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Nostalgia 第一章・2

 空は何処までも青かった。あとすこし、ダラムという駅で降りると、父親は言う。そこには、『おじいさま』が住んでいるらしい。はじめて『おじいさま』に会いに行くメアリは、お気に入りの白いドレスを着て、列車の窓から流れる景色をはしゃいで見ていた。
 コンパートメントの中には、父親とメアリの二人しか居なかった。随分と立派な客車で、座席もどこかふわふわだ。
 父親は、とても優しい目でメアリを見ていた。いつも仕事で忙しく、殆ど家に帰ってこない父ではあったが、休みの度に、こうしてメアリを遊びに連れて行ってくれる。
 母の記憶は何もない。メアリを産んで、すぐに亡くなってしまったからだと、父は言う。
 母のない娘への贖罪だろうか、父親は本当にメアリを可愛がってくれた。仕事で忙しいのにもかかわらず、よく遊んでくれたものだ。休みの度に船に乗せてくれていたし、長期休暇になれば、こうして汽車に乗って、田舎の観光地へも連れて行ってくれる。
 父は先生という仕事をしていて、何日、何週間も帰ってこないことも良くあった。その度にメアリは、近所の教会に預けられていたものだ。寂しかったけれど、お仕事ならば仕方ないと、そうやって割り切るしかなかった。父が遊びに連れて行ってくれるのも、おそらくはその穴埋めだろう。
 本当は、メアリは、父親と一緒に過ごせるのならば、どこかへ遠出をしなくてもいいのだ。家の中で一緒にいてくれるだけで幸せだった。けれど、やっぱり父親との遠出は楽しくて、ついついこうやってはしゃいでしまう。
 メアリが楽しそうに笑うのを見て、少し切なそうに父が呟く。
「……『人が思い違いをしているのは、自らの幸福が、人生の真実の目的だと考えている部分ではない。人の思い違いとは、世界が自分に幸福を与えるためにのみ存在していると、そう夢見る部分にある』、か……」
「おとうさま?」
 急に何かの詩を呟く父親を、メアリは不思議そうに見る。その視線に気付いた父が、ぎこちなく笑ったようだ。
 ゆっくりと手を伸ばし、幼いメアリを抱き上げて言った。
「知的解放の代償として、神への信仰を失った者の詩(うた)だよ。『――沈黙の中で苦しむことを厭う我々は、我々が耐えるべき不幸の原因を、真空地帯に作り出した神々に押しつける。そうして神や運命を罵ることで、我等はその苦痛を和らげるのだ――』。いいかい、メアリ。この世界に神々は居ないんだよ。人々を苦しめる神も、その苦しみから人々を救ってくれる神も居ない。それらは、人間が勝手に作り上げた妄想だ」
「……もうそう?」
 父親の言うことは、たまに難しすぎてよくわからない。不思議そうに首を傾げるメアリを抱きしめ、父が言った。
「神は死んだ、そうかもしれない。だが、怖れることはない。だからこそ、自分の力で運命は切り開ける。お前には、その力があるからだ。お前は――」
 丁度、汽笛の音に掻き消され、語尾がよく聞き取れない。
「おとうさま、何を言っているの? よくわからないよ……」
 急に抱きしめられ、メアリは困惑するばかりだ。父はどうやら泣いているようだった。それを見ると、メアリの胸も痛くなって、すごく悲しい気分になった。
「おとうさま……」
「メアリ、いいか。お前は生きることを『選ぶ』んだ。何があっても、必ず『生きろ』」
 父が囁いたその瞬間。
 ものすごい音と、そうして強い衝撃が体を襲った。
 世界が一瞬で、紅く染まった。

       ※    ※    ※

 襲い来る衝撃に、メアリは、思わず眼を見開いた。何もない。周囲はとても静かで穏やかだ。
 酷く汗をかいている。
 薄ぼんやりとした光の中で、天井が真っ先に目に入った。今まで自分が住んでいた貧相な部屋とはまったく違う、重厚で立派な作りだ。
 ここは何処かと一瞬考え、すぐに、フィッツロヴィアの教授の家だと思い出す。メアリはベッドの中で、ほっと安堵の溜息を吐いた。まだ、心臓がばくばくしている。
 また、あの夢か、と、そう思った。
 何か自身に転機が訪れる度、メアリは必ずあの夢を見る。十二年前の、あの列車事故の夢だ。涙を流していないのは上出来だった。以前は必ず泣きながら目を覚ましたものだが、今ではこうして『平気』でいられる。
 メアリは、泣くのが嫌いだった。泣いたって哀しみが薄れるわけでも無い。逆に、益々哀しみが深くなるようで、だから泣かずに済むのなら、それに越したことはない。
 泣かない代わりに、メアリは、ぼんやりと数時間前のことを思い出す。

 教授から渡された手紙は、確かに父からのものだった。便せんに綴られているのは、見覚えのある懐かしい父の文字に間違いは無い。
 手紙の内容は至極簡潔なもので、要約すれば『自分に万が一のことがあった場合は、自分の遺産の半分を報酬として、アルフレド・ジェイムズ教授を娘の後見人に指名する。残りの半分は娘の養育費に当てて欲しい。猶、自分の娘には数学の才能がある。できればこの才能を生かせるように導いてほしい』というような内容だ。まるで遺言状のように思えるが、死が想像以上に身近にあるこの時代では、節目節目にこういう手紙を残す事も別に珍しくない。成人して、家族やある程度の財産を持った者は、大抵が万一に備えてこういった手紙を弁護士や銀行に預けて遺すものなのだ。
 英国では、女性には遺産の相続権がなかった。それ故、メアリには法的に財産を受け継ぐことが出来ない。だから父は、それを《養育費》として残そうとしたのだろう。
 遺産の半分を手に入れる筈の教授は、しかし、闇色の声のまま、はっきり言った。
「誤解しないで欲しいのだが、私は別に、提示された報酬など特に要らない。父君の遺産の半分を預かりはするが、いつか君にしかるべき相手が見つかった折は、持参金として渡す予定だ。私がここに来たのは、君の数学の才能に興味を持ったからだよ」
 驚くほどに色にも数字にもブレがない。本心からの言葉であるのは明白だった。それに驚き、メアリは尋ねる。
「数学の才能……ですか?」
 数学の才能というのは、この、音が色の付いた数字に見えるという目のことだろうか。数学の才能がある人は、こういう力があるのだとしたら、自分一人だけではないというある種の希望だ。他人と違う、自分一人だけの世界というのは、これはこれで生きにくい。
 メアリの言葉に、教授は深く頷いた。
「左様。君のお父上はとても優秀な数学者だったのだ。だから、娘である君も、お父上のいうとおり、数学の才能があるという可能性は大いにある。私はそれを確認するため君を探していたのだよ」
 教授は微かに闇色の声を濃くして言う。
「一つ尋ねるが、君は、音を数字で捕らえることはないかね? 或いは、数字に色が付くであるとか、色に匂いを感じるとかでも良い。一つの事象を捕らえるときに、二つ以上の感覚を覚えることはないだろうか」
「ええ。私は音を聞くと、それに色が付いた数字を纏っているのが見えます。その事をおっしゃっているのでしょうか……?」
 ほんの少し躊躇いながら、メアリは正