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Nostalgia 第二章・1.5

 メアリは結局、あの老人に譲られた本の他には、イザベラ・バード女史の記した日本旅行記と、ルイ・ジャコリオが記した『印度(インド)騎行』の二冊を借りることにした。
 なんとなく、先ほどの紳士の言葉が引っかかっていたからである。文化の死とは、一体どういうことなのだろう。
 貸し出しカウンターは混んでいた。順番を待つ間、メアリは先ほどの紳士の話をウィリアムに訊いてみる。
 果たしてウィリアムは、茫とした目のままで答えてくれた。
「文化の死、というのはいろいろな意味がある。文化というのは、その紳士が言うとおり、継承する者がいなくなれば途絶えてしまうものだから」
 そう言うとウィリアムは、少し考えるふうにする。暫くしてから口を開いた。
「異国の話はわかりにくいから、この国の話をしよう。君も、ガイ・フォークスの話は知っているだろう?」
 ガイ・フォークスの話を知らない子供は、英国にはいないだろう。つい先月の五日にも、英国ではガイ・フォークス・ディという祭りがあり、子供達がぼろ布で作った人形を引きずり回して夜のかがり火で燃やしていた。イーストエンドでも同じような光景は見られて、花火と共に冬の風物詩でもある。
 今からおおよそ三百年前、ジェイムズ一世の御代の事。一六〇五年十一月五日、議会が開催される数日前に、さる密告があった。
 それは、反乱分子が国会議事堂に大量の爆薬を仕掛け、王と皇太子、そして議員達を暗殺しようとしているというものだった。半信半疑で議事堂の地下を調べてみたところ、密告通り、火薬の詰まった三十六もの大樽と、その側で見張りをしていた男を発見した。
 その男こそガイ・フォークスである。
 彼がジェイムズ一世の前に引っ立てられ、跪かされながらも凄まじい形相で王を睨み付けたシーンを描いたのが、ジョン・ギルバートの有名な『ジェイムズ一世前のガイ・フォークス』という水彩画だ。
「何故、ガイ・フォークス達がジェイムズ一世を暗殺しようとしたかといえば、諸説ある。ジェイムズ一世のカソリックへの烈しい弾圧に耐えかね、彼を殺してカソリックの王を立てようとしたからだと言う説が尤も有名だけれど、他にも有力視されている説がある。それは、ジェイムズ一世が魔女狩りを強く推奨した為、それを止めようとしたという説だ」
 魔女狩りというのは、十三世紀から十八世紀にかけて、欧羅巴の諸国家と教会が、魔女として告発された人間を宗教裁判にかけ、多くを火刑に処したことだ。魔女として密告された人間が無罪を得る可能性は零に等しく、更には冤罪が九割を締めていたという。医者でもないのに病気を治したからだとか、異邦人に親切にしたからだとか、そんな理由で処刑された者までいるほどだ。西洋の暗部というか恥部だろう。
「ジェイムズ一世は文人王として名高い。彼の著作には煙草排斥論や、王権神授説の本があるが、尤も影響力があったのは悪魔学の本だ」
「悪魔学……」
 ウィリアムの言葉に、ほんの少しメアリが首を傾げた。悪魔についての本が何故そんな影響力があるのだろう。ウィリアムは相変わらずの銀色の声で完璧に解説をしてくれる。
「当時の国王の権力は、今の英国を遙かに上回る。そんな人物の書いた本だ、誰も異議を唱えることなど出来はしない。彼は著作で、悪魔や魔女がどんな悪事を働いているかを列挙し、魔女狩りの重要性を説いた。魔女取締法を厳罰化し、以前は終身刑で命を取られることまではなかった魔女を、すべて死刑にするとしたんだ。魔女狩りによって失われた叡智は計り知れない。実際、彼によって魔女の疑いをかけられた村は、一晩で皆殺しにされたそうだよ。キリスト教ではなく、村独自の古い信仰を持っていた、それだけの理由で彼等は老若男女すべてが殺されてしまったらしい。そのせいで、今の僕らは、その村が持っていた神話やそれに基づく生活がどんなものだったかを知ることは二度と出来ない。土着の神の名前や、伝承も何もかも失われてしまった」
 貸し出しカウンターの列が前へ移動するのに付いていきながら、メアリはウィリアムの話を黙って聞く。 
「文化を殺すのは常に時の権力者だ。理解できないから、気に入らないから、従わないから、或いはただの気まぐれで、彼等は異分子を排除する。そのせいで失われた技術は計り知れない。古代中国では、皇帝が学問・思想弾圧の手段と焚書坑儒を行ったし、欧羅巴でも法王や教皇が異端と称して、聖書の内容に反する真実をすべて排斥した。その中には様々な病の治療法があったそうだし、伝承が本物ならば、土から生み出されたゴーレムだとか、生まれながらにこの世のすべての知識を持つ瓶の中の小人、更には空を行く船もあったそうだ。しかし、それらはすべて失われた知識だ。有史以来、どれだけのものがこの世界から失われてしまったか計り知れない。失われたものは永遠に戻らない。それを知っているのに、指をくわえて見ていなければならないのは、きっととても辛いことなのだろう」
 淡々と語るウィリアムではあるが、しかし、その説明はなんだかとても腑に落ちた。かつて素晴らしい技術を持ち、平和な生活を営んでいた者達が、理不尽な暴力ですべてを失い、そうして消えていく。彼等の名残は何処にもない。魔法と思われたその素晴らしい技術も途絶えてしまった。
 ガイ・フォークス達は、その理不尽な暴力に対抗しようとして、処刑台の露と消えたのだろうか。特に深く考えたことはなかったが、そう思えば彼の人形を引きずり回して燃やす祭りは、なんだか胸に迫るものがある。
「あの方は、そういったことを悔やんでいたのでしょうか」
 先ほどの老紳士の言葉を思い出しながら呟くメアリに、ウィリアムが静かに言った。
「それは僕にはわからない。人の悔いは様々だから」
 相変わらずの銀の声は、しかし、何処か物思いに耽るようでもある。この青年にも何か悔いがあるのだろうかとふと思ったが、そもそも悔いの無い人間なんているわけがない。
 メアリは自分の考えに苦笑して、列の移動に付いていく。
 ようやく自分の番が回ってきたときには、並び始めてから五分以上が経っていた。カウンターに本を置き、手続きをして貰う。ウィリアムは、メアリがどんな本を借りようが全く興味が無いようで、カウンターに置かれた新しく入荷した本のリストを手にとって眺めている。先ほどの口ぶりでは、ウィリアムも本をよく読むらしい。この人は、どんな本が好きなのだろうかと、ぼんやり思った。
 貸し出し手続きが終わるまで、メアリは少し辺りを見回す。こんなにたくさんの本をメアリは見たことが無い。すべて読み切るには、何年くらいかかるのだろうか。
 ふと、メアリは、足下から奇妙な色を纏った数字が、ふわっと浮いてくるのを目撃する。暗い虹のような、定まらない色だ。数字は九三、一一四。教会の鐘の音よりももっと低い。何か細かい振動が、足の裏から伝わるようだ。
 これは一体何だろうと、床へ目を凝らした瞬間である。いきなりウィリアムがメアリを攫うように抱き上げて、鋭く言った。
「耳を塞いで、口を開けて」
 銀の声が鋭く瞬き、数字もかなり跳ね上がる。横抱きにされたメアリは、思わず彼の言うとおりにしてしまう。どうしたのかと、訊く事も出来なかった。ウィリアムはメアリを抱き上げたまま、トランクを二階の方へ蹴り上げて、そのまま自身も壁を一気に駆け上がる。
 唖然としたのは一瞬だった。
 床下で、ちかっと光が瞬いた。一拍おいて、いきなり床が爆発する。先刻までメアリがいた場所よりは遠かったが、しかし、部屋の中央から火柱が上がり、床板が吹き飛んだ。トランクの落ちた中二階の本棚用の回廊に着地したウィリアムが、メアリを庇うように覆い被さる。
 一瞬後、轟という凄まじい爆風が押し寄せた。
 凄まじい爆音だった。耳を塞いでいたにもかかわらず、きーんと耳鳴りがするほどだ。
