Nostalgia 第一章・1
第一章
一
一八九四年十一月某日、大英帝国・倫敦。
そもそもの始まりが何時だったかはわからない。しかし、終わりの始まりは確かにこの日、この時、この場所だ。
少女は、濃い霧の中をひたすらに駆けている。クレープの喪服が風に舞う。
ブルネットの長い髪が美しい、大きな翠の目をした少女だった。小柄で痩せぎすの体を見るに、年の頃は十四、五才か。幼さの残る、けれど聡明そうな顔立ちだ。
時刻は深夜零時を過ぎていた。冬の夜気は、突き刺さるように肌に冷たい。吐く息は、霧よりも猶、白かった。
こんな時間に出歩く人間は多くない。少女であれば猶更だ。こんな時間に出歩く女性など、精々が娼婦か、浮気相手との密会に赴く婦人くらいだろう。しかし、少女はそのどちらにも見えなかった。
その少女は、明らかに何者かに追われているようだ。霧の向こうに、彼女を追う、幾つかの人影が見える。それはこの辺りを根城にしているごろつきのものでは決してなく、もっと洗練された一団だった。警察ではない。さりとて軍人でもない。強いていうなら、猟犬のような雰囲気だ。
すなわち、少女は獲物であり、捕まったら即座に殺されるだろう、という予感があった。それほどまでに、冷酷な足音だ。
少女は息を切らせて走りながらも、霧の向こうから聞こえてくる革靴の音を『見』ることで、追っ手との距離を測っていた。追っ手との距離はおおよそ五十碼(ヤード)程、人数は五人も居る。
少女の武器は土地勘ともうひとつ、自分の直感だけだった。この先にある、古い教会に逃げ込めば必ず助かる(傍点)。その確信があった。少女はそれだけを頼りに、必死になって夜の街をひた走る。
少女の名は、メアリ・ジズ。イーストエンドに住む孤児だ。金もなければ力も無い、人畜無害で箸にも棒にも引っかからない、そんな取るに足らない存在だった。生きている価値もさほど無いが、殺されるような理由も特に無い。
――一体、どうしてこんな事に。
メアリは追っ手から逃げながら、心の中で自問自答をする。
思い当たることは一つだけ。一週間ほど前に見た、あの『客』だ。あの女性(ひと)との会話こそ、おそらくはすべての始まりだった。
その日、メアリは、イーストエンドの路地裏で、今日も客を取っていた。
客を取る、と言っても、メアリは別に娼婦というわけではない。立場的には娼婦とあまり大差はないが、メアリの仕事は辻占だ。なかなか当たると評判で、恋を成就させたい乙女は勿論、上流階級と思しき人々も、時々顔を隠して表れる。彼等は一様に気前が良くて、占いの料金の他にも、結構な額のチップをくれる。そのおかげで、何とか体を売らずとも生きていけるだけのあがりはあった。
こう見えて、メアリは今年十七才だ。しかし、やせっぽちで、十四、五才にしか見えない為に、こうして仕事をするときは、クレープ地の喪服を着て、更に頭からすっぽりと黒いヴェールを被るようにしている。こうすれば十七才の少女が年齢不詳の未亡人のように見え、勝手に神秘的な雰囲気を醸し出してくれるのだ。人は見かけが九割なので、やせっぽちの少女では、まず客が寄りつかない。そのための苦肉の策だ。
客が寄りつかないといえば、メアリが娼婦ではないというのも、そのあたりの事情が強い。育ての親の遺言で、決して体だけは売らないようにと厳命されていた事もあるが、そもそも買い手がつかないだろう。
何故なら、メアリの体は、基本、あちこち傷だらけであるからだ。顔や手足に目立った痕はないが、服で見えない部分は、消えかけているとはいえども、切り傷や火傷の跡でいっぱいだった。
そのなかでも特に目立つのは胸の痣だ。服を着ていればわからないが、しかし、その痣は酷く大きく、また皮肉なことに、白い肌によく目立つ、実に鮮やかな赤い色をしていた。
ヴィクトリア朝時代の男達というのは案外繊細で、プロテスタントの土壌もあってか、とにかく女性に聖性を求める。娼婦でさえ、シミ一つない白い肌でないとなかなかに客が付かない。エドワード皇太子がデンマーク王女アレクサンドラと結婚した折、彼女の喉に大きな手術痕があった事から、初夜の晩になにもしなかったという例さえある。当時の男性にとって、情事の相手がすべすべの肌を持ち、傷一つないということがどれだけ大事であったかは、この一点でもわかるだろう。
傷だらけの少女など、そもそも誰も愛さないし、娼婦になっても買い手が付かない。別に娼婦になりたいわけでは決してないが、しかし、誰からも愛されないのがわかってしまうのは、割合しんどい。
その痣は、十二年前――、メアリが五歳の頃、列車事故に巻きこまれて出来たものだ。記録では、突風で停車中の機関車が動き出し、丁度付近を走っていたダラム行きの列車と正面衝突を起こしたという事になっている。この事故以来、停車中の列車には必ず車止めの設置が義務づけられたそうだが、そんなことはどうでもいい。
問題なのは、事故のせいでメアリは唯一の肉親だった父を失った上、自身も一度、死んだと思われ、埋葬までされたことだ。
仮死状態だったメアリは、生きたまま、父親と同じ墓穴に葬られた。実際、体中傷だらけで意識は混濁していたし、呼吸も殆どしていなかったそうだから無理もない。
目覚めたときは真っ暗だった。何も見えず、自分が狭い場所に横たわっていることしかわからなかった。噎せ返るような薔薇の匂いだけが、ただ、そこにあった。
とても怖かった。ここは真っ暗で、自分以外は誰も居ない。一人きりの、狭く閉ざされた世界には恐怖しかなかった。
後に聞いた話では、メアリは葬儀の際にフランツ・ヴェスター考案の『安全棺』に葬られていたらしい。
『安全棺』というのは、ベートスンの鐘楼の改良型の棺の事だ。
ベートスンの鐘楼とは、早すぎる埋葬をされた者が外部に助けを求めるために作られた装置である。鉄製のベルが柩の蓋の上、丁度死者の顔の辺りに取り付けられており、柩の中にいる死者が万一蘇った折に、その鐘を鳴らせば生き返りを外部に知らせることが出来る仕組みだ。
十九世紀の英国人は、『早すぎる埋葬』を異常に怖れた。一八五〇年代のコレラの猖獗で、大勢の人間が死んだのだが、その際、意識混濁や体温や血流が低下しただけの人間までもが『死者』と勘違いされて生きたまま埋葬される事例が相次いだのである。新聞は挙って納骨堂の隅で蹲って発見された死体であるとか、内側から掻き毟った痕のある柩の話であるとかを書きたてたし、また、教会の説教にもよく使われた。そのせいで、人々は自分が早すぎる埋葬される事を異様に畏れ、中には医者に、確実に死ぬように死亡を診断したら自分の首を切り落として欲しい、と頼み込む者までいたのである。
そんな時代のニーズに合わせて誕生したこの柩は、予想以上によく売れた。発明者であるベートスンは、死者に対する奉仕の功を認められ、女王から大英帝国勲功章を貰っているほどだ。
