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Nostalgia 第一章・1.5

 大英帝国、リヴァプール。――始まりは、あるいはこの場所だったのかも知れない。
 イーストエンドの騒動と同時刻。倫敦から南へおよそ八十哩(マイル)の港町でも事件は起こった。
 深夜であるにもかかわらず、港に停泊した汽船からは、一斉に乗客達が降りていく。極東――日本からの船である。乗客の数は意外と多く、タラップの辺りでは少しばかり渋滞が起きているようだ。見れば、本国では流行遅れのバッスルを付けた婦人が階段を降りるのに難渋しているものらしい。彼女たちはおそらくは、日本帰りの外交官や大使の妻や子女だろう。時期的に、今年の八月に日清戦争が勃発した為、身の安全を考えて帰国を選んだ者達だ。
 低気圧の影響で深夜の入港になってしまったが、彼女たちは皆、安堵したかのように懐かしい祖国の地を踏んでいた。
 一方で、明らかに物見遊山の船旅から戻ったと言わんばかりの放蕩家丸出しの紳士達もいる。彼等は一様に上質な帽子と外套を身につけ、最新の流行である、藤の杖に見事な彫刻の施された象牙や獣の角などの握りを付けたステッキを持っていた。仕事などで海外に長期滞在していた者ではなく、単なる旅行帰りだという証拠だ。
 近頃、裕福な資本家や上流階級の間では、海外旅行が密かなブームとなっている。海外と言っても、ドーヴァー海峡を渡った直ぐ側の、仏蘭西(フランス)や伊太利亜(イタリア)への旅行ではない。最近の流行の旅行先は、異国情緒溢れる印度帝国や南阿弗利加、そして極東の日本である。
 英国(イギリス)の貴族、フィリアス・フォッグが八〇日間で世界一周をしてから二十二年。世界は確実に狭くなり、一八八九年には米国の新聞記者であるネリー・ブライが僅か七十二日間で世界を一周したし、旅行代理店であるトマス・クック社はもう何度も世界一周ツアーを主催している。
 今は、金さえあれば、海を渡り、陸を超えて簡単に世界の果てへ行ける時代なのだ。暇と金を持て余した者は、挙って異国へ旅に出る。人気のある旅行先は、地の果て海の果てと呼ばれる極東や印度である。冒険よりも物見遊山の色が濃い、そんな旅でスリルを楽しむのが最近の流行だった。
 婦人方によるタラップの渋滞が解消された後を、悠然とした仕草で降りてくる紳士も、おそらくは、そんな海外旅行から戻った一人だろう。仕立ての良いモーニング・コートとトップハットを身につけたその男は、端から見ても酷く上機嫌そうだった。下手な鼻歌を歌いながら、スキップするような軽い足取りで地上へ向かう。手にした拵えの良いステッキは、藤ではなくオニキス製で、それだけで彼の身分や財力の高さが窺えた。目でも悪いのか、或いは単なるファッションかはわからないが、色の濃い保護眼鏡が印象的だ。
 しかし、一方で、年齢の方はよくわからない。颯爽としたその姿は三十代になったばかりの青年にも見えるし、五十代半ばの気力に満ちた壮年のようにも思える。保護眼鏡で目の色は見えないが、それ以外の表情は酷くにこやかだ。生命を謳歌するような、そんな精気に満ちていた。
 紳士は、タラップをリズミカルに降りながら、背後に控える、大きな旅行鞄を二つも両手に提げた長身の青年に声を掛ける。
「帰ってきたねぇ、英国に。倫敦塔は、今も烏がいっぱいかな?」
 それは表情と同じく、楽しくて仕方がないという風な声だった。
 けれどそれとは対照的に、話し掛けられた青年の方は口を真一文字に結んだまま何も答えない。ケンブリッジ・ハットを目深に被っているため、表情は何も窺えないが、そこから覗く白金の髪が妙に目立った。鈍色のディットーズにフォアインハンド・タイという組み合わせから、この青年の身分が高くなく、おそらくは紳士の使用人であろうことがわかる。