 爆音とほぼ同時に、何か大きい物が凄い勢いで吹き飛んでくるが、ウィリアムに庇われているおかげで、メアリには何一つぶつからなかった。爆風のすさまじさに思わず目を閉じてしまったせいで、周囲を確認することさえ出来ない。ただ、空気に、潮の香りと、燐寸(マッチ)の臭いを酷く濃くしたような臭気が混じっているのはよくわかった。
 一階にいた人々の悲鳴が聞こえる。思わずそちらを見てしまったメアリは、あまりの惨状に息を呑む。床下にぽっかりと穴が空き、そこからは紅蓮の炎が上がっている。何人かが落下したらしく、床下から凄まじい悲鳴が上がった。聖書で読んだ煉獄(ゲヘナ)のようだ。
 地下には閉架書庫があるはずだった。つまりはそこで火事か何かがあったのだろうか。そこまで考え、メアリは先刻のガイ・フォークスの話を連想する。
 火事ではない、爆発だ。これはきっと地下書庫に、爆発物が何かが仕掛けられていたに違いないと、何故かメアリはそう『確信』する。
 丁度中央に炎を吹き上げる巨大な穴が空いたせいで、真ん中より奥にいた人間は逃げ場がないようだった。吹き上がる炎に本が燃やされ、高音の中を右往左往している。
 しかし、それだけでは終わらなかった。今度は、書籍販売部の方から爆音がして、火の手が上がる。書籍販売コーナーにいる人間は、ここの比ではない。あちこちで沢山の悲鳴が聞こえてくる。
 ウィリアム越しに、西側の本棚が烈しく燃えているのが見えた。オレンジ色の火は、本棚を舐めるようにどんどん燃え広がっていく。爆発に巻きこまれた人々が倒れている床にまで火は燃え移っていくようだ。気送管が壊れ、大量の圧縮空気が漏れて風のような音がする。それに煽られ、火は見る間に燃え広がっていくようだった。
「何、何なの? 火事?」
「消火器は!? 早く火を消せ、水を持ってこい!」
「熱い、痛い……!! 助けて……!」
 従業員や客達の、悲鳴のような声が聞こえる。メアリのいる場所にも、紙や木が燃える焦臭い臭いが漂ってきていた。炎こそまだ届かないが、吹き上げる熱風に息が詰まりそうになる。
「ウィリアムさん、これは一体……」
 冷静に考えれば、ウィリアムに訊いたところで、詳細がわかるわけがないのだが、それでも思わず訊いてしまう。案の定、ウィリアムも静かに首を横に振る。
「わからない。ただ、ここにいたら、君が危ない。ここから出よう」
 そう言うと、ウィリアムは外套を脱いで、メアリに頭から被せた。背の高いウィリアムの外套は、小柄なメアリをすっぽり覆う。ウィリアムはそのまま、メアリの体を右手だけで抱き上げた。蹴り上げたトランクを左手で掴むと、周囲を見回す。
「しっかりつかまっていてくれ」
 言うやいなや、ウィリアムは一直線に出口の方へと駆け出した。メアリの重さなどまるで感じていように、障害物を軽々と飛び越えていく。確かにメアリは小柄だが、片手で人一人を持ち上げて、こんな迅(はや)さで疾走出来るとは、半端な力ではない。
「あの、ウィリアムさん……」
「いいから、黙って。喋っていると舌を噛むし、煙も吸い込んでしまう」
 自分で歩くから下ろしてくれ、と言おうとしたメアリを、ウィリアムは低い声で遮った。確かに二人で歩くより、こちらの方が場所も取らずに素早く動けるし合理的だ。それを察したメアリは、少しでもウィリアムが動きやすいように、ぎゅっと縮こまるように身を竦ませた。頭から外套を被っているおかげで、火の熱さも煙も全く感じない。
 ウィリアムはメアリを抱えて、あっという間に玄関まで走り抜けるが、そこで一旦、蹈鞴(たたら)を踏んだ。
 人々が悲鳴と共に殺到したせいで、出口の辺りは凄まじい混雑が繰り広げられていたからだ。全く身動きがとれない。混雑と言うよりも、混乱だ。隙間無く人が詰め込まれて、少しの隙間もないくらいだ。
 こんな場所で火に巻かれたら、逃げだすことなど出来なくなるだろう。
「押さないで下さい、ゆっくり外へ……」
 従業員の必死の誘導の声も、我先に外へ出ようとする人々の怒号や悲鳴に掻き消されて用を為さない。将棋倒しに倒れる者や、更には踏みつぶされる者もいて、ここから無事に出るのはひどく難しそうだった。
 ウィリアムは、出口から外に出るのを諦めたようだ。メアリを抱えたまま踵を返す。他の場所を探すように、元来た通路を数歩駆けだした時だった。
 不意に、背後から凄まじい音がした。ガラスの割れる音と、人々の甲高い悲鳴が聞こえる。
 間近に聞こえたその音に、メアリが思わずそちらの方へ視線を向けると、そこには想像を絶するような悲惨な光景が広がっていた。
 一台の大きな自動車が、入り口の扉を破壊して、凄まじい勢いで玄関へ突っ込んで来たのだ。石油式ではなく、蒸気式の自動車だ。
 蒸気馬車の始まりは、一八〇一年にリチャード・トレヴィシックが発明した蒸気車に由来する。この時は轍にはまり、あえなく転倒したが、トレヴィシックはそれにより、線路の上を走らせる機関車を発明した。
 機関車の発明によって蒸気馬車は一旦忘れ去られたのだが、一八九〇年にフランシス・スタンリーとフリーラン・スタンリーの双子の兄弟が最初の蒸気自動車、『スタンリー・スチーマー』を発明したことにより、その人気は爆発的な物となった。倫敦の街を走る車の大半は馬車であったが、石油式や蒸気式の自動車も最近は多いのだ。
 運転手の姿は何処にもない。あり得ないが、無人の自動車のようだ。何人かが轢かれていた。更には下敷きになっている者もいるようで、床へと見る間に赤い血だまりが広がっていくのが見て取れる。
 メアリが息を呑んだ一瞬後、唐突に自動車が爆発した。その爆風を浴びる前に、ウィリアムがまたメアリの体を抱きしめて庇ってくれるが、至近距離からの爆発は、それでも凄い衝撃だった。
 悲鳴を上げないのではなく、悲鳴さえ上げられない、それほどの衝撃だ。爆炎よりも先に蒸気の白い煙が視界を遮る。
 その白い色に、どくん、と心臓が大きく脈打った。
――あの時と、同じだ。
 目の前の光景に、あの日――十二年前の事故の光景が二重写しで甦る。

 劈(つんざ)くような汽笛。
 金切り声のようなブレーキの音。
 父がメアリの上に覆い被さり。
 そして、凄まじい衝撃。
 破裂するパイプに舞い散る金属。
 生暖かい、ぬるっとした、鉄の香りのする液体。
 目の前に広がる、幾つもの赤、朱、紅、赫、緋。
 呻き声。
 悲鳴。
 前方で火の手が上がり、真っ黒な煙が視界いっぱいに広がっていく。
 体中のあちこちが焼け付くように熱かった。
 お気に入りの外出着が、みるみる赤く染まっていくのが酷く怖い。
 火事の煙に巻かれて、喉が痛くて、涙が零れる。
 しかし、それよりも怖かったのは、だんだんと冷えていく、自分に覆い被さる父親の体だった――。

「大丈夫?」
 悪夢の記憶からメアリを呼び戻したのは、低いが、しっかりとした銀の声だった。闇の中を切り裂くような、灼かな光にも似た銀色だ。
 はっと我に返ると、目の前にウィリアムの顔がある。さっきの爆発で飛ばされたものだろうか、その頭には帽子が無く、やや髪が乱れていた。
 彼の蒼い目――濁りのあの赤とはまったく真逆のその色に見つめられると、何故だか過去の風景が、薄まるように遠のいていく。こんな時なのに、メアリは思わずその目に見惚れてしまった。その目の蒼を見ていると何故か不思議に焦りだとか恐怖が溶けるように消えていく。がちがちに強張った体から、ふっと一気に力が抜けた。
「すいません、大丈夫、です」
 震える声で、それでも断然(きっぱり)と告げるメアリに、ウィリアムはほんの僅かに疑わしそうな目をしながらも、それでも安堵したように言った。
「なら、良かった。ここは危ない。上に行く」
 ウィリアムはすぐに立ち上がり、メアリを抱えたままで、手前の階段を一気に駆け上がる。
「上って……」
「二、三階程度の高さなら、君を連れていても無傷で飛び降りられる。僕は必ず君を守るから、心配しなくていい」