実際、メアリが助かったのは、その棺のおかげだろう。もし、安全棺でなかったらと思うと、今でも心底ぞっとする。
しかし、当時五才のメアリにはそんな事はわからなかった。ただ怖くて怖くて、泣きながら、手に握らされていた紐を無我夢中で何度も引っ張る。それだけが、外の世界と自分を繋ぐ、唯一の物だった。遠くで鐘の音が鳴るのが聞こえたが、それだけが心の支えだったと思う。
一時間もすると、何処からか土を掘り返す音がして、そうしてメアリは地下の世界から、現世へと戻ることが出来たのである。
しかし、生き返ったはいいのだが、問題はその後の人生だ。身寄りのなかったメアリは孤児院に引き取られた。孤児院で五年間暮らした後で里親が見つかったのだが、まさにそれが問題だった。里親として名乗りを上げた人間は、実は借金を多く抱えており、子供を育てられるような経済状況では到底無かった。なのに何故、メアリを引き取ったのかと言えば、鉄道会社から支払われていた事故の慰謝料で目当てである。メアリには、父の分と会わせて五十磅(ポンド)ばかりの慰謝料が払われていた。半分は孤児院への寄付という形で奪われていたが、しかし、残りの二十五磅(ポンド)はメアリの財産だったのだ。労働階級の週給が一ギニーという時代である。狙われるには十分な額だろう。
メアリから全財産を奪い取った里親は、借金を払いもせず、そのまま行方をくらました。勿論メアリを置き去りにして、である。
後に残された十歳のメアリは、頼る場所もなく、着の身着のままで路上(みち)っ子になることを余儀なくされた。
路上っ子とは文字通り、路上で暮らす浮浪児のことだ。大体が捨て子か親無しで、当たり前だが人権など殆どない。ごろつきの使いっ走りか、ひったくりやかっぱらい等の犯罪者予備軍が大半で、犯罪に利用される事が多かった。下手をすると、『復活屋』と呼ばれる死体業者につかまって『商品』にされる場合もある。当時、新鮮な死体は、急速に発達する医学の進歩により、解剖用の死体を求める医学博士達によく売れた。
『復活屋』は普通、墓暴きなどで死体を『確保』するのだが、墓地が整備され、番人が置かれるようになった昨今では、なかなかそれも難しい。そうなると『商品』を『生産』しようとする輩が現れるのも資本経済のなかでは当たり前のことで、身寄りのない孤児や娼婦など、社会的立場が弱い者を集めて殺すという犯罪さえ横行していた。流石にこれは極端な例だとはいえ、どのみち倫敦の浮浪児が、命の値段が一番安い類いの人種であることは間違いない。
心の準備も経験も無しに、いきなりそんな場所に放り込まれたメアリは、本当に死にかけた。多分里親達は、本当にメアリを後腐れのないように殺すつもりで貧民街へ置き去りにしたのだろう。直接手を下すより、勝手に野垂れ死にされた方が良心の呵責は少ない筈だ。
メアリは自分の系譜を知らないが、中流階級以上の出であることは、支払われた慰謝料の額や幼い頃の朧気な記憶、そして自分の言葉づかいからして間違いがない。孤児院でも、誰も訛りのある英語を喋る子供はいなかった。それ故、コックスと呼ばれる下町の言葉がさっぱり分からず、メアリは路上っ子達の仲間に入ることもできなかったし、手元に残された僅かばかりのお金も、あっという間に取られてしまった。
それでもしぶとく二週間くらいは生きていたのだが、何の才覚があるわけでもない、十歳の孤児である。何日も水以外口にすることが出来ず、やがて動くことも出来なくなった。
暗がりに蹲り、ああ、もうすぐ自分は死ぬんだな、と、その時メアリはぼんやり思っていた。アンデルセンの燐寸(マッチ)売りの少女のように、幻でも良いからもう一度お父様に会いたいと思ったが、生憎メアリの手元に燐寸はなかった。
折角あの恐ろしい棺の中の暗闇からは助かったのに、またあの場所に戻るのだ。一体、何のために生き返ったのかもわからない。
絶望よりも、虚無感の方が強かったと思う。手足の感覚が無くなり始め、いよいよかと諦めかけたその時だ。頭上から、不意に、嗄れた声が聞こえた。
「おやおや、確かに占い通りだ。あんた、まだ生きているかね?」
伝法だが、しかし、暖かい声だった。
目を開けることで、なんとかまだ『生きている』という意思表示を行ったメアリが見たものは、妙に色つやの良い一人の老婆の姿だ。古びた服だが、しかし貧民街にいるしては清潔な身なりである。
老婆は動けないメアリを軽々と抱きかかえ、そうして彼女の塒へ連れて行ってくれた。彼女はメアリを一つしか無いベッドに寝かせて、そうして林檎のコンポートの上澄みを暖めて飲ませてくれた。甘くて良い匂いのする暖かいものがお腹の中に入った途端、現金にも生きる気力が湧いてきたのを、メアリは今でも覚えている。
老婆のくせに煙草を吸うのか、ベッドからは煙の匂いがしたのだが、しかし、嫌な香りではなかった。メアリの父も煙草を吸う人だった。久しぶりに父を思い出し、そうして助けられたと思う安堵から、ベッドの中で、メアリは久しぶりに、少しだけ泣いた。
老婆はジェーンと名乗った。元々は蘇格蘭(スコットランド)の人間で、呪(まじな)いや占いで生計を立てている占い師だった。メアリを拾った理由は、同情や慈悲の心からではなく、占いの結果だと言っていた。どんな占いの結果だったかは終生教えてくれなかったが、代わりにジェーンは、メアリを助けっぱなしには決してせず、裕福な生活ではなかったが、きちんと責任を持って育ててくれた。彼女には本当に感謝してもしきれない。
そんなジェーンは一昨年の冬に、病で亡くなってしまった。最期を看取ったのはメアリ一人だ。泣きながら手を握るメアリに、ジェーンは優しい目で「決して体だけは売るんじゃないよ。結局人は、自分が選んだものになるのだから」と告げた。メアリが何度も頷くと、最後に「あの子の償いのつもりで拾ったけれど、お前と暮らせて幸せだった。お前も幸せにおなり」と呟いて、笑顔で息を引き取った。
メアリが今、一人きりでも生きていられるのは、みんなジェーンが教えてくれた占い師という職のおかげだ。
その日の客は、おそらくはかなり身分の高い女性だった。五十を少し過ぎたばかりのようだが、顔立ちは美しく、まだまだ十分、水気もある。着ているものは色こそ地味だが、よく見ればかなり上等の服だ。羊毛の毛糸で編まれた美しい色の肩掛け一つとっても、かなりの手間がかかっている品だった。所作の一つ一つもとても優雅で、明らかに上流階級の出だろう。どことなく浮き世離れしている風に思えた。
もとより女性は占い好きだ。不思議なことに、上流階級の女性であればあるほど奇妙に神秘主義にかぶれ、当たるという評判があれば、馬車を飛ばして、こんなイーストエンドくんだりまでやってくる。馭者付きの馬車から降りた女性は、机の前の椅子に座ると、躊躇いがちに小さく言った。