 紳士は青年に無視されても特に気分を害した様子はない。愉快そうに言った。
「まったく、まだ拗ねてるのかい、キミは。そもそも、良心の呵責なんてものは幻だよ? 罰が無ければ罪も無いのと同じだろ?」
 青年は何も言わない。その姿は、拗ねている姿とは最も遠いところにあるようだが、しかし、紳士はそれを無視する。
「ほんと、拗ねたいのは私の方だよ。帰国早々、こんな夜中にこれからウィンザーくんだりまで出かけていって、あのハンプティ・ダンプティのご機嫌取りをしなくちゃいけないんだ。ブラウン君はほんとまぁ、良くやってたよ。丹毒で亡くならなかったら、幾つまであの婆さんの閨の相手をしてたんだろうね」
 タラップの最後の一段を降り、英国の地を踏みながら、紳士は機嫌良さそうに暴言を吐く。後に続く青年もタラップから地面に足を付けた。
 紳士は足取りも軽く、後に続く青年が大きな旅行鞄を二つも提げていることなどまるで無視して、船からの荷物の積み卸しを行っている倉庫区へと向かう。一方で青年も、特に鞄の重さを感じている気配もなく、悠々とした足取りで彼の後ろをついていく。
 彼等が向かうのは、船の乗客の大半が向かう入国管理局ではない。その隣にある、荷物の積み卸しを行う港の税関だ。眠そうな顔の係員に話し掛け、数枚の書類にサインをしてから半券を受け取ると、二人はそのまま税関の裏手にある、積み荷が一時的に収められる倉庫区へ足を踏み入れた。
 倉庫区は、所々に立っているガス燈しか明かりがない。空には半月が浮かんでいるが、光源には不十分だ。
 闇の中にもかかわらず、相変わらず陽気な口調で、紳士が呟く。
「さて、一足先に送った『荷物』はどこかな? 予定より早く着きすぎて、奥の方へ深仕舞いしちゃったって、さっきの職員は言ってたけどね……」
 薄暗い明かりを頼りに倉庫群の狭い通りを歩きながら、あからさまにきょろきょろと、紳士が周囲を大仰に見回す。青年は何も言わず、ただ、顔を伏せるようにしてその後ろをついて行くのみだ。
 広大な倉庫街を二百碼(ヤード)も進むうち、ふと、初めて青年が口を開いた。低い声で、ぶっきらぼうに言う。
「……気をつけろ。尾行(つ)けられている」
 低いというより、不機嫌極まりない声だ。声を掛けられた紳士は、振り向きもせずに面白そうに言う。
「ふーん。いつからだい?」
「たった今、つまりはこの倉庫群の入り口からだ。気配は十二」
 青年の言葉に、紳士が愉快そうに笑った。不穏なことを告げられたのに、全く意に介さぬようだ。
「へぇ。相変わらずこの国は物騒だね。一応ここは、入管の管理下に在るはずなのに。まぁ、こんな夜中なら仕方が無いか」
 陽気に呟く紳士に、青年が呆れたように息を吐(つ)く。勝手にしろ、と言わんばかりに、不機嫌そうに頭(かぶり)を振った。
 一方の紳士は、鼻歌交じりで足を進める。
 道でも間違えたのか、何もない突き当たりで立ち止まった。コツン、と一つ、オニキス製の杖が鳴る。
 その瞬間、周りの建物から、わらわらと屈強な男共が現れた。最近流行の観相学的に言えば、全員が粗野で貧相な悪人の顔つきであり、身なりは汚い。
 彼等は、港に常駐する荷運びの人足だった。どうやら相当量を飲んでいるらしく、皆一様に赤ら顔で、吐く息も酒臭い。微かな腐臭も感じることから、ジン中毒に片足を突っ込んでいるのだろうか。
 各々が棒きれやナイフを手にしているところをみると、とてもまともな労働者の類いにはとても見えない。
 荷運びの人足は、大抵が犯罪者と紙一重の職業だ。真面目な労働者も勿論いるが、問題ばかり起こすので船を追われた水夫崩れもまた多い。そういった連中が真面目に荷物の積み卸しを行う訳もなく、迷い込んできた旅行者を恐喝したり、荷を奪ったりすることでその日の糧を得るような輩ばかりだ。殺人だって厭わない。彼等にとっては、上等な服を着て、更には重そうな旅行鞄を持った従者を連れた紳士など、鴨が葱を背負ってきたようなものだろう。