 確かこの先の踊り場には、館内にひとつしか無い窓がある筈だ。ウィリアムは、そこから外へ脱出するつもりらしい。確かに出口はもうそこしかない。ウィリアムと一緒なら、二階から飛び降りても平気だろう。
 不意に階段の真横の本棚が崩れ落ち、火の付いた梁が二人の真上に落ちてくる。メアリは小さく悲鳴を上げて、目を瞑り、ウィリアムにしがみついた。
 ふっと目の裏に、いつかの紫電の光が走る。はっと目を開けると、何故だか既に火の消えた柱をウィリアムが片手で支えていた。ウィリアムはその柱を軽く押しやり、大丈夫だというように小さく頷く。
 一体何があったのか、メアリにはさっぱり分からなかったが、それを訊くのは今の状況では無理だろう。とりあえず頷き返し、メアリは改めてウィリアムにしがみつく。
 踊り場に辿り着くと、ウィリアムは静かにメアリを床へ下ろした。二階にも従業員がいるはずなのに、何故だか、様子を見に来る者は居ないようだ。メアリはゆっくり辺りを見回す。
 視界の隅に、何か奇妙な音が見えた。人の足音ではあるが、なんだかそれが、地面ではなく、壁の側面に沿っているのだ。咄嗟にそちらへ視線を投げると、東洋人の老紳士が、白人の老紳士を背負ったまま、書籍販売室から飛び出してくるのが見えた。彼はそのまま炎を避けて、壁を駆け抜け、メアリ達と正反対の中二階へと到達する。一旦は火を避けた、というような風情だった。
 ウィリアムと同じような芸当を、東洋人の老紳士も軽々とやってのけたということに、メアリは酷く驚いた。重力に逆らって壁を走るというのは、メアリが良く知らないだけで、案外普通の事なのだろうか。
 しかし、驚いているわけにも行かない。炎は決して勢いを弱めることなく、紙を燃料にして、ますます盛んに燃え上がる。このままでは、二階だって火の海になるのは近い。
 一週間前と同じく、今のメアリにはあらゆる物の音が『見』えている。その音は炎の音以外にも、紙が焼けてぱりぱり鳴る音や、人々の悲鳴や呻きなど様々で、目が眩むような感じがした。数字の洪水だ。
 幸いにもまだ火の手はここまで迫っていない。けれど、一階は火の海だった。階下では一部の勇敢な人々が必死で消火活動を行っているようだ。しかし、焼け石に水どころか、水を掛けても火は消えず、益々盛んに燃えていく。
 階下から逃げ惑う人々の悲鳴が聞こえる。唯一の出口を蒸気自動車にふさがれたせいで、逃げ場を無くし、如何すれば良いかわからないという絶望の声だ。ウィリアムはそれに頓着せず、踊り場の窓ガラスに向かって腕を振り上げる。とりあえず、当初の予定通りにここから脱出するのだろう。
 その瞬間、メアリの思考の中で、何かがちかっと閃いた。数字の洪水の中を、天使の梯子のような光が射した感覚だ。
 そうしてメアリはその光の中に、不思議な光景を見てしまう。
 窓硝子が割れた後、一拍おいておこる逆気流。それに煽られて爆発する炎の幻影が、目の前に、ぱぁっと広がる。
 あの列車事故――過去の記憶が引きずり出され、そうしてそれが目の前の光景と二重写しになる。否、メアリが幻視(み)たのは、もっと酷い未来だ。有名な一六六六年の倫敦大火の、作者不明のあの絵が浮かぶ。
 メアリは咄嗟にウィリアムにすがりつき、思わず叫んだ。
「駄目です!」
 メアリに抱きつかれ、ウィリアムがほんの僅かに戸惑ったような顔をする。自分の行動を全く意に介さず、必死になってメアリが言った。
「この窓を破ると爆発が起こります! だから……」
 はっきりとした、断言だった。まるで見てきたような物言いに、ウィリアムが低い声で訊き返す。
「爆発?」
 突然のメアリの言葉を疑っていると言うよりも、確認するような訊き方だった。どうしてそうなるかを、メアリには巧く説明できないのだが、しかし、確信は揺るがない。
「はい。間違いありません」
「真逆、君にはそれが『見えた』のか?」
 奇妙な問いだった。しかし、その問いに、メアリは確信を持って大きく頷く。
「はい。見えました」
 自分でも奇妙なくらい、断然(きっぱり)と断言する。どうしてここまで頑なに、しかも確信を持って断言できるのか、自分でもわからない。
 それは、一週間前のあの日、時間を稼げば必ず助かるという、あの根拠の無い確信に何処か似ている。
 ウィリアムが納得したように呟いた。
「なるほど、君は、計算手だった。確かにこのように密閉された空間で急に空気穴が出来たら、一気に外気が入り込んでくる。そうなれば、君の言う爆発が起きても不思議はない」
 そのままウィリアムは、窓から一歩下がる。ここから出ることを諦めたらしい。あまりにあっさりと自分の言葉を信用してくれたウィリアムに、思わずメアリが訊いてしまう。
「あの……、私の言うことを信じてくださるんですか?」
「ああ。君は計算手だから」
 何故計算手の言うことなら信じられるのか。メアリには、ウィリアムが納得した理由が良くわからない。きょとんとするメアリに、ウィリアムが淡々と説明をしてくれる。
 曰く、先刻メアリが『見た』ものは、その経験を元に無意識に計算された、一瞬先の未来の予測であるという。計算手の『特徴』のひとつでそうだ。
「虫の知らせであるとか悪い予感という言葉がある。根拠はないのに、よくないことが起こりそうだと感じることだ。それはかつて、ただの思い過ごしや迷信だと思われていたものだったが、しかし、計算手の出現により、現在の医学では、それは過去のデータから、無意識に脳が未来の予測を計算した結果なのだと考えられている。通常の人間のそれは、脳の処理能力の限界で、そこまで信用に足るものではないが、計算手の場合は少し違う。――計算手のその凄まじい計算能力は、起こり得る『未来』を垣間『見て』しまう場合があるんだ。勿論それは、常に起こり得るものではない。命の危機が迫った折などの、そういうときに限定されて、それは『出る』。君が見たのは、その計算の結果だろう。君は超共感覚の持ち主だと言うし、であるならば、未来予測などは軽々こなせる」
 軽々かどうかは解らないが、しかし、悲惨な未来が見えたのは事実だ。自分のまったく知らないところで、計算手の能力というのは、そう言う奇跡も起こせるというのを知ってかなり驚く。
「計算手って凄いんですね……。そんなに信憑性があるだなんて」
 自分のことなのに、メアリはまるで、他人事のように呟いてしまった。実際、自分の計算能力が特別だと感じたことも無いメアリには、ウィリアムの説明が何処か他の世界のことのように感じるからだ。階下の火事の様子を見ながら、ウィリアムがぼそっと言った。
「別に、計算手の言葉だから信じたという訳じゃない。僕は君の言葉だから信じたんだ」
「えっ?」
 極々小さく呟かれたその言葉に、メアリは一瞬驚いてウィリアムを見上げてしまう。
 しかし、当のウィリアムは顎に手をやり、何かを思案しているようだ。炎から目を離さないまま、メアリに訊いた。
「しかし、そうなれば、逃げ場がないな。唯一の出入り口は蒸気自動車で塞がれた上に炎上している。仮に、二階へあがって他の部屋から逃げだそうとしても、もしその部屋の窓が開いていれば、同じように空気が一気に流れ込み、ドアを開けた瞬間にその爆発は起こる。二階の窓が開いているかいないかまでは、君にだって見えないだろう?」
「はい、それはやっぱり……」
 窓が開いているのか、締まっているかは、流石に実際に見てみないとわからない。確率は二分の一だが、賭けをするには危険すぎた。ウィリアムの解説が真実ならば、計算手の幻視は実際には未来を見ているわけではない。飽くまでも未来の『予測』が映像になって見えるだけだ。二階の窓が開いているのかどうかなんて、データが少なすぎて、計算の仕様がないのである。
「なるほど、八方塞がりか」
 そう言いながらも、ウィリアムの声に特に絶望は無かった。もっともこの青年は、常に自分の感情を声に出す事は殆どないのであるが。
 未だに自分の腕を掴んだままのメアリに尋ねる。
「君が『見た』爆発は、窓さえ開けなかったら起こらないと、そう思うかい?」