「あの……。ある方から『貴女の占いはとても当たる』って聞いたのだけれど、本当かしら」
少し疑うような口ぶりであったが、しかし、それは『信じたい』という期待の表れだということをメアリはよく知っている。人は、信じたい物事を否定したがる難儀な生き物だ。それ故、メアリは出来るだけ大人のような声を出し、ヴェールの中で大きく頷く。
「私の言葉は、あくまでも占いの結果です。それが当たっているか当たっていないかは、すべて貴女が判断すること。では、試しに貴女の事を『占って』みることにいたしましょう。外れていると思えば、今すぐ立ち去ってくださってかまいません。その場合、お代は結構です」
下町訛りの一切ない、完璧なメアリの発音に、女性はかなり驚いたようだった。倫敦では上流階級と下層階級の間では発音が異なる。言葉の訛り、というのはなかなか強制することが難しい。言葉や発音というものは、生まれ落ちた直後から、両親や周りの人間の言葉を聞き取って無意識のうちにすり込まれるものだからだ。故に英国では、階級の差を示す為のあきらかな発音差別があり、逆に言えば、完全な英語を喋るということは、その人間の身分が少なくとも下層階級の出ではない、ということを示す。
メアリの武器の一つがこの発音だった。七年前、コックスが喋れなかった為に死にかけたメアリであったが、今では客を信用させる格好の手段だった。人は自分より弱い者、更に言えば身分の低い人間のいうことは信用しない。けれど、同等か、もしくは上の人間のいうことは盲目的に信じてしまう。
メアリはヴェール越しに、その女性をじっと見た。タロットカードを並べ、ルーン文字の刻まれた石を適当に机の上に置いているが、これはただの形式的な物に過ぎない。十分に時間を空けてから、メアリは徐(おもむろ)に口を開いた。
「わかりました。貴女はメイフェアにお住まいなのですね。ご自宅は裕福で、立派な跡継ぎにも恵まれた。そして最近、貴女のお屋敷では、新しいメイドを雇われたばかりです。そのメイドは若くて美しく、非常に働き者ですが、古くからいらっしゃるガヴァネスとは折り合いが悪いでしょう。一方で貴女は近頃どうも寝不足で、体調も芳しくない。それは深い悩みがあるからです。違いますか?」
メアリは、断言に近い言い方をあえてする。それを聞いた婦人が、大きく眼を見開いた。驚いたように言う。
「そう……、確かにその通りよ。私はメイフェアに住んでいるし、確かに裕福だと言われる家だわ。息子もいる。新しく出来の良いメイドも雇ったし、古くから居るガヴァネスとも仲が悪いわ。でも、どうしてそれがわかったの……?」
ヴェールの奥で微笑んで、メアリは静かに彼女に言った。
「占いの結果です。私はカードとこの石の配置が導き出した答えをただ読んだだけ。貴女の過去は、このカードが教えてくれました」
ある意味で寝言のような説明だったが、その婦人はそんな答えでもあっさり納得したようだ。多分、素直な質なのだろう。
「流石だわ。ロジャー氏のいう通り、貴女は凄い占い師なのね……」
感心したように呟く女性に、メアリは少しばかりいたたまれない。これは別に占いの結果ではないからだ。
実を言えば、メアリに占いの才能は一切ない。育ての親であるジェーンに占いのイロハを叩き込まれはしたのだが、それらが当たったこともなければ、天啓めいたことを感じたことすらなかった。
彼女の家の事情がわかったかといえば、それは単なる推理の結果だ。
メイフェアに住んでいるというのは、彼女が乗ってきた馬車を見てわかった。正確には、馭者台に置いてある地図のおかげだ。彼女の馭者は、あらかじめここへ来る為の道順を調べていたのだろう、赤い線で地図にここまでのルートを書き込んでいた。その線の始点がメイフェアだった以上、どこに住んでいるかを察するのは簡単だ。馭者着きの馬車を持っているのだから、彼女が裕福だというのはいうまでもない。
新しいメイドを雇ったという事は、彼女の服装を見ればわかる。こんな夜中であるのに、彼女はアイロンがきちっとあてられたブラウスを着ていたが、その袖口がほんの僅かに、シミとも呼べない程の薄い黒で汚れているのだ。これはおそらく、新聞用のアイロンと、衣服用のアイロンを間違って使ってしまった結果だろう。
朝刊はインクが乾いていないままに配達されるため、裕福な家の執事は、主の手が汚れないよう、新聞にアイロンをあてて乾かすのが習いだった。古くからいる使用人ならば、新聞用と服用のアイロンを間違えるはずがない。新しく雇われたメイドだからこそ、間違えてしまったのだ。そのメイドが働き者だという事もまた、ブラウスを見ればわかる。サテンシルク製のブラウスは光沢があって美しいが、すぐに皺になり、アイロンをかけるとなれば一苦労だ。それなのに、ここまで丁寧に皺を伸ばし、完璧なまでにしっかりとアイロンをかけられるということは、彼女が非常に有能で、且つ仕事熱心であるという証拠だった。
メイドとガヴァネスの仲が悪いというのは、彼女の指輪を見ればわかる。上流階級では、跡継ぎを産んだ正妻に、大きな宝石の付いた美しい指輪が与えられる。彼女の指輪は、三十年ほど前に流行したデザインだ。彼女の息子は三十歳前後である事もそれでわかる。
彼にガヴァネスが付けられているというのは、彼女が身につけている毛糸の肩掛けがヒントになった。昔は教育だけをしていれば良かったそうだが、昨今のガヴァネスは、編み物や刺繍なども仕事としてさせられる。肩掛けの柄から察するに、それは本来は息子の為に編まれたはずだ。途中で気が変わり、『奥様』用になったのだろう。ガヴァネスは、多分、息子と良い仲なのだ。しかし、当の息子は、最近表れた若いメイドと良い仲になっている。だから肩掛けを送る相手は変更されたし、泥棒猫のメイドとは仲が悪い、というわけだ。
最後の寝不足云々だが、そんなものは彼女の目の下に浮いている隈を見れば一目瞭然である。きっと、占い師の元に来たのも、そのせいに違いない。
メアリは占いの才能はからっきしだが、しかし、こういう目端はとても利く。人間は、必ず『自分』を身に纏って生きている。服装だけでなく、仕草や癖、雰囲気などと言ったもので、自分を無意識にアピールしているのだ。それを読み取り、さも占いの結果のように話す事で、メアリは自分を凄腕の占い師のように見せかけていた。
人を騙すのは良くないことで、確かに後ろめたさもある。しかし、占いで過去を当てるのと、推理で過去を当てるのに大した差はないはずだった。そもそも人は、自分が信じたいことしか信じない。
事実、その推理ですっかりとメアリを信用したらしいその婦人は、声を潜めるようにして問うてくる。