 国際港の税関の倉庫群という場所は、意外にもごろつき達が屯(たむろ)する犯罪の温床地域でもあった。政府の組織の建物が直ぐ側にあるということもあり、なんとなく来訪者が油断してしまうのだ。しかも、べらぼうに広いため、警備の目が行き届かない場所でもある。一種の盲点でもあろうか。そんな場所に、夜も遅くに迷い込んだ身なりの良い二人組など、格好の獲物だろう。
 哀れな被害者の死体だのなんだのは、直ぐ側の海に沈めてしまえば良いのだから、証拠も何もあったものではない。まさに強盗にはおあつらえ向きの場所だった。ごろつき達は手慣れたもので、たちまちのうちに逃げ場を塞ぐように被害者候補の二人を取り囲む。
 蟻の這い出る隙間もないほど完璧な包囲陣を見て、紳士が至極愉快そうに言った。
「あらららら。随分と物々しいね。ひい、ふう、みい……。キミの言うとおり、ちゃんと十二人居るね。しかも笑っちゃうくらいに正統派のごろつきで無頼っぽい。米国(アメリカ)や濠太剌利(オーストラリア)にだって、こんな古典的な連中はいないよ。ギャングとかマフィアはやっぱり格好いいんだねぇ。うん、さすがは大英帝国だ。彼等はやっぱり私達を狙ってるのかな?」
 楽しくて仕方がない様子の紳士へ、青年がうんざりしたように言う。
「夜中にそんな金持ち丸出しの格好でこんな場所をうろついていたら、襲ってくれと言っているようなものだろう。全くあんたは何もかもわかっていて、そうしてこれからどうなるかも理解した上で、そう言うんだ。付き合わされる俺の身にもなってみろ」
 青年の発する心底嫌そうな言葉を聞いて、さも心外そうに紳士が答える。
「いやいやいや、それはね、誤解ってもんだよ。今回に限っては、私は普通に荷物の確認の為だけにここに来たんだ。まぁ、こういうこともあるだろうな~って今、一瞬だけ思ったのは否めないけどさ、わざとじゃないよ」
「今回に限っては、か」
 目深に被ったケンブリッジ・ハットの下で、青年が呆れたように呟いた。紳士は相変わらずの上機嫌で、包囲を狭めるごろつき共を畏(おそ)れもせず、寧(むし)ろ嬉しそうに見つめている。
「しかし、幸先が良いね。墓掘り人夫の手配をどうしようかって思ってたけど、向こうから来てくれた。役に立ちそうなのは何人くらいいるかな? 日本で手に入れた例の技術を試せる良い機会だ」
 青年は黙りこくって何も答えない。すっかりと会話に倦んだようで、答える気さえないようだ。
 そうこうしているうちに、完全に周囲を包囲したごろつきの輪から、下卑た笑みを浮かべた男が歩み出た。この集団の頭のようだ。ナイフをちらつかせるようにして言った。
「おやおや、迷子にでもなりましたかな、旦那様。こんな所、あんたみたいな紳士が来るような場所じゃアありやせんぜ。こんな人目につかない路地裏で、うっかり足でも滑らせて海に落っこっちたって、誰も探しにゃ来ませんからな」
 水夫らしい、濠太剌利(オーストラリア)訛りの強い英語だ。冗談めいた台詞には殺意がはっきりと表れていて、完全に鼠が猫をいたぶるような悪趣味さが滲んでいる。さっさと襲って殺してしまえば良いものを、こうして被害者の恐怖を煽って楽しんでいるのだ。上流階級に対する労働者階級の鬱屈は、こんな所にも現れる。
 しかし、紳士には、そんな不穏な気配にも一向に物怖じする気配がない。にこにこしながら陽気に言った。
「ああ、ご忠告痛み入るよ。別に迷子ってわけでもないんだけど、そう見えちゃうなら仕方ないなぁ。私は泳ぎは苦手だから、海に近づくのは止めておこうか」
 脅えの色さえも見せず、いけしゃあしゃあと言ってのける紳士に送られたのはごろつきどもの嘲笑だ。精一杯の虚勢を張っているというよりも、心底脳天気な愚か者だと思われたようだ。頭らしい男がにやつきながら言った。