 その問いに、メアリがこくりと頷いた。あの時見えたものを思い出す。運良く、細かいところまで詳細に記憶出来ていた。
「はい。私が『見た』光景は、部屋の中心に吸い込まれるように、外から凄まじい風が吹き込んで、その直後に爆発すると言うものでした。ですから、開けなかった場合は爆発は起こらないはずです」
 しっかりとそう告げると、ウィリアムは静かにメアリの方を見た。その、優しい色の蒼い目には、特に希望も無いようだが、絶望のような色だって微塵もない。
 あるがままのような、そんな色だった。その目を見つめるメアリに向かい、ウィリアムが静かに言う。
「仮に、だけれど、もし、これらの火を消せたとすれば、ここから逃げることは可能だろう。だが、それには君の力が要る」
 淡々とした、事実だけを告げる声だ。そこには、賭けであるとか、祈りのようなものは何一つ無かった。一切ブレのない銀の声は、今の雑多なメアリの視野にも真っ直ぐ届く。
「私の力……?」
 戸惑うようにメアリが訊くと、ウィリアムはそこで初めて躊躇うように言った。
「君が真実(ほんとう)の計算手であるのなら、僕を使いこなせるはずだ。けれど、君がただの計算手であるのなら、僕らは勿論、ここにいる人たちも助からない」
 ウィリアムの言葉の内容より、『ここにいる人たち』という言葉にメアリが反応する。
「もしかして、皆も助けられるんですか?」
 メアリはウィリアムに駆け寄って、思わず訊いた。ウィリアムが小さく、しかし、しっかりと頷く。
「ああ。君の力が本物ならば。但し、それでも多分、チャンスは一度きりだ。失敗すれば、これよりもっと酷いことになる」
 ウィリアムは、どことなく躊躇うようにそう言った。逆にメアリは何ひとつ躊躇わずに即答する。
「やります!」
 答えの迅さに、ウィリアムは少し驚いたようだった。淡々と訊く。
「君は、怖くはないのか? 失敗すれば、総ての命に対する罪を、犯人ではなく、君が背負う事になるかも知れないのに」
「私が、背負う?」
「……現状を変える、ということは、つまりは意図的に状況を加速させることでもある。加速の方向が最悪の方へ向いてしまったら、それは加速させた者の罪、状況を変えた者の罪に転換してしまう事になるんだ」
 理不尽な言葉だったが、言いたいことはよくわかる。状況を移動させる力というのは、吉にも凶にも容易く変わると言うことだ。
 しかし、だからこそ、メアリは断然(きっぱり)と答える。
「このままでも、皆死んでしまうんです。だったら、少しでも可能性のある方法を試します」
 爆発に巻きこまれた人々は勿論、さっきの蒸気自動車の事故でさえ、かなりの数の人が亡くなっているだろう。これ以上、人が死ぬのを見るのは嫌だった。火を消せる可能性があるのなら、それを試すのに躊躇などない。断固とした物言いに、ウィリアムは小さく頷いた。今までの茫とした表情が一変している。
「わかった。では、やろう」
「何をすれば良いんですか?」
「計算を」
 短く言うと、ウィリアムは自分のトランクの留め具を外す。流れるような動作で蓋を開けると、中には、銃身だけでも十二吋(インチ)はあろうかという巨大な銃が一丁と、二吋程の大きさの銃弾が数発、綺麗に収められているのが見えた。
 装飾の類いは一切無く、メーカーやブランド名さえ刻まれていないその銃は、青みを帯びた銀色をしている。四角いような銃身と、無骨なまでのリボルバーは、どこまでもシンプルだった。
「綺麗……」
 思わずメアリが呟くと、ウィリアムが無感情な声で言う。
「護身用にと、念のために預かっていた物だけれど、まさか、使う機会があるとは思わなかった」
 なんとなく、うんざりしたような雰囲気がある。使わずに済むならその方が良かったと、隠しもしない風だった。
「この銃で、どうやって火を消すんですか? こんな大火事なのに……」
 機能美に満ちた銃だったが、消火器にはどうにも見えない。メアリが訊くと、ウィリアムはトランクから取り出した薬莢をシリンダーに押し込みながら、あっさりと告げた。
「音というのは、物の振動が空気などを伝わって、聴覚で感じられるものの事だ。だからその空気の振動で、これらの火を消す」
「そんなことが、出来るんですか!?」
 メアリの問いに、ウィリアムは静かに頷いた。
「理論上はね。火というものはただ燃料と熱源があれば燃えるというものではない。更に空気中の酸素、それに空気が循環して燃料と酸素が良く混ざる事、この要素が必要となる。普通は水で直接火を消したり、二酸化炭素で酸素の供給を絶ったりという方法で火を消すんだけれど、音の場合は火が燃え続けるのに必要な部分に作用するんだ」
 そういうと、ウィリアムは改めてメアリに視線を投げた。なんだか少し、躊躇うような風に思える。
「さっきも言ったとおり、音は空気の振動だ。だから強力な音で強力な空気の振動を発生させ、火全体を強く揺さぶることでこの流れを乱し、不安定にさせることで『燃え続けること』を邪魔して火を消す。これならば、これだけ広範囲の火事であっても消す事が可能だろう」
 メアリも、それは知っている。見世物小屋でソプラノ歌手がグラスを割ったり、低音のバス歌手が蝋燭を立てたコップに向かって歌うことで火を消してみせる、という出し物があるが、その事だ。大道芸人のあの魔法のような芸当を思い出しながら、メアリが訊く。
「でも、音で火を消すって、確か、低い音で、それも長時間当て続けなければ、巧く空気の振動を止められない筈では……」
 一瞬だけの銃声では、絶対に無理だと思う。果たしてウィリアムも頷いた。
「そうだね。銃声だけでは無理だろう。しかし、ここには幾本かの気送管のパイプがある。これを使えば、多分、僕と君なら、きっとなんとかできると思う」
 そう言うと、ウィリアムは銃身で手近にあったパイプを軽く叩いた。唸るような低い音が周囲に満ちる。鋼特有の灰色を纏った数字は八九、九七六四。かなり低い音だった。
「君には何ヘルツの低周波を出せば良いかという事も含めて、それを炎にどういう距離とタイミングで当てるかという事を計算してもらいたい。共鳴させて低周波を発生させるためには、タイミングや着弾の位置は勿論、複数の弾丸を使うことになるだろうけれど、今の手持ちは、ここにある六発しかない。しかも、周囲には普通の鉄製パイプも張り巡らされているから、そこからの共鳴音も総て計算しなくてはならなくなる。タイミングに関しては、君から僕に伝達する時間の誤差も考慮しなくてはならないから、本当に桁違いの計算力が必要になるんだ」
 確かに、同時に並行して幾つもの計算をこなさねばならない以上、この作戦に関しては計算手が必須であろう。
「でも、その答えを導くためにはどういう式で計算すれば良いんですか? 私は数学や物理学には明るくないので、方程式や公式も解らないんです」
 戸惑うように尋ねるメアリに、ウィリアムはまったく動じた様子もなく言った。
「式は僕が君に伝える。君は僕の言葉を聞くだけでいい。そうすれば、勝手に君の脳は計算を開始する。計算手というのはそう言うものだ。選んだ未来へ辿り着く方法を無意識に探し当てる」
 銀の声は真実しか告げていなかった。納得させるためと言うよりも、当たり前という気配が強い。
 確かにメアリの場合、計算時に於ける思考は自分の思い通りにならない、ある意味で天啓のようなものである。だから、ウィリアムの言うこともなんとなくは理解できた。しかし、一方で、それが巧く発動するかの不安も強い。というよりも、何ヘルツの低周波を出せば良いのかの回答もないわけで、ある意味で途轍もない無理難題をふっかけられているような物だ。そもそもデータが少なすぎる。
 しかしメアリは、その無理難題を提示してきたウィリアムへとはっきり頷いた。出来るかどうかを思い悩む時間も今は惜しい。ウィリアムが出来ると言うのなら、自分はそれを信じるだけだ。
「……わかりました。やります」