「あまり詳しいことは話せないのだけれど、それでも占いは出来るのかしら?」
「勿論それは可能です。ただし、あまりに情報が少なすぎますと、カードを読み取るときの解説が不正確な物になってしまうかも知れませんが、それでもよろしいですか?」
メアリの言葉に、婦人は静かに頷いた。
「ええ、それは仕方のないことだもの。本来は私一人の胸に納めておくべき事だけれど、でも、あまりに重荷で……」
言い訳のようにそう呟くと、婦人は決心を固めたようだ。メアリはタロットカードを切りながら、彼女の言葉を一言も聞き漏らさぬようにする。婦人は、ゆっくりと、けれども慎重に話し出す。
「きっかけは今から三十年以上も昔の事なのだけれど、当時私はとても高貴な身分のお方に仕えていたの。その方が再婚をされた事が、そもそもの始まりだった。再婚と言っても、世間には公表できない類いのものだから、秘密結婚ということになるわね。――その方が再婚相手に選んだ相手が、使用人だったから」
言葉から察するに、その高貴な身分の方というのは、どうやら女性のようだった。裕福な家の婦人が仕えている相手ならば、かなり上の貴族階級の人間だろうか。貴族の女性が夫の死後に、使用人とそういう関係になるというのはさほど珍しいことではない。しかし、再婚となると些か特殊だ。
英国の女性には、夫の死後、遺産を受け取ることが出来なかった。男にしか相続権がないからである。こういう場合は大抵が息子や親戚の庇護下に入るものなのだが、それは、いくら肉親とはいえ、完全に他者に生殺与奪権を握られるという事に他ならない。そんな状態で使用人と再婚など、普通は考えないものだろう。
自分の母親が使用人と結婚すると知って、反対しない息子はまずいない。父親への裏切りだと思う者だっているはずだ。それを押し切って使用人と再婚なんぞをした日には、生活費を打ち切られるか、或いは精神病院に入れられてしまうかもしれなかった。それでも結婚したいなら、秘密結婚となるのは十分に理解できる。
婦人は更に話を続けた。
「その方の結婚式に立ち会ったのは、私ともう一人の男性、そして牧師様だけだった。神の名の下に結婚は成立し、立会人は、この秘密を生涯誰にも話さないと誓わされたの。それはそれで構わなかったわ。私はあの方が好きだったし、あの方の為ならばそれくらいのことは耐えられた。その秘密は露見することなく、やがて彼女の二番目の夫は丹毒が元で亡くなり、そうして、総ては何事もなく、元のままに戻ったのだから」
「亡くなった、のですか?」
妙に引っかかる言い方に、首を傾げてメアリが訊いた。婦人は二、三度首を振り、躊躇うように補足する。
「亡くなったのよ、多分。殺された風には思えなかった」
そう言うと、婦人は躊躇うように言葉を切った。何か言いかけては黙る、という事を数度繰り返した後で、徐(おもむろ)に口を開く。
「秘密結婚から二年後。あの方は、彼の子供を妊娠した。四十五歳という高齢でまさか子供が産めるとは思わなかったし、そもそも世間の目に隠れて出産が出来るわけもない。けれど、彼女は無事に子供を出産した。私はその頃、自分の出産でお暇をいただいていたのだけれど、密かに呼び寄せられた。その子供の乳母として雇われるためにね」
若き寡婦が男を引きずり込んで妊娠してしまうのは、割合良くある話である。しかし、四十五歳という高齢でそれを行い、あまつ子供を産み落とすというのは殆ど訊いたことがない。大体、妊娠がばれなかったのか。
その事を問うと、女性は案外あっさり答えを出した。
「あの方は、肥満に悩んでいらしたから、外見からでは解らなかったわ。最初のご主人が亡くなってからは、常に喪服を来ていたし」
確かに喪服という物は、体のラインを隠してくれる。現にメアリも、仕事の時は貧弱な体を隠すために喪服を着ているのだ。内心で深く納得するメアリに、婦人は続けた。
「その子供の存在は、当たり前だけれど公表できるものではなかった。その子は極秘裏に育てられた筈だけれど、遺伝性の血友病を患い、幼くして無くなったと聞いていたわ。それからますます彼女は孤独になって、使用人にしか心を許さなくなっていた。彼女は最初のご主人とのあいだに九人の子を儲けていたし、孫もたくさんいらっしゃったけれど、誰も彼女を顧みなかった。長男との間は尤も険悪で、血を分けた親子だというのに、互いに憎しみあっているようだった。憎しみのおかげで、あの人は生きながらえていたようなものかも知れないわ。決して長男の家族に跡を継がせない、そのためだけに生きていると、そう漏らしたこともある」
メアリは婦人の言葉に違和感を持った。息子に跡を継がせない、とはどういうことなのだろう。そもそもこの国では、女性は遺産を相続できない。跡継ぎの居ない寡婦などが、法律の隙間を塗って女主人になれる場合もあるが、『あの御方』とやらの場合は、九人も子供がいるのだ。どう足掻いても無理だろう。
しかし、一方で、目の前の婦人が嘘を言っている訳ではない、というのもわかる。声にブレがないからだ。
メアリは他人の嘘がわかってしまう。別に心が読めるとか、そういうことでは特にない。メアリは何故だか知らないが、音を色の付いた数字として感じてしまうのだ。感じてしまうというよりも、音が数字として『見える』、という方が正しいのかも知れない。その数字に大きな変動がなければ、それは彼女が動揺していないという証拠である。人は嘘をつくときは、無意識に声を張る。耳ではまったく変わらない声であるのに、しかし、見える数字は変わるのだ。
例えば、この女性の声は常に橙色の三、三七七六という数字と共にある。けれど、隠し事をしたいとき等は、それが三、九五三七という数値に一気に変わった。
大きく数が増えるのは、大体が嘘を言っている時だ。人は嘘を吐くときに声を張る。そうなると、こんな風に数値が増える。
このように、メアリは音に付随する数字を読み取って、人が嘘を言っているのか、それとも真実を言っているのかを判断することが出来るのだ。
他人がどういう世界に生きているかはわからないが、しかし、メアリの生きる世界は割合に忙しい。大きい音や、意識的に聞こうとする音すべてが、光で書かれた数字として見えてしまうからである。その光は黄色であったり白であったりと様々だ。それはどうやら、その音の根元に原因があるらしい。魂の色なのかもしれないが、それが何かはメアリにはよくわからない。
世界は色付く数字を纏った音で満ちていて、メアリは常にその中で生きている。それが当たり前だったのに、他者はそうではないと知った時は驚いた。
他人と違うことを悩む時間はまずなかった。悩むよりも、生きることで精一杯だったからである。生きるためには、他者の嘘や感情をある程度見分けられるこの能力はありがたかった。上機嫌か不機嫌か、嘘か真実か、それを知ることが出来るだけで、生存率はだいぶ上がる。