「その重そうな荷物と、高級そうなステッキを置いていけば、まぁ泳ぎやすくはなるんじゃないですかい? 寒中水泳は体に良いそうですぜ、旦那。手伝いますから、試してみては?」
 男の合図で包囲の輪が一気に狭まる。ナイフを持った男が進み出て、紳士に向かってナイフを振りかぶった。暴漢の手が躰にかかる寸前であっても、紳士は顔色一つ変えることなく、ただ陽気に笑うのみだ。
 振りかぶられたナイフが、真っ直ぐその胸に突き立てられる寸前になって、漸く青年が動いた。旅行鞄から片手を離すと、まるで猫の子にするように紳士の首根っこをひっつかみ、ひょいと後ろに放り投げる。ナイフが突き刺さるぎりぎりで、紳士の躰は一応の安全圏に移動した。
 ナイフを持った男は蹈鞴を踏んで、危うくバランスを崩しかける。どっと周囲から嘲笑が上がった。
「この野郎、ふざけやがって……!」
 仲間の前で恥を搔かされたと思ったのか、男は今度は青年に向かってナイフを振り上げる。手慣れているのか、殺人に何の躊躇もない動作だ。
 青年は確かに長身ではあったが、しかし、雲を突くような大男でも、ヘラクレスのような筋骨隆々の体つきでもない。若者らしいすらっとした体躯で、余程ごろつき達の方が体格が良いだろう。誰しも次の瞬間には、刺されて血を撒き散らす彼の姿を想像する。
 しかし、血は一滴も出なかった。
 青年は最小限の動きでナイフを避けると、男の目の前に、指を鳴らす直前の形を取った右手を向ける。
 パキン、と小気味良い音が鳴った瞬間、見えない何かに突き飛ばされたように、ナイフの男が吹き飛んだ。
 ゴッと鈍い音がして、男の後頭部が石畳に激突する音がする。周囲にいた男達がざわめいた。
 ナイフの男の鼻からは、大量の鼻血が吹き出している。びくびくと痙攣し、明らかに尋常な様子ではない。
 青年は、男の体には指一本触れていない筈だった。単に目の前で指を鳴らしただけなのに、それなのに、男はこの有様だ。背筋の凍るような空気が流れる。
 戦慄する空気を破ったのは、妙に場違いな、あの紳士の陽気な声だ。
「あ~あ、勿体ない。ほんとにキミは変なところでお人好しだねぇ。折角の部品(パーツ)がぐちゃぐちゃだ、これじゃあもう、燃料くらいにしか使えやしない。まったく、私としたことが、キミの性格を、すっかり失念していたよ」
 陽気ながらも子供のように膨れてみせる紳士に、青年は何も言わなかった。それとは真逆に、紳士が芝居がかった様子で言う。
「次からは、殺しちゃだめだよ? 達磨は良いけど、頭はちゃあんと綺麗に残しておくようにね。これはねぇ、命令だ」
 冗談のように告げられた物騒な言葉にも、青年は何も答えない。代わりにごろつき共に言う。
「……そういうわけだ。生きながら地獄に堕ちたくなかったら、今のうちに疾(と)く去れ」
 不機嫌極まりない声だったが、そこには紛れもない忠告の色が滲んでいた。しかし、ごろつき共は、それに気付かない。仲間が死んだことにより、頭に血が上ってしまっているからだ。面子を傷つけられたという思いもある。
 妙な技で、一人があっけなく殺されたとしても、それは対一でのことだ。残りの十一人で一斉に遅いかかれば、あっという間に事は終わる。いつものようにすればいいのだ。
 青年の忠告を無視し、今度は一斉に襲いかかるごろつき達の群れに、紳士は心底嬉しそうに笑みを浮かべた。ラテン語の句を小さく呟く。
「――我等は危害を加える力を持っている(Ad nocendum potentes sumus.)。そして地獄は地獄を呼ぶ(Abyssus abyssum invocat.)」
 とても優しい声だった。先刻の上機嫌な声でもなく、また猫なで声ともまた違う、日だまりのような声。それは、紛れもなく慈愛に満ちた声である。
 青年が、改めて不機嫌な溜息をつくのと、彼が地面に置いていた旅行鞄が『内側から』開くのとは、ほぼ同時だった。そこから飛び出したものに、ごろつき達は気づけただろうか。