 やってみます、ではなく、やりますと断言した。それは自信があるからだとか、そういうことでは全くない。やらねばならないのだから、やるしかないのだ。
 メアリが計算せねばならない事柄は多岐に渡る。共鳴させる距離や角度もそうだが、音は摂氏十五度の空気中では毎秒約三百四十メートルで進むから、火事によって高温になっているこの場所では、低周波が伝わる速度さえ変わるだろう。
 だが、今のメアリには、それらの数字がすべて見える。ウィリアムが式を伝えてくれるというのなら、特には問題ないはずだった。
 唯一の問題は、それら総ての状況をどうやってウィリアムに伝えれば良いのだろうかということだ。ウィリアムも言っていたが、状況は刻一刻と変わっていく。それらを予測できるとして、精々が一分乃至二分先くらいだろう。計算の解を『喋って』伝えてしまっては、絶対に間に合わない。
 微かに躊躇うメアリに、ウィリアムは低く告げる。
「君がどんな伝え方をしても、僕はそれを理解する。君の言葉は必ず僕に届くから、君も僕を信じて欲しい」
 銀の声は、相も変わらず、ただ事実だけを真っ直ぐに伝えてくる。
 まったく何の説明にもなっていないが、それでもメアリは頷いた。何故だかわからないが、自分はウィリアムが信じられると『知っている』。彼がそう言うのだから、自分はそれを信じるだけだ。
 伝えるための方法だって、きっと自分は計算できる。
 覚悟を決めたメアリに、ウィリアムが小さく囁く。
「ごめん、君に僕の式を正確に伝える為には、こうしなければならないんだ」
 そういうと、ウィリアムはメアリを抱き寄せ、前髪を掻き上げた。露わになったメアリの額に優しく唇を寄せる。
 そのまま額にキスをされた。
 本来ならば仰天して然るべき事ではあるが、しかし、それより早く、メアリは頭の中に直接ウィリアムの声が響くのを感じる。

   The Sea of Faith
   Was once, too, at the full, and round earth's shore
   Lay like the folds of a bright girdle furl'd.
   But now I only hear
   Its melancholy, long, withdrawing roar,
   Retreating, to the breath
   Of the night-wind, down the vast edges drear
   And naked shingles of the world.

 それは、何かの詩のような言葉だった。けれど、それが心に響いた途端、メアリの中に計算すべきイメージが勝手に組み上がっていくのがわかる。
 そこでメアリは、ウィリアムの声が纏う数字こそが、計算すべき式なのだと初めて気付いた。声の僅かな変化でも、纏う数字は大きく変わる。なるほど、確かにこうしなければ、微妙な音は伝えられまい。メアリは必死になって彼の声を聞き続ける。一言も聞き漏らすまいと、そう思う。
 ウィリアムの唇が額から離れるのと、メアリが断言するのとは、ほぼ同時の事だった。
「わかりました、大丈夫です! ウィリアムさんの言葉は、ちゃんと私に届きました」
 その言葉に、ウィリアムも静かに頷く。抱き寄せていた手を解き、メアリの体を解放する。
 メアリは大きく息を吸って、視界に瞬くすべての数字を凝視した。ウィリアムの伝えてくれた式に、これらの数字を代入せねばならないからだ。
 メアリの計算は、四則演算を思考で暗算するのではない。ひらめきに似た、イメージの奔流が、頭の中で勝手に行ってくれるものなのだ。普段の計算なら、意識せずとも勝手に答えが出てくるが、しかし、今回はそれ以上、限界まで『本気』で計算する必要があった。
 『本気』を出すため、メアリはゆっくりと、心の中である言葉を思い浮かべる。本当に集中が必要な時の、メアリだけのおまじないだ。

――あの日、私は、棺桶の中で目覚めた。

 そう呟くと、葬礼の鐘の音が頭の奥に大きく響いた。
 それは、メアリの中では、ある意味で最大の目覚めの記憶であるが故に、覚醒の合図でもある。
 十二年前の列車事故の後、仮死状態だったメアリは、生きたまま、父親と同じ墓穴に葬られた。実際、体中傷だらけで意識は混濁していたし、呼吸も殆どしていなかったそうだから無理もない。
 目覚めたときは真っ暗だった。何も見えず、自分が狭い場所に横たわっていることしかわからなかった。噎せ返るような薔薇の匂いだけが、ただ、そこにあった。
 あの棺桶で目覚めた瞬間の事を思い出す度に、心臓の辺りがきゅっと凍えたように痛みを帯びて、まるで縮こまるような錯覚が起きる。あるはずのない、想像の中だけの『痛み』。しかし、確かに知覚する『痛み』。
 暗闇の恐怖が凝り固まったようなそれが、メアリにとっての『スイッチ』だった。
 目の前をちかっと走る光が見えた。それと同時に、メアリの中に、一つの風景が浮かび上がる。
 煙がかった太陽と、光のような闇、真っ赤な空へと落ちる稲妻、何処までも白い、嵐の大海。影が渡る真珠色の蜃気楼、水に朽ちる、不思議な神殿――。
 見覚えはあるが、何処にもないその光景が脳裏に甦ると同時に、頭の中で、何かの回路が開くような感覚が閃いた。縒り合わされた二つの何かがすっと解ける感覚。
 ――意識の底で紅く蠢く肉の塊に、銀のナイフの刃が当たる。抵抗もなく、すっと潜り込んだその刃の間から、どろっとした血が滴り落ちた。とぷとぷと音を立てて床へと滴る。そうしてそこから、何か読めない異国の文字が血を纏って宙へ這う……。
 そのイメージが鍵である。その刹那、普段の計算とは桁違いに異なる、膨大な光のイメージが『見え』た。刻一刻と姿を変えるそれを出力するのに、いちいち数字を喋っていては時間が足りない。
 気がつけば、メアリの喉から、歌のような奇妙な旋律が滑り出していた。詞のない歌だ。メアリは、無意識のうちに、数字という『点』でしかないものの繋がりを、音という振動を使って『空間』へ出力させる方法を選んでいる。故に、自分が歌っているという感覚が全くない。無我夢中で、答えをウィリアムに届けることだけに集中する。胸の辺りが燃えるように熱かったが、それを気にする暇も無かった。
 絡み合う数字は正確無比な音階となり、空気を震わす。
 メアリには、これをウィリアムが理解できるだろうか、という不安さえも頭になかった。ウィリアムは必ずこれを理解すると、今のメアリは『知って』いる。だから、ただ、ひたすらに、計算の『解』を外部に出力する事しか、今のメアリには考えられない。
 そして、驚くべき事に、確かにその『解』をウィリアムは理解しているようだった。口の中で、小さく呟く。
「君の歌は、必ず僕に届く。だから、大丈夫だ」
 軽く息を吸い込むと、歌に合わせるようにウィリアムは無造作に巨大な銃を構える。
 集中するように目を閉じ、低く言った。
「……なべてはその生まれ来たる元素へと還っていく。肉体は土に、血は水に、熱は火に、息は風へと――」
 それは明らかに詩だった。ウィリアムは、メアリの『歌』を従えて、呪文の詠唱のようにそれを呟く。ゆっくりと開かれたウィリアムの目には、先ほどまでの茫とした色とは全く違う、炯とした蒼い光が灯っていた。
 虹色をした真珠へと蒼い光が射したような煌めきは、まるで彼の魂を灼いているかのような色をしている。先ほどとは、顔つきまで違うようだ。
 そのまま、息を吐き出すような声で続けた。
「それらは尤(ゆう)に生まれ、尤(ゆう)に葬られる――」
 メアリの『歌』へと滲むような言葉と共に、最初の引き金が、ことん、と落ちた。
 音を食い尽くす落雷のような咆哮と同時に、その銃口からは紅い炎の尾を引いた銀の弾丸が解き放たれる。その弾丸に、あの紫電の光をメアリは感じるが、しかし目を開けることは出来なかった。計算をすることだけで精一杯であるからだ。