そういうわけで、メアリは婦人の言葉に嘘は無いというのが信じられた。そのまま時折相槌を打ち、彼女の話を静かに聞く。
「私はその秘密を墓場まで持っていく、そのつもりだった。彼女の二番目の夫も亡くなり、彼との子供も、とうの昔に死んでいる。だから私はある意味で安心しきっていたのだけれど……。それは違った」
声に付随する数字の色が、不意に暗く変化する。これは彼女が怯えているという兆候だった。経験上、数字の色は、感情に左右されて明暗を変えるものである。つまりこれは、自分の聞いたものが信じられないけれど、それが紛れもない真実なのだと自覚しているときの声なのだ。
「違った、というのはどういうことなのですか?」
メアリは出来るだけ優しい声で、彼女を落ち着かせるために訊く。数字として音がわかるメアリは、意図的に、自分の声を操れるのだ。その効果は覿面で、婦人は少し落ち着いたようだった。声を潜めて、しかし、はっきりと断言する。
「一週間前のこと。私は少し所用があって、あの方の住む城まで出かけたの。用事自体はすぐ済んだわ。そうして帰り際、私は一人の青年とあの方の部屋の前ですれ違った。私はその瞬間、背筋に冷たいものが走ったわ。何故なら彼は、あの方とジョンの間に生まれたあの子供に違いなかったから」
婦人は怯えるあまり、ジョンという名前を出した事に気付いては居ないようだった。それを今、指摘するのも不味いと思い、メアリはその事には一切触れず、黙って彼女の話を聞くのに徹する。
「そのときの私の驚きがわかって? 私の出産時期とあの方の出産時期は重なっていたから、乳母としてその子に乳を含ませたことも何度もある。見間違えるはずはない。けれどその青年は、間違いなくあの時の子だったわ。血友病の子供は十七歳まで生きるのも稀であるのに、あの子は死んではいなかったの。あの方は、私さえも欺いて、その子を育てていたに違いないわ……」
婦人はそう言うと、声を詰まらせるようにした。許されざる結婚と出産の秘密からは、その夫と子供の死によって解放されたはずだった。しかし、その忘れ形見が生きていたとなれば話は別だ。忘れていた過去が地獄の底から蘇ってきた。だから、彼女は眠れなくなったのだろう。
「彼は本当に『そう』なのかしら。そうだとしたら、私はあの御方に、それを見たと伝えなくてはならないの? 庶子であるのは確かだけれど、彼の存在はあの家そのものの権威を揺るがしかねない。私は如何したら良いか、それを貴女に占って欲しいの――」
少し早口になって尋ねる彼女は、本当に切実そうで必死だった。こういう場合の回答は大体が一つしかない。メアリは習った通りの順番でタロットカードを捲っては、決められた位置へと置いていく。そうして最後に石を一つ置くと、落ち着き払った声で言った。
「結果が出ました」
その言葉に、婦人の目が縋るような色に変わる。メアリは出来るだけ、彼女の心に響くような音程の声を選んでゆっくり言った。
「中心にあるのは塔のカード。これは良くない結果です。更に、その左右にある運命を表すカードは女教皇と吊られた男。これは、貴女が選択を迫られつつある事を表しています。一方で、その下にあるのは魔術師と力です。秘め事は明らかにすべきではない、ということを指していますね」
カードの位置やその説明は間違いではない。しかし、メアリはその内容をまったく信じていなかった。何せ、メアリの占いは当たったためしがないのである。
「それは、どういう意味なのかしら?」
切実そうな声の彼女に、メアリが言うべき事は一つだ。
「忘れることが一番です。貴女は、今、私に話したことを、誰にも言ってはいけません。彼を見たことも、その内容も、絶対に誰にも話すべきではない。魔術師のように沈黙を、『力』のように内側の好奇心という獣を抑えることで、災いは避けられます」
こういった事柄は、誰にも口外無用、見て見ぬふりをし、口を閉ざすのが一番だということを、今までの経験からメアリは良く知っている。正直は決して美徳ではない。罠にしろ何にしろ、口が軽い人間は災いを呼び起こす。
メアリの忠告に、婦人は僅かに困惑したようだった。
「胸に秘めたままでいろ、というのかしら」
おずおずと訊かれたその言葉に、メアリは大きく頷いた。
「そうです。書き物にしてもいけません。何もなかった、何も聞かなかったと思えば良い。それが貴女が災いを避ける事の出来る唯一の方法です」
「そう、占いに……出ているの?」
もう一度、おずおずと尋ねる彼女に、メアリは大きく頷いた。
「そうです。貴女が何も言わなければ、災いは避けられます。貴方にとっては苦しいことかも知れない。けれど、最後まで貴女が口を閉ざしていれば、本当に悪いことはおこらないでしょう」
メアリの言葉に、婦人は小さく頷いた。納得したように言う。
「わかったわ。あの話はなかったことにします。ありがとう」
その声は多少明るさを取り戻していたのだが、しかし、メアリはなんとはなしに不安を覚える。
ジョンという、その死者の名前をうっかりと話してしまったように、彼女はどうも詰めが甘い。他にも、ロジャー氏という人物の名前も漏らしている。苦労の無い良家のご婦人にはありがちな純粋さという名の幼稚さだが、その事がどうにも引っかかるのだ。だからメアリは、最後に一つだけ忠告をする。
「もう一度言います。忘れることです。忘却は神の慈悲なのですから」
婦人はその言葉に大きく頷き、見料の他に、一ポンドものチップをくれた。メアリの占いの結果を信じた結果だろう。
高齢だが無邪気そうな彼女が、今回の出来事を他言することはないだろうと、その時、メアリは信じたのだが――。
ミルクを溶かしたかのような濃厚な霧の中、メアリは真っ直ぐに街外れの教会を目指す。メアリは運動が苦手である。苦手というより、大嫌いだと言った方が正しいだろう。しかし、自分の生死がかかっていれば、流石に好き嫌いなど言っていられない。
意図的であろうが過失であろうが、しかし、あの婦人は、あれから一週間も経っていないのに、やはり秘密を漏らしてしまったようだった。ついでにメアリのことも喋ったと思われる。
今、追っ手の靴音は聞こえない。しかし、目を凝らせば、ソールが石畳を踏む微かな音が、光を纏った数字の煌めきとして夜の帳の向こうに『見』えた。その距離は確実に縮まってきているようだ。メアリは命の危険が迫ったり、酷く緊張したりして、神経が過敏になればなるほどに、本来は聞こえないはずの微かな音さえ『見』えてしまう。
教会までは、あと五百碼(ヤード)もない。その間に捕まらなければメアリの勝ちだ。
イーストエンドの外れにある、朽ちかけた聖ジョーゼフ教会にいる司祭は、少しばかり『特別』なのだ。彼の元に辿り着けば、絶対に何とかなる。そんな確信があった。だからメアリは生きるために、夜の街をひた走る。