 妙に禍々しい絃管の音が響くのと、魂消るような絶叫が倉庫群の壁に木霊したのは、それから一瞬後の事だった。


 フォークス司祭が戻ってきたのは、メアリが教会に駆け込んでから、おおよそ一時間が経った頃だ。
 メアリは頬と手足の傷をお湯で綺麗に洗ってもらい、手当てを受けた後だった。手当てをしてくれたのは教授ではなく、ウィリアムだ。若い男性に、手や頬の傷は兎も角、足の傷を手当てして貰うのはとても恥ずかしかったが、そんな贅沢を言える状況でもない。
 手当てを受けて、渡されたお茶を飲み、漸く人心地が付いた頃、礼拝堂の向こうが俄に騒がしくなった。ドカドカと、聖域に相応しくない大きな足音が近づいてくる。その足音には『見覚え』があった。
「戻りました、ジェイムズ教授。お探しの娘ですが……」
 屈託のない大声と同時に、勢いよく礼拝堂の扉が開く。そこには、黒の僧衣(スータン)を纏ったカトリックの神父の姿があった。体の厚みや大きさが凄まじく、盛り上がった筋肉が僧衣の上からでも確認できる。それは、メアリの良く知る人物――聖ジョーゼフ教会の神父、フレデリック・フォークスだった。
 フォークス司祭は、身の丈六呎半、体重に至っては二百十封度(ポンド)を優に超える大男だ。正確な年齢を聞いたことはないのだが、見た目では、五十前後だ思われる。性格は見たままで豪放磊落、司祭というには些か明け透けなところがあるが、弱い者にはとにかく親切で、ジェーンの葬儀を執り行ってくれたのもこの人だった。
 司祭になる前は軍人だったそうで、そのせいか腕っぷしが半端なく強い人だ。金目のものがあると踏んで教会を襲った十数人のごろつきを、あっという間に叩きのめしてしまった事もある。追われるメアリが、とにかく教会に行けば助かると信じたのもそのためだ。
 礼拝堂に入った途端、司祭はあからさまに怪訝な顔をした。壁や床に突き刺さるクロスボウの矢や、縛られたまま床に転がる曲者達を見れば誰でもそういう反応になるだろう。
「これは……」
 些か憮然としながら辺りを見回していた司祭が、メアリに気付いた。大股でこちらに近づき、無遠慮に言う。
「なんだ、メアリ。ここに居たのか、随分と探したんだぞ?」
「私を、探す?」
「そうだ。こちらのジェイムズ教授に頼まれてな。しかしどうしたんだ、メアリ。随分酷い有様だ」
 頬に貼られた絆創膏を見て、司祭が、呆れたような声を上げる。彼の声は濃い栗色で、おまけに数字も大きいので、メアリは叱られた子供のように、思わず肩を竦めてしまう。
「ごめんなさい……」
 小さく謝るメアリを見て、司祭は呆れたように言った。
「別に俺に謝るこっちゃあないが……。お前は相変わらず、変なことにばかり巻きこまれるなぁ。占い師には向かないんじゃないのか」
 司祭の言葉に、メアリは少し俯いた。占い師の素質がないのは、自分が一番知っている。けれど、それ以外で金を稼ぐ方法をメアリは知らないのだ。向き不向きの問題では無いと思う。
「お前は占い師というよりも、そもそも下町(ここ)で生きること、そのものに向かんのだろうな。だから丁度良かったな」
「丁度良かった?」
 不思議そうに訊き返すメアリに、事も無げに司祭が言った。
「ここに居られるジェイムズ教授だが、お前を引き取りに来たんだよ。お前、やっぱり良いところのお嬢さんだったんだなぁ」
 寝耳に水というよりも、驚天動地の事柄を、司祭はあっさりメアリに告げた。メアリは思わず訊き返す。
「引き取る、って、どういう……。私はこの方とは初対面です。そんな方が如何(どう)して私を……」
 訊き返すというよりも、なんだか尋問のような物言いだ。何故、この老紳士はメアリを引き取るのだろう。そもそも、メアリを引き取る為にイーストエンドを訪れていたとして、普通はこんな深夜に迎えに来るものだろうか。メアリに命の危険が訪れた、この日、この時、この場所で邂逅するのは出来過ぎだった。警戒してしまうのも無理はないだろう。