 一方でウィリアムは、言葉の無い歌へ滲ませるように、無表情に詩を続けた。
「汝ら水蒸気よ、沸騰せよ」
 最初の銃声が消えるより迅く撃鉄を上げて、二発目を撃つ。
「汝、火の海よ、踊り唸れ」
 何も狙ってはいないような、まるで各々でたらめのような方向に、立て続けに三発を撃った。
「我が魂は、汝等を受け入れんとするが為に、灼(あらた)へ熾(おこ)る――」
 最後の一発を天井に向かって撃ったのは、メアリの歌が終わるのとほぼ同時だ。最後の弾丸を放った瞬間、ゴキン、という、何かが砕けるような音がその右肩からしたが、ウィリアムの表情に変化はない。
 天井に着弾する音が響くのと、各所に撃った弾丸が着弾するタイミングは、完全に一致していた。まるででたらめに撃たれているようなのに、総ての弾が露出する気送管のパイプに、一秒のずれもなく、一気呵成に着弾する。弾丸がパイプに着弾した瞬間、あの稲妻に良く似た光を纏う音が、その表面に鋭く走った。
 瞬間、一斉に轟音が響いた。まるで、大聖堂の鐘の音のような音だ。
 ある音は地を這う悪鬼の唸り声のように低く、そしてある音は天使の喇叭(ラッパ)のように甲高く。音程も高さもばらばらな五つの音が、反射して中央に集まると同時に、天井から降りてくる音に押されるように、燃え盛るホールへと降り注ぐ。
 ビリビリと空気が震えた。
 教会の鐘の音の真下に居るよりも尚凄まじい音と振動が、部屋の隅にある階段の踊り場にまで伝わってくる。全身の血がかき混ぜられるような、くすぐったいような、ぞくっとする気配に、計算に捕らわれていたメアリは、はっと我に返った。慌てて音の中心へと目を向ける。
 そこには、奇跡が一つ顕現していた。
 四方八方から様々な色の付いた数字が絡み合い、そうして浸食し、相殺し、共鳴し、一つの巨大な音を形作っていく。
 それは、黒い数字だった。教授の闇色の声よりももっと暗い、漆黒の音が巨大な、零、という、ただそれだけの数字に変化する。
 躰の芯を揺さぶるように、長く続く低い音。それは炎から発する音を食い尽くす無数の蛇だ。
 それに煽られるように、炎は大きく揺らめいていたが、ある瞬間を境に、唐突に、手品のように、ふっと一瞬で掻き消えた。
 水を掛けた時のように徐々に鎮火したのではない。本当に一瞬で消滅したのだ。
 メアリの目には、零を纏った数字が巨大な漆黒の蛇となり、炎をひと吞みにしてしまったように見えた。神聖でもあり、また、恐怖を感じるような光景だ。それは原初の恐怖のようにも思える。
「消えた……」
 メアリが、茫然として呟いた。正しく計算通りの光景だ。つまりはウィリアムが、メアリの伝えた通りの角度とタイミングで完璧に射撃を行う事が出来たと言うことでもある。理論は実践されなければ存在しないと同じだ。計算と実行は二つで一つだと、改めてそう思う。
「ウィリアムさん、火が消えました!」
 興奮気味に告げた後、メアリは、右肩を押さえているウィリアムに気付き愕然とする。普段全く表情を変えない彼が、歯を食い縛るようにして痛みに耐えているその姿に、火を消せた喜びが一気に吹っ飛ぶ。
「大丈夫ですか、ウィリアムさん!!」
 慌てて駆け寄ると、ウィリアムは眉間に皺を寄せ、苦痛に耐えるようにしていたが、微かに首肯したようだ。
「ああ、大丈夫だ」
「でも……」
 どう見ても全く大丈夫そうに見えない。でも、嘘ではないようで、銀の数字も変わらない。それでも、今まで殆ど表情を変えなかった青年が初めて見せた苦痛の表情は、メアリを狼狽えさせるのに十分だった。
「怪我をされたんですか? 大丈夫ですか?」
 おろおろするだけのメアリを窘めるように、足下から全く別の声が聞こえたのは、その時だ。
〈気にするなよ、嬢ちゃん。俺を六回も連続でブッ放すから、軽く肩をやっちまっただけだ。なァに、こいつァ無駄に丈夫だからよ、簡単に直るさ〉
 聞き覚えのない、酷く若い男の声だ。この場に全くそぐわない陽気さだった。太陽のようなオレンジがかった色を纏った数字は五。それ以外は解らない、不思議な声だ。
「え?」
 思わず声のする方に視線を投げて、メアリは更に驚いた。声がした場所にあったのは、ウィリアムの右手だったからだ。いや、正確には、彼の手に握られたままの、あの巨大な銃だ。
 銃は、先ほどメアリが見たものとは全く様相が変わっていた。滑らかでシンプルな姿は変わらないが、横面に、明らかに何かの目のような模様が浮かんでいる。
 その目はデフォルメされたイラストにしか見えないのに、くるくると『表情』を変えていくようだった。一体、どういう仕組みになっているのか、まるで見当も付かない。
 ウィリアムが、痛みに堪えつつ、苦々しい口調で言った。
「……ビリー。何故、出てきた」
 ビリーと呼ばれた銃は、まるで鼻で笑うように言う。
〈よゥ、久しぶりだなァ、ウィル。俺を起こしたのはお前だぜ。なのに、出てくるも出てこないもねェやなァ〉
 一人と一丁の会話に、メアリは、何が起こっているのかがさっぱりわからない。狐に抓まれたような顔で、銃とウィリアムを交互に見る。
 さっき起こった奇跡だけでも大概なのに、今度は喋る銃の出現だ。混乱しない方がおかしい。
 そんなメアリに、銃は更に馴れ馴れしく話し掛けるようだ。
〈嬢ちゃん、あんた、マジでやるなぁ! 良い計算だった! 久々に良い仕事が出来たぜェ!〉
「あ、はい、いえ、その、ウィリアムさんのおかげです……」
〈ハンッ、ウィルはただ方角を合わせてタイミング良く引き金を引いただけだ。弾丸の軌道や、振動の微調整は全部俺の仕事だよ〉
 メアリの言葉に、銃はむくれたような声で言う。
「あっ、すいません、ごめんなさい」
「すまない。ビリーは米国製だから、良く喋るし、喧しい。基本これは無礼だから、気にしないでくれ。だから僕は、銃(これ)を使いたくなかったんだが……」
 あわてて銃へと謝るメアリに、今度はウィリアムが謝罪する。相変わらず痛そうなのは変わらないが、しかし、先刻よりはだいぶ具合は良くなっているようだ。
 ウィリアムの言葉に、あからさまに不機嫌に銃が吼える。
〈うるせえよ、この朴念仁が! こっちが無礼な米国製(Yankee)なら、てめぇは四角四面の独逸製(German)だろうが!〉
 銃の言葉によれば、ウィリアムはどうやら独逸人らしい。しかし、完全に雰囲気に飲まれているメアリには、何が何だかわからない。罵倒を終えた銃が、メアリを『見て』、得意げに言う。
〈俺はビリー。ウィルの相棒で、正式には自立式なんちゃら銃器支援なんちゃら、とかそういう名前があるらしいが、まぁ、長ったらしいからビリーでいいぜ。お嬢ちゃんは?〉
 銃には胸なんかないのに、まるで胸を張って威張るような物言いだ。
「メアリ・ジズと言います」
 ビリーの問いに、メアリは慌ててお辞儀をして自己紹介をした。こんな事をしている場合ではないと思うのだが、なんだか、そうしなければならないような気もしたからだ。
 そんなメアリを面白そうに眺めながら、ビリーが『目』を細めて言った。
〈ジズ……。どっかで聞いたことがあンなァ……〉
 暫く何かを思案するように、銃身に浮かぶ『目』が瞬きをする。何を聞いたことがあるのだろうと、思わずメアリが身構えた時――。
 その瞬間、ぐぅううう、と、何かが唸るような音があたりに響いた。
「!」
 その音は、メアリの下腹部からはっきり聞こえた。
 安堵のあまり、空腹の虫が目を覚ました物らしい。計算すると、どうしてもお腹が空くのだ。メアリは一瞬で真っ赤になる。
 その音を揶揄するように、ウィリアムの手の中でビリーが言った。
〈なんだ、すっげぇ音がしたな! 嬢ちゃんの腹の虫かァ?〉
 メアリは真っ赤になったまま、手を振って言う。
「ちが、違うんです! いや、違わないんですけど、あの、その……」