まだ自分は『幸せ』になっていない。こんな所で殺されて、ジェーンとの約束を破るわけにはいかなかった。
教会まであと僅かというときである。視野の外に何か数字が閃くのがちらっと見えた。その延長線上に自分がいるのを察し、メアリは咄嗟に、無理矢理体を左側へ倒す。
その刹那、メアリの顔のすぐ横を、何か鋭いものが通り抜けた。ちかっとした痛みの後で、髪が一筋千切れて宙に舞う。一拍おいて、風を切る鋭い音が耳へと届いた。
それが何かを認識する前に、メアリはそのままバランスを崩し、アスファルトが剥がれた荒れた道へと滑るように倒れ込んだ。
何かが掠めた右頬が、ぴりぴり痛む。顔を上げたメアリの目に、教会の崩れた壁に突き刺さる、鉄製の矢が見えた。それは、銃声が聞こえないために殺しには便利だということで、最近のごろつきが好んで使うクロスボウの矢である。
ぞっとした。
威嚇も無しに直接狙ってきたということは、彼等は、メアリを確実に殺す気でいるということだ。
あの時、もし音が見えていなければ、あれはきっとメアリの後頭部に突き刺さっていたに違いない。思い切り手足を擦り剥いてしまったが、しかし、あれが突き刺さる事に比べれば些細なことだろう。
振り向くと、三十碼程の距離にまで追っ手が迫っているのが見える。一方で、教会まではあと五碼もない。
メアリは痛みを堪えて立ち上がると、振り向きもせずに教会へと一気に駆け込んだ。足を動かす度に膝小僧がずきずき痛むが、それどころではない。追っ手の足音はもう間近なのだ。
「司祭様、メアリです!」
大声で自分の名前を名乗ったのは、そうしなければ、ドアを開けたときに何をされるかわからないからである。
体当たりするように礼拝堂の扉を押し開けたメアリは、予想もしなかった眩い明かりに、一瞬だけ視界が失われてしまう。
ここの司祭は暗闇を好む質だから、まさか礼拝堂に明かりが灯されているとは思いも寄らなかったのだ。駆け込む勢いはそのままに、メアリは足がもつれて転びかける。またか、と、ちらっと思った。今日は何回転ぶのだろう。そう考えながら、顔面から床に突っ込みそうになったその時――。
不意に、体が誰かによって抱き止められた。
自分よりもずっと大きくてしっかりした二本の腕だ。これが、司祭の腕ではないというのはすぐにわかる。その腕の主が着ているものは、見慣れた司祭の僧衣ではなく、灰紺のディットーズだったからだ。
床にぶつかる予定だった顔面は、勢いをきちんと殺され、布に包まれた堅いものへ、ぽすんと当たる。痛みはなかった。それどころか、なんだか安心できるような感触だ。そこに接する右頬が、何故だか少し暖かい。
誰かの腕の中に居る感覚にぼうっとしていたメアリの耳へ、聞き覚えのない、銀色の数字を纏った青年の声が静かに響く。
「……大丈夫?」
低い、そうして無感情なその声は、しかし、何処か不思議と優しいように耳に聞こえた。この声の主が自分を抱き止め、転ぶところを助けてくれた、と気付くのに少しかかった。
「だ……」
大丈夫です、と言いかけて、顔を上げたメアリは思わず息を呑む。驚くほど近くに青年の顔があったからだ。どうやら抱き止めて貰った時、彼は膝を撓めてその衝撃を殺してくれていたらしい。
青年の顔立ちはとても整っていて、まるで役者のようだった。しかし、メアリが息を呑んでしまったのは、そのためでは無い。その瞳が、あまりに綺麗な蒼だったからだ。
青年の瞳は、まるで宝石を削り出したかのように酷く蒼く澄んでいた。細かな光を反射するように眼球の表面が微かに揺らめく。こんな綺麗な色の蒼い瞳は初めて見た、とメアリは思う。空の青でも無く、海の碧でもない、何にも例えられないような深い蒼――。
宝石のような蒼なのに、瞳孔を巡るように金色の縁取りがあり、中心には濃い緑の滲みがあることが不思議だった。なんだかそれは、酷く懐かしい色のようにメアリには感じられる。この蒼を、自分は何処かで知っていた。
曲げた膝を真っ直ぐ伸ばすと、青年はメアリより一呎(フィート)も背が高い。無造作な黒髪は、その目の蒼とよく似合った。
その蒼は真っ直ぐにメアリを見つめてくる。
青年の手が無造作に動き、長い指の背で、躊躇うようにメアリの右頬に触れた。ひやりとした冷たい感覚が、火照る頬に気持ちいい。
「この傷は……」
彼が何かを言いかけたとき、不意に背後から声がかかった。
「こんな夜中に礼拝というわけではなさそうだ。何があったね、お嬢さん」
闇色の数字を纏った、低い声だ。背後の闇に溶け込むように、その数字が僅かに瞬く。メアリは思わず青年に縋るようにして、声のした方向に目を向ける。そのついでに礼拝堂の中も見渡せたが、司祭の姿は何処にもなかった。メアリはその事に、ほんの少し動揺する。
声の主は、フロックコートの、至極身なりの良い老紳士だった。彼はすこぶる背が高く痩せていて、白くカーブを描く突き出た額を持ち、深く窪んだ眼をしている。髭は綺麗に剃られ、青白く、苦行者を連想させた。あの闇色の声からは想像も出来ないほど、彼は普通の人間だった。
「貴方達は……」
人に名前を訊くときは、自分から名乗るのが礼儀だが、しかし、メアリにその余裕は全くない。老紳士もそれを察してか、咎める事は言わなかった。あの闇色の声で言う。
「私はアルフレド・ジェイムズ。ただの数学教授だ。そっちは助手のウィリアム。ここの司祭と、少し大事な話があったものでね」
「司祭様のお知り合いですか?」
メアリの問いに、ジェイムズと名乗った老紳士は静かに頷く。
「そうだ。彼は今、所用があって席を外しているのだが、もうじき戻ってくるだろう。君も、彼に用事があってきたのだろう? こんな夜更けに、そんなに息を切らせて、一体何があったのかね?」
「それは……」
問いかける老紳士に、メアリが事情を説明しようとしたその時だ。不意にウィリアムという青年が、メアリの体を抱き上げた。俗にいうお姫様だっこという奴である。
「!」
予備動作も何もなかったせいで、声を上げることさえ出来なかった。硬直するメアリに構わず、ウィリアムは素早くその場から、大きく後ろへ一歩飛び退く。
視界の隅に、灰色の数字を纏った音が、ヒュン、っと風を切るのが見えた。つい先刻、感じたばかりのあの色だ。
直前まで二人が立っていた場所の延長線上にある壁に、クロスボウの矢が三本突き刺さった。メアリの目には、鋼特有の灰色を纏った数字が、漆喰の薄緑の数字とぶつかり、小さく三度、ぱっと弾ける。
「教授」
銀色の声はまったくブレない。教授と呼ばれた老紳士は、学者とは思えない程の素早い身のこなしで、並べられている机の間に身を隠した。一拍おいて、どやどやと、妙に身なりの良い五人組が礼拝堂へ飛び込んでくる。その足音が纏う数字から、霧の中、メアリを追っていた連中だとすぐにわかった。
