化も美しいものとし、不完全な様こそが趣あると表現されます。
そしてそれが一番よく見えるように、ただそっとそこに佇むかのように。
余白が生まれ、空間が生まれます。
それが不完全であればあるほど、侘び寂びなのかもしれません。

今回は花道の話になりましたが、最初にも言いましたが指導者ではないのです。

なので華道の内容をテーマにすることに気が引けていて、今ままで華道の話をすることはあえて避けていました。
ですが私が経験したことには変わりないですし、良い学びとなっていて余白や潔さに対して、美しさを感じる感覚がここから生まれたように感じていましたので今回書いてみることにしました。

今まで、いけばなの先生でもないのに華道に関して話すことは失礼なんじゃないかと思ったりしていましたが、その気持ちはもう捨てようと思って今日になります。
華道経験者として、伝えられることがあるように感じました。
やっぱり自分が学んで良かったことは良かったこととして、今後は余計な遠慮は置いておいておこうと思えるきっかけとなりました。

植物も人間も、自然の一部です。
寄り添いながら、同じ地球にある自然として人も植物も動物も、
それぞれに美しく生きていけるといいなと感じる大雪の日でした。

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