 必死になって銃に向かって弁明するメアリを、ウィリアムはきょとん、とした顔で見ていたが、やがて堪えきれないように、片手で顔を覆い、声を殺して笑い出す。鉄面皮かと思っていたが、案外こういう顔もするのだと思う。しかし、その表情を引き出したのが、よりにもよってメアリの腹の虫というのが問題だ。
「ウィリアムさん!!」
 顔を真っ赤にして抗議するメアリに、ウィリアムが必死に笑いを噛み殺すように言う。
「……ごめん、笑ってしまって悪かった。もう夕方だし、空腹になるのは仕方が無い。僕だって、確かに色々空っぽだ」
 笑いを必死で抑えながら、それでもウィリアムは気遣うようにそう言ってくれるのだが、あまりフォローになっていないとメアリは思う。
 しかし、メアリもだんだん可笑しくなって、こんな場所だというのに、同じように吹き出してしまった。先刻までの緊張が急に解けたせいでもあるらしい。一旦笑うともう駄目だった。メアリとウィリアムは、二人で声を潜めるように笑い合う。
 一頻(しき)り二人で静かに笑った後で、ウィリアムがふっと戸惑ったようにぽつんと言った。どことなく、我に返った、と言うような風情である。
「……火も消えたことだし、ここから出よう。妙なことに巻きこまれたら厄介だ」
 そう言うと、ウィリアムは右腕を庇うようにして、音の衝撃でメアリの肩からずり落ちたものらしい、自らの外套を取った。軽くはたいて、ヴェールのように頭から、もう一度それをメアリに被せる。小さく言った。
「申し訳ないけれど、これを被って僕の傍へ」
 メアリが言うとおりにすると、ウィリアムは窓ガラスを銃を使って無造作に叩き割った。この青年は、何をするにも無造作だ。事前の気合いというものが全くない。代わりに銃の方は騒々しい。
〈おいおい、痛ってェな、ウィル! こっちは火薬を扱ってんだ、もちっと丁寧に扱いやがれ!!〉
「お前に痛覚はないはずだ」
〈心の痛みって奴だ、バァーカ!! 根暗なお前と違って、俺は結構繊細なんだよ!〉
「ビリー」
 余計なことを言うな、という顔で、ウィリアムがビリーを見た。そのまま、痛そうに右手を持ち上げると、ビリーを乱暴にトランクの中に放り込む。そのまま、がちゃんと蓋を閉めた。驚くほどビリーを完全に無視している行動だ。
 ウィリアムがメアリに向き直り、静かに言った。
「目を閉じて」
 言うとおりにすると同時に、トランクの中から、怒り狂ったビリーの声がする。
〈ウィル! お前、もちっと丁寧に扱え、目が回る!〉
「お前に三半規管はないだろう」
〈気分の問題だッつーの! ほんとにデリカシーがない野郎だな!〉
「お前にデリカシーの有無を問われるのは心外だ」
 ぎゃんぎゃん騒ぐビリーを淡々と去(い)なしながら、ウィリアムはトランクを、無造作に屋外へと放り投げた。
〈テメェ、この……〉
 ビリーの悪態が遠くに去って行くのを、メアリは目を閉じた状態で聞いていた。その体がふっと浮き上がるのを感じる。ウィリアムが抱き上げたのだ。
「あの、肩の怪我は……」
「我慢できる。舌を噛むと行けないから、喋らないで」
 メアリの問いに、淡々としたふうに答えると、ウィリアムは窓から身を翻し、何処かへ飛び降りたようだった。ふわっとした浮遊感のすぐ後に、トン、というような軽い衝撃を感じる。その後は、暫く何処かを駆けているようで、風の音だけが耳元で鳴っていた。五分ほど過ぎた頃だろうか。メアリは、地面か何かの上に静かに下ろされた。何かというのは、足の裏から伝わる感覚が、アスファルトや土のものではなかったからだ。
「もう目を開けてもいいよ」
 ウィリアムの言葉に、メアリはそっと目を開けた。
 瞼を開けた瞬間、目の前に広がる光景に、メアリは思わず声を失う。
「……!」
 目の前にあるのは、夕日によって真っ赤に燃える倫敦の街だった。自分達は、どこかの建物の屋根にいるものらしい。屋根から足を滑らせないように、さりげなくウィリアムが支えてくれているのがわかる。
 屋根の上から見下ろす、夕日に染まった倫敦は、本当に素晴らしかった。石造りの建物の煙突から棚引く白い蒸気が、夕日に照らされ赤く染まっていく姿は、此の世の物とは思えない。遠く南の方角にウェストミンスター寺院と議事堂のシルエットが微かに見える。夕暮れに映えるそれは、正しく白の貴婦人と、黒の鎧を纏った騎士だ。
 空の青が西に行くにつれてゆっくりと白くなり、だんだんと赤い色に変わっていく様は、なんだか魔法のようにメアリに思えた。夕日は赤いものなのに、境界線に浮かぶ雲は黄金で、そして白い空に溶けていく。
 十二月の冷たい風が頬を撫でるが、寒さは少しも感じなかった。ただ、胸が痛くなるほどに、この世界は美しいと、そう思う。
 いつも見上げていた光景なのに、こうして見下ろすだけで、なんだか別世界のようだった。
「綺麗……」
 思わず呟くメアリにウィリアムが言った。
「丁度ミューディーズを出るときに、あまりに夕日が綺麗だったから、君に見せたいと思った。あんな惨事の後には相応しくないけれど、それでも……」
 語尾を濁して言い淀むウィリアムに、メアリは静かに首を振る。
「いいえ、ありがとうございます。それに、ウィリアムさんのおかげで火が消し止められたんですから。皆が助かって、本当に良かったって私は思っているんです」
 にこやかなメアリの言葉に、ほんの僅か、ウィリアムが苦い声で呟いた。
「……計算したのは君で、僕はただ、その計算通りの軌道とタイミングで銃を撃っただけだ。第一、僕は彼等を見捨てようとした」
 普段とは全く違う声の苦さは、後悔に直結しているからだろうか。夕日を見つめる蒼い目は、光の黄金に反射して、何処か不思議な輝きを放っている。その目に紛れもない哀傷を認め、たまらずメアリが口を開く。
「でも、ウィリアムさんが正確なタイミングで撃ってくれなければ、あの火事でもっと沢山の人が亡くなっているんです。それに、ウィリアムさんが最初におっしゃったんですよ、『ここにいる人たちも助からない』って。それは、ウィリアムさんが最初から、あの人達を助けたい、って思っていたからなんでしょう?」
 ウィリアムの言葉を、メアリは一生懸命に否定した。しかし、ウィリアムはまだ納得をしないようだ。益々苦い声で言葉を続ける。
「確かに火を消せたけれど、僕は、結局、あの場にいた全員は助けられなかった。だから……」
「違います。全員は助けられなかったとしても、それでも助かった人たちはいるんです。ウィリアムさんは、全員を助けられなかったことを悔やむのではなくて、大勢を助けられた事、それを誇りにして良いんですよ」
 自嘲するようなウィリアムの言葉を遮るように、メアリは大きく首を振って、必死になって反論する。
 ウィリアムの言うとおり、火は無事に消し止められたが、しかし、確実に何人かは犠牲になっているだろう。爆発に巻きこまれたり、蒸気自動車に轢き殺された人間だって少なからずいるはずだ。それは、変えようのない事実だった。
 しかし、その犠牲者達を助けられなかった事を、自分のせいだと気に病むというのはおかしいとメアリは思う。
 自分達はちっぽけな人間で、火を消せただけでも僥倖なのだ。自分達がどうにかすれば、総ての命を助けられた筈だと思うのは、命に対する傲慢だろう。自分達は偉大な英雄でもないし、時を操れる運命の神でもなんでもない。だから、その場で出来ることを精一杯やるしかないし、その時の最善を尽くした結果ならば、失った命を悼む事も大事だが、しかし、それより、幾人かだけでも助けられた事を喜ぶべきだと思うのだ。
 そう言うようなことを一生懸命話すメアリに、ウィリアムが少し驚いたような顔をした。
「命に対する、傲慢……」
 口の中で呟かれた言葉に、メアリは静かに頷いた。
「自分が頑張りさえすれば、他の人の運命を変えられた筈だと思うのは、つまりはそういうことだと思うんです。総てを背負う、というには、人の背は小さすぎるし、無力なんです」
 そういうと、メアリは改めて、にこっと微笑む。ウィリアムに対して、明瞭(はっきり)と言った。