彼等は一様に上品そうで、仕立ての良い外套と帽子を身につけている。目深に帽子を被っているせいで、顔形まではわからない。しかし、その身から放出される雰囲気は、どうにも普通の人間ではなかった。なんというか、訓練された軍人、或いはそれに準ずる組織に所属するように、規律的でかっちりしている。
五人のうち三人は、その手にクロスボウを持っていた。残りの二人が素手かと言えばそうではなく、拳銃が握られている。町中だということを考慮してか、音の出ないクロスボウをメインに使い、そうして万一に備えて拳銃を用意している、という感じだろうか。
男達は警句一つあげることなく、立て続けに二人に向かってクロスボウの矢を放つ。確実に殺すつもりなのだろう。距離を開け、何処に退いても逃げ場がないような絶妙な狙撃だ。逃げられないと、メアリは思わず目を瞑る。しかし――。
「大丈夫。僕を信じて」
先刻から数字のまったく変わらない銀色の声でそう呟くと、ウィリアムと呼ばれた青年は、度肝を抜くような方法でそれをすべて避けきった。
この青年は、軽々とメアリを抱えたまま、ほぼ垂直に壁を走りだしたのである。重力を無視するような疾走だった。
流石にそれは想定していなかったのか、クロスボウの矢はまったく見当違いの場所に刺さる。男達が新しい矢をつがえる僅かな間に、ウィリアムは地面から跳躍するが如くに壁を蹴った。そのまま、教授のいる机の隙間に滑り込む。
一応の安全地帯に辿り着くと、ウィリアムは、静かにメアリの体を地面に下ろした。当のメアリは、驚きすぎて声もない。
床にしゃがんで身を屈めていた教授が、特に動じた様子もなく言う。
「……なるほど、君がここに逃げ込んできたのは、つまりはそういう理由かね?」
相変わらずの闇色の声だったが、纏う数字がほんの僅かに跳ね上がる。これは、面白がっている反応だろうか。
メアリは心臓がばくばくとしてしまい、何も答えることが出来なかった。代わりに、阿呆のように、何度も何度も頷いてみせる。
一方でウィリアムはまったく何も変わらない。こんな時なのに、表情一つ変えることなく教授に言った。
「教授。どうしますか?」
流石に声を潜めてはいるが、銀色がブレる様子もなく、纏う数字も一定だ。この状況にも、まったく動じていない。
その問いに、面白がっているという証の数字を纏っているのも関わらず、淡々とした口調で教授が答えた。
「このお嬢さんを引き渡したとしても、我々が無事に見逃されるわけもない。であるのなら、まぁ、ここは彼等を始末してしまった方がいいだろうな」
「わかりました。しかし、素手だと手加減が少々難しいですが」
ウィリアムの言葉に、教授が僅かに口の端を歪めて言った。
「丁度良かろう。その方が後腐れがない。しかし、面倒なことになったものだな」
闇色が少しばかり濃くなったが、しかし、それは面白がっている度数が上がった証拠だとメアリには見えた。こんな状況なのに、この教授はとても面白がっていて、そうしてウィリアムにはまったく変化がない。
この二人は何者なのか。こんな状況で面白がるなど普通ではない。けれど、この二人を巻きこんでしまったのは自分なのだ。それなのに、彼等の言葉に呆れるなんて、浅ましいにも程がある。
「本当にごめんなさい……」
いろんな意味で、メアリが心からの謝罪をすると、教授が静かに首を振った。ゆったりとした、断言に近い言葉で告げる。
「謝る必要はない。これはおそらく、必然であるのだから、メアリ・ジズ嬢」
「え?」
唐突に名前を呼ばれ、メアリは酷く戸惑った。何故この人は、自分の名前を知っているのだろう。ファーストネームだけであるなら、さっき礼拝堂に飛び込むときに名乗ったからわかる。しかし、教授は、今、メアリのフルネームを呼んだのだ。
怪訝そうな顔のメアリに、教授が唇の端を軽く吊り上げて言う。
「理由は司祭が戻ったら話そう。そうか、君が、ギルバートの……」
闇色の声に、初めて暖色のような何かが混じった。しかしそれはほんの一瞬で、すぐに消え去る。教授はあの闇色の声で、ウィリアムに向かって言った。
「さて、ウィリアム。彼女は私が見ていよう。心配はいらない」
「……頼みます」
短くそう言うと、ウィリアムは何故か一瞬だけメアリを見る。唐突に、本当に無造作に立ち上がった。
「危な……」
あまりにも無造作だったので、メアリは思わず声を上げてしまう。しかし、警告の言葉は最後まで発せられることはなかった。
目の前で起こった光景が、あまりに信じがたいものだったからだ。
ウィリアムが立ち上がった瞬間に、クロスボウの矢が放たれる。しかし、今度もまた、それらが青年の肉を裂くことは一切なかった。青年は無造作に体を捻り、誰かと狭い道をすれ違うような動きでそれを避ける。
男達の間に、ほんの僅かの動揺が走った。
「――なべてはその生まれ来たる元素へと還っていく。肉体は土に、血は水に――」
ウィリアムの銀色の声が、何かの詩を小さく呟く。その瞬間、メアリの目には、彼の胸――多分心臓の上あたりに、数字を纏った小さな光が一つ弾けるのが映る。それは、どこか灼かな、音の発する光の色だ。
何処までも蒼く、淡い尾を引く光だった。蒼と紫が織りなすグラデーションの光というべきなのか、それとも他の何かというべきなのか。ごく希に雷がこんな色を放つことがあるが、音にこんな色が付くのをメアリは『見た』ことがない。見える数値も九だけというシンプルさだ。
耳には決して聞こえない音であっても、今のメアリはそれを『見て』しまう。それは、生死の境にいるときにだけに起こる現象だ。
だから、それが見えたのも、多分何かの偶然だった。ウィリアムの変化に、きっとこの場にいる誰もが気付いていない。
あまりにも無造作に踏みしめられた青年のその一歩は、二歩目には疾走に変わる。一気に距離を詰め、ウィリアムは、一瞬で男達の目の前に移動していた。
彼の右手が静かに挙がる。その指先に、あの数を纏った蒼い光が凝っているのをメアリは見た。きっとそれは、普通の音とは違うものだ。熱のない炎のようなヴィジュアルの音など、メアリは知らない。
火の灯った指先が、軽く一人の男の額に触れる。その瞬間、指先からその蒼い数字が散った。稲妻そっくりな、あの色に触れられた途端、その男が、がくんと膝から崩れ落ちる。白目を剥いて口から泡を吹いているのが遠目からでもよく見えた。
二人目、三人目も同じように額に触れるだけで倒れていく。
我に返ったように、四人目と五人目が同時に銃を構える。しかし、それらから放たれた数発の弾丸は、ウィリアムに当たることは終(つい)ぞ無かった。銃口が向けられた瞬間に、ウィリアムは銃身を掴んで明後日の方向に向けている。銃身に触れた途端に、耳には聞こえない音が弾けるのが見えた。何故か男達が銃を手から取り落とす。