 メアリの言葉に、司祭はあっさり頷いた。
「そりゃあそうだろうな。普通はそうなる。だが、事情を知れば、お前も納得するだろう」
 そう言うと、司祭はポケットから二通の手紙を取り出した。
「これは、かつて俺が所属していた英国陸軍の大佐からの紹介状と、もう一通はベアリング兄弟銀行の貸金庫の記録だ」
 その手紙の片方は確かに英国陸軍の公用便箋であり、もう一通は銀行印の押された正式書類だった。
「これを持ってきたのは、他ならぬそこの教授だ。大佐からの紹介状は教授の身分を保障する物であり、ベアリング銀行の書類は、お前の資産に関する重要な内容が記載されている」
「資産?」
 孤児のメアリに資産など在るわけもない。なけなしの二十五磅(ポンド)はあの夫婦にだまし取られてしまったし、その日暮らしの占い師には、銀行に預けられるほどの貯蓄もない。
 不審そうなメアリに向かい、司祭はゆっくり事情を説明してくれた。
 その内容は、メアリには想像もつかないものだった。
 今から丁度、十日ほど前の話だ。ジェイムズと名乗る教授が、顔なじみの警官と共にこの教会へやってきた。こんな貧民街の教会だ。碌でもない用件で警察の訪問を受ける事は珍しくもなかったが、しかし、今回は少々勝手が違っていた。
 警官は、七年前にイーストエンドに捨てられた少女を探していると言った。何でもひと月ほど前に、チェスターで一組の夫婦が捕まったのだという。その夫婦は悪辣な犯罪者で、身寄りの無い子供を引き取っては、その子が持つ僅かばかりの財産を奪っては殺すという、身の毛もよだつような犯行を繰り返していた。彼等の犠牲になった子供達は十五人を優に超えるらしい。
 こんな悪魔どもが長い間野放しになっていたのには、犠牲者が身寄りの無い孤児であるために、事件の発覚が遅れたというのもあるが、最大の理由は、肝心の遺体が見つからなかったせいだった。彼等は殺した子供の遺体を大学の研究者に解剖用に高値で売りつけ、証拠隠滅と共に更に小金まで儲けていたのである。凄まじい強欲振りだ。悪魔だってもう少し遠慮をするだろう。
 警察が殺された子供達の素性を調べるうちに、一番最初に彼等夫婦に引き取られた少女だけ、貧民街に置き去りにされ、直接手を下されていないことに行き当たった。可能性は零に近いが、しかし、その少女はまだ生きているのかも知れないと、捜査に当たった刑事達は、彼女の行方を必死で追った。
 その少女は中流階級の出であり、預けられた孤児院も、救貧院とは異なって書類管理がしっかりしていたため、名前などの情報が残っていたのである。彼女のことを調べるうちに、少女の父親がベアリング兄弟銀行に貸金庫を借りていた事を知った。警察が貸金庫の中身を確認したところ、中には、彼が娘の後見人となるべき人間に当てた手紙と、二千磅の小切手が入っていた。本来ならば十二年前にそれが開けられているはずだったことが判明したのだ。
 ベアリング兄弟銀行の名誉のために言っておけば、その貸金庫が開けられなかったのは、銀行側の落ち度ではない。単純に確認を怠った、役所側の人為的ミスである。
 手紙は即座に後見人に指名された人物の元へ届けられた。それこそが、警察と同行しているアルフレド・ジェイムズ教授だ。
 彼はイーストエンドの事なら、葬儀を引き受ける教会の司祭が一番詳しいのではないかと判断し、ここ、聖ジョーゼフ教会を尋ねることを提案したのだという。
 その話を聞いた司祭は、一応は納得をした。彼と共にいる警官は顔見知りの人間だ。メアリ・ジズという少女も確かに司祭は知っている。
 しかし、納得はしたが、教授を素直に信用はしなかった。何せ彼とは初対面だ。言うことをそのまま鵜呑みにするわけにも行かなかった。
 大金には、人を悪に走らせる魔力がある。この教授が、あの里親のように、遺産の二千磅をそのまま着服するために、メアリを殺害する可能性もあるからだ。