「でも、一人の背では背負いきれないから、だから、人は手を取り合って協力するんでしょうね。今回だって、私達、どちらが欠けても火は消せなかったでしょう? きっと、一人で何もかも背負えるようには、人は出来ていないんです」
 メアリの言葉は、一歩間違えば、運命という言葉の下に、自分の責任を放棄した不実なものに捕らえられてしまうだろう。
 しかし、メアリが真実言いたいことはそうではない。
 メアリのそれは、命に対する諦念――諦めるという意味ではなく、物事の本質をはっきりと見ることという意味での諦念――と、酷く似ていた。
 この少女は、命について、既に残酷なまでに悟ってしまっている。来たるべき死に打ち勝つことは、人には出来ない。しかし、抗うことは出来るのだ、と。
 その事に気付いたウィリアムが、ほんの少し、微かに笑う。風のない湖面のように、静かに言った。
「……そうだね。僕は少し、思い上がっていたようだ」
「人は、人の力でどうこうできるほど、小さなものではないんです。私達の手につかめるものは、たった二つしか無いのです。だから、こんなちっぽけな私達が、一人でも多くの方を助けられた事を喜びましょう? 人は、総てをたった一人で背負い込む必要はないと、私は、そう思うんです」
 慈しむようにそう言うと、メアリはまた、夕暮れの倫敦へ視線を向ける。
「悲しむ事と喜ぶ事って、矛盾しているけれど、でも、本質はおんなじ事なんじゃないかな、って思うんです。だったら、悲しむよりは喜んだ方が良いって、私はそう思います。だから、私、ウィリアムさんがこの夕日を見せてくれたことに感謝しているんです。……本当に、ありがとうございました」
 そういうと、メアリはウィリアムに深々とお辞儀をする。ふと、思い出したように訊いた。
「あの、肩は大丈夫ですか?」
 心配そうなメアリに、ウィリアムがゆっくり首肯する。
「大丈夫。痛みには慣れてる」
 そういうことでは無い、とメアリは言おうと思ったが、しかし、結局何も言わなかった。代わりに、出来るかぎり心を込めて言う。
「早く治ると良いですね」
 衷心からのメアリの言葉に、ウィリアムが少し目を逸らす。表情は殆ど変わらないのだが、なんだか叱られた子供のようだ。
「……そうだね。早く直すようにする」
「はい」
 そこで会話は一旦途切れる。メアリから目を逸らすように夕日に染まる倫敦を眺めていたウィリアムが、ふっと一つの詩を呟く。

The sea is calm tonight.
The tide is full, the moon lies fair
Upon the straits;---on the French coast the light
Gleams and is gone, the cliffs of England stand,
Glimmering and vast, out in the tranquil bay.
Come to the window, sweet is the night air!
Only, from the long line of spray
Where the sea meets the moon-blanch'd land,
Listen! you hear the grating roar
Of pebbles which the waves draw back, and fling,
At their return up the high strand,
Begin, and cease, and then again begin,
With tremulous cadence slow, and bring
The eternal note of sadness in.

海は静かだ。
潮は満ち、月はドーバー海峡に
美しくかかっている――。仏蘭西海岸の灯火のまたたきは
何時しか消えた、英国の断崖は静かな湾内で
広々と微かに見えている。
君も窓際に来るといい、夜気が爽やかだ。
海と月光に輝く陸地が接する
長い波打ち際から
波が打ち寄せ打ち返し飛沫を立てるたびに
小石のこすれあう音が聞こえる。
打ち寄せる波が沖の大波に戻るたびに
その音は、ゆっくりと震える律動で
聞こえては止み、また聞こえて、
緩やかなカデンツアを振るわせ
永久に続く悲しみの調べ。

 誰かに聞かせるわけでもなく、無意識に出てしまう独り言のような風情で呟かれたのは、なんだかどこか、もの悲しいような詩(うた)だった。
 美しいドーヴァー海峡を謳うようであるのに、どこか寂しさが滲み、だからこそ、気になった。思わずウィリアムを見上げてしまう。
 メアリの視線に気付いたウィリアムが、ふと我に返ったように、ほんの僅かに目を細めた。少しだけ、弁解のように言う。
「……マシュー・アーノルドの詩だよ。僕は何故だか、こういう時に彼の詩が引っかかる」
「引っかかる?」
「自分でもわからないうちに呟いてしまう、という事かな。気に触ったなら謝ろう」
 そう言って本当に頭を下げるウィリアムを、メアリは慌てて手で制す。
「あ、いいんです、全然気に障りません! 綺麗な詩だと思ったので……」
 美しいのに、もの悲しい詩だと思ったことは告げなかった。なんだか、それをウィリアムに伝えるのが躊躇われたからだ。
「ウィリアムさんは、詩が好きなんですか?」
 だから、代わりに一つ訊く。例の紳士の言葉をロバート・ヘリックの詩であると看破したり、今のマシュー・アーノルドの詩を呟く様からの印象だ。
 その問いに、ウィリアムが少し首を傾げるように言う。
「わからない。馴染んだり、引っかかったりはするけれど、それが好きというものかと言われたら、違うように、僕には思える」
「そうなんですね……」
 ウィリアムの言葉には、いつだって真実しかない。今の言葉にも、照れ隠しや気取っているのでは無く、真実、詩が好きかどうかわからない、というような何処か戸惑う響きがある。だからメアリは、多くを聞くことはしなかった。
 ビュウ、と風が強くなる。微かによろめくメアリを庇い、ウィリアムが手を差し出す。
「風が出てきた。そろそろ帰ろう」
 抑揚はあまりないが、しかし、とても優しいようにそれは聞こえた。メアリは小さく微笑むと、その手を取った。
「はい。……今日は本当にありがとうございました」
「僕の方こそ、今日はありがとう。今度はこういう事件に巻きこまれない場所へ行こう」
 静かに告げられた言葉に、メアリが嬉しそうに、にこっと笑う。
「はい、よろしくおねがいします」
 屋根の上に佇む二人の間を、茜色に染まった水蒸気が流れていく。まるで自分達が雲海の中にあるような錯覚に、二人は顔を見合わせて少し笑った。
 十二月の風は冷たいが、それでも心の中は何処かほんのり暖かい。
 帰ると言ったばかりだが、しかし、太陽の最後の輝きが消えるまでの僅かな間だけ、二人は手を繋いだまま、しばらくその場に立ち通していた。


 完全に鎮火されたミューディーズの中、人々が右往左往する中で、中二階の手摺りに凭れ、グラッドストンが呟いた。
「とりあえず、あの二人のおかげで命は助かったようだが……。何なのだ、あれは」
 茫然とした風に呟くグラッドストンに、ケンが壁に凭れて言った。
「さぁなぁ。凄まじい空気の振動を感じたが、あれで火を消せたのだから、詮索よりも先に、素直にあの二人に感謝すべきではないかね?」
「それもそうだな」
 グラッドストンは、焦げた空気に噎せながら、面白そうに唇を笑みの形に吊り上げた。
「なんだか面白いことになってきたではないか、ケン殿。命を狙われるのも久しぶりだし、あんな少女に救われたのも初めてだ。何かが動き出す兆しかもしれんな」
 何処か挑むような顔つきになったグラッドストンを、ケンは特に変わらない表情で見ていた。
 警察と救急隊が駆け込んできたのは、それから暫くの事だった。

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