あとは前の三人と同じだ。瞬きの間に、ウィリアムが四人目と五人目も伸してしまう。相変わらず額へ軽く触れただけであるので、伸す、という表現が正しいかどうかはわからないが、兎にも角にも、この青年が、一瞬で五人の男を倒してしまったのは事実だ。
「今のは、一体……」
あっけにとられて呟くメアリに、教授が静かに答える。
「あれは腕っ節が強いからな。安心したまえ、全員命に別状はない。手加減は一応している」
ただ触れただけで大の男が失神させられるというのは、腕っぷしが強いというような問題だろうか。もっと他の理由な気もする。しかし、教授の言葉に嘘は一切感じなかった。ウィリアムは、手際よく失神している男達を縛り上げると、こちらに戻りながら言う。
「教授。こちらはすべて終わりました」
本当に何一つブレない声だ。メアリはただ、ぱちぱちと目を瞬かせる事しか出来ない。さっきまでのあの死の恐怖はもう何処にもなかった。
助かった。否、助けられた。
改めてそう思う。安堵した途端、体中の擦り傷がずきずきと自己主張をはじめるが、しかし、彼等にお礼を言うのが先だと思った。
メアリは走りすぎて膝が笑う体を叱咤して、ふらふらと立ち上がる。教授とウィリアムに向かい、丁寧に頭を下げてお礼を言った。
「ありがとうございました、本当に助かりました」
命の恩人に対してもう少し気の利いたことを言いたかったが、しかし、感謝の気持ちが大きすぎて、逆に他の言葉が出てこない。
「何、気にしなくても良い。こちらこそ、君を助けられて本当に良かった。なぁ、ウィリアム」
淡々と告げられた教授の言葉に、ウィリアムも静かに頷く。ウィリアムはポケットからハンカチを取りだすと、メアリに無造作に差し出した。
「今、湯を沸かしてくるから、それまではこれで血止めを」
その言葉に、メアリは思わず自分の頬を指で触れる。その瞬間、ぬるっとした液体の感触と、ぴりっとした痛みが走った。慌てて指先を見ると、赤い血が付いている。どうやら、あの時避けたクロスボウの矢は、メアリの頬を掠めたときに傷をつけていたらしい。
「ありがとうございます、でも、これではハンカチが汚れて……」
ウィリアムは皆まで言わせなかった。そのまま無言でハンカチをメアリの頬に押し当てると、教授に向かって言う。
「少しこの場を離れます」
その声には、ほんの少しだけゆらぎがあった。元の声が纏う数が二、六四七八だとしたら、今の数が二、六五八八になったくらいの、ほんの僅かな感情のゆらぎだ。だからそれが何を意味するのか、メアリにはわからない。
ウィリアムの言葉を受けて、教授が静かな声で言う。
「わかった。彼女は私が見ていよう」
さっきと同じような物言いだが、しかし、面白そうなあの色はすっかり形を潜めている。元通りの闇色の声だ。
それを確認した跡で、ウィリアムは静かに礼拝堂を出て行った。教授と二人きりになり、メアリは少し緊張をする。
頬に当てられたハンカチからは、石鹸の良い匂いがした。緊張が解けてきたせいだろう、だんだんとメアリの目に映る音の色と数字の種類が、十分の一程に減っていく。さっきのように精神が過敏な折は、メアリには聞こえない筈の音をも『見て』しまうが、落ち着けば、耳が拾える程度の音しか『見えなく』なる。そのおかげで、ゆっくりと目の前の教授を観察することが出来た。
命の恩人を観察するというのも不躾な話だが、しかし、この老紳士もあの青年も、なんだか普通ではないようにメアリには思える。里親に捨てられて以降、メアリには、初対面の人間をとにかく観察するような癖が付いてしまっていた。
教授というだけあって、彼は良く書き物をするようだ。手首の動きでそれとわかる。アルバート(時計用の鎖)の長さから察するに、性格は几帳面で、そうして常に何かを考えているらしい。フロックコートはかなり上等な仕立てのようで、ウェストコートもズボンもそうだが、先ほどの青年のディットーズとは違い、既製品の類いではないようだ。きっと金銭的に不自由はしていない。指先に僅かに焦げの跡があることで、この人は煙草を吸うが、パイプではなく葉巻か紙巻きを好み、そうして多分、恐ろしく頭が良いというのもわかる。
現段階で、メアリが読み取れたのはそれだけだ。その他のことはどうにもわからない。なんとなく、彼等は他の人とは違うのだ。
頭の中で情報を整理する時のメアリは、どうもかなりぼんやりした顔をしているらしい。教授がやや心配するように言った。
「傷は痛むかね? 頭を打ったりはしていないのだろう?」
「あ、はい、大丈夫です。なんだか緊張の糸が切れてしまって……」
実際それはかなり正直な感想だ。仕事から家に戻る最中に、謎の男達に襲われて、そこからずっと逃げっぱなしだったのである。擦り剥いた手足が今頃痛い。
「それはそうだろうな。君が無事で本当に良かった」
沁々(しみじみ)と呟かれるその声は、相変わらずの闇色なのだが、ほんの僅かに数字が変わる。けれども、本当にそう思っているのか、それとも嘘をついているのかはよくわからない。
「あの……、先ほどから不思議なのですが、どうして貴方は私のことを知っているのですか?」
恐る恐る訊いてしまったのは、素直に疑問だったというのもあるが、なんとなく、それを知るべきだと思ったからだ。
メアリは自分の直感を信じている。直感というのは、全人格を賭けた刹那の判断であるからだ。果たして教授は、ほんの僅かに目を細めて言った。
「少々込み入った話だからなぁ。フォークス司祭から直接話を聞いた方が、きっと君も納得できる。司祭が戻るのは直だ。それまですこし待っていたまえ」
彼が司祭の知り合いだというのは、先ほどの会話からでもわかっている。司祭はメアリが全幅の信頼を置く数少ない大人の一人だ。司祭に聞けと教授が言うのなら、そうするのが良いかもしれない。とりあえず、教授の声に嘘は見当たらないのだから。
ぎこちなく頷くメアリに、教授がほんの僅かに微笑んだ。あの声のままで言う。
「一つだけ言えることがあるならば、私は君に、幾つかの選択肢を用意しに来た。君には選ぶ権利があるからだ」
「選ぶ?」
「そう、選択肢の数は未来の数だ。しかし、人間が選べるものは、ひとつにひとつ、二つは選べない。幾つもの可能性があったとして、結局人は、自分が選んだものしか手にできないのだ。君は、何を選ぶかね?」
唐突に告げられた、選ぶというその言葉。闇色の声は些かもゆらぐことなく、真っ直ぐにメアリに向かって発せられる。
その言葉を信じるか、信じないか。
――それが、すべての始まりだった。
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