 そこで司祭は、教授がどんな人物か、紹介状を書いたかつての上司に確認したり、彼の経済状況などを細かく調べた。
 教授は一時期、陸軍士官学校受験予備校の教師をしていて、大佐とはその縁で知り合ったらしい。経済的にもかなり裕福で、地位も名誉もある。フィッツロヴィアに屋敷を構え、上層中流階級の紳士として悠々自適な生活を送っていた。金に困っている気配もなく、それどころか、得意の数学で軍や警察に協力し、様々な暗号を解く手助けまでしているらしい。申し分ない名士だった。
 調査には十日近くかかってしまったが、漸くこの教授は信用できると判断した司祭は、今晩、仕事帰りのメアリをつれて、彼と引き合わせる約束をしていたのだという。
「しかし、いざいつもの場所へ行ってみれば、お前はもう帰った後で、家まで行っても誰も居ない。色々探し回り、まさかと思って教会へ帰ってみれば、こんな事になっているとはなぁ……。本当に無事で良かった」
 散々調べたという割りに、司祭はまだ何処かで教授を疑っていたらしい。しかし、今回の件で完全に疑惑は無くなったようである。この司祭は豪放磊落で単純そうに見えて、実は凄まじく慎重で疑り深いのだ。そうでなければ生きていけないような戦場に長くいたという話だが、真偽の程は不明である。
 そんな人物が何故、軍人を退役した後で教会の司祭になったかはわからない。ただ、彼は、子供や老人など、無力な人間には本当に親切だった。メアリは一度、彼が罪滅ぼしだと嘯いたのを聞いたことがある。しかし、彼がどんな罪を背負っているかはわからない。
 そういうわけで、メアリは司祭を信用していた。彼が教授を信用できると判断したなら、そうなのだろう。今回のことは、本当に偶然であり、それはメアリにとって本当に幸いだったのだ。
 漸く警戒を解いたメアリに、教授が言った。
「まぁ、そういうことだ。司祭から説明して貰うように言った理由もわかっただろう?」
 確かにそうだ。教授の口から聞くだけでは、心の底からの信用は出来なかったとそう思う。
 嘘の気配が見当たらないあの闇色の声で、教授は静かにメアリに言った。
「私は、君を迎えに来たのだよ、メアリ・ジズ嬢。これはおそらく、君の最初の選択となるだろう」
「最初の選択……」
 先刻からの唐突な展開に、気の抜けたような声でメアリが問う。安堵のためか、緊張の糸が切れてしまい、頭の整理が追いつかないのだ。そんな彼女に、教授は言う。
「私は法的には君の身元引受人ということになる。君の父親、ギルバート・ジズ氏からの依頼でね、君を引き取ることになったのだ」
 教授の言葉は何処までも整然とした声で語られる。教授は内ポケットを探りながら言った。
「先ほども話があったが、これが、君の父君が、十二年前、亡くなる直前に書いた手紙だ。ベアリング兄弟銀行の貸金庫に預けられていたものだが、本来なら彼の死の直後に送られてくるはずだった。しかし、何の手違いか、私の元に届いたのは今頃だった」
 教授が内ポケットから取り出したのは、古びた手紙だ。差し出されたそれを受け取り、メアリは思わず瞠目した。
 確かにその手紙の差出人は、もうこの世にいない人――、十二年前ダラムで起きた列車事故に巻きこまれて命を落とした、メアリの父その人だ。見覚えのある父の字が、黄ばんだ紙に褪せたインクで記されている。驚いて、メアリは手紙の中身を改めることなく訊いてしまう。
「確かにこれは、お父様の字……。でも、どうして父は、この手紙を貴方に送ったのですか?」
「彼の意志までは、流石に私にはわからんよ。ただ、君のお父上は、私の教え子であった。おそらくはそれが理由なのだろう」
 手紙を送った相手が恩師であるというのは、確かに納得がいく答だった。教授の声は何処までも冷静で、嘘の気配がまるで無い。初めて合点が行った顔をしたメアリに向かい、教授が言った。
「メアリ・ジズ嬢。私達は君を迎えに来たのだよ。君の父君の願いと同時に、君にすべてを選ばせる為に」
 そう言うと、教授は真っ直ぐにメアリへと手を差し伸べる。真っ白な手袋に包まれたその手は、まるで何かの誘いのようだ。
「この手を取るか、取らないか。最初の選択はここからだ。君は、どちらを選ぶかね?」
 その問いは、明らかに何かを試す問いだった。


 巡回の警備員がそこを訪れたのは、夜明け前のことだった。高い倉庫に囲まれているせいで、ガス燈の明かりも朧である。
 この辺りは物騒で、水夫崩れのごろつきが徒党を組んで倉庫を荒らしたり、荷物を取りにやってきた商人を襲ったりする事件が後を絶たない場所だった。そのため、巡回も早足でおざなりに行われるのが常である。警備員と言っても人間で、徒党を組んだ連中に襲われては一溜まりもないからだ。
 最初の異変に気付いたのは、手にしたオイルランプのシャッターを大きく開いたその時だ。
 黄色い明かりが届くぎりぎりの道の端に、何か平べったい、大きな敷布のような何かが数枚落ちているのが見えた。良くは見えないが、なんとなく、貴族の家にある猛獣の毛皮の敷布が連想される。
 また倉庫を荒らされて、輸入品の毛皮を盗まれたのだろうか、と警備員はふと思った。だとしたら問題だ。直ぐに警察(ヤード)を呼ばねばならないし、そうなれば自分だって上司に叱責される。出来れば何事もなかったように隠蔽できないものかと足を急がせた警備員だったが、『それ』を見た途端、やはり警察を呼ばねばならぬと強く思いなおした。
 辺りは血の海だった。潮の香りのせいで、余計に腐敗しかけた血の臭いが強調される。警備員が嘔吐しなかったのは、彼が剛胆だった訳でも、血を見慣れていた訳でもない。単に、目の前にある『もの』の方が余計に衝撃的だったからだ。
 人間は衝撃の度合いが突き抜けると、吐く余裕も何もなくなる。ただ、立ち尽くすしか出来ない。
 そこにあるのは毛皮などでは到底無い、もっと物騒な『もの』である。
 血の海に浸かるようにして在る『それ』は、五つ分の、まるで魚のように三枚に下ろされた人間の残骸――、見事なまでに開かれた死体だった。
 皮と骨以外、すべてが空っぽだった。内臓も肉も、目玉も何もかもがない。しかも、ありとあらゆる所が綺麗に開かれている。腕利きの外科医だって、ここまで鮮やかな解剖は出来ないだろう。残された頭蓋骨の数から数えて五体だと判断したが、それが正しいとは限らない。なにせ、綺麗に開かれているせいで、その皮の下に何があるかは一見してわからないのだから。
 茫然と立ち尽くす警備員は気付かなかった。この死体は背割りであって、そこから真っ先に背骨が奪われているということに。正確には、脳と脊髄、そうしてそこから伸びる神経が綺麗に無い。内臓や肉や目玉が無いのは、ある意味でおまけのようなものだった。重要なのは、脳と脊髄と神経だけだ。
 警備員は無意識に、その遺体に見惚れていた。完全な『もの』となった遺体には、レンブラントの絵画――『ヨアン・デイマン博士の解剖学講義』のような不思議な趣さえあるからだ。
 美しい、というわけではない。さりとて、悍ましさの極地、という訳でもない。いっさいの人間性が失われた『それ』は、全く安心して見られる作り物に酷似していた。見世物小屋の暗闇に近いだろうか。
 警備員が我に返って、裏声(ファルセット)の悲鳴を上げたのは、それからおおよそ二十分後のことだ。
 その死体こそが、今年の冬、ソーホーのセイント・アンズとセイント・ジェームズで連続して起こる猟奇殺人の最初の被害者だと知るものは、現時点では誰も居ない。
 そして、彼等が何をされてしまったのかを知る者も――。
 海だけが、恐ろしいほどに凪いでいた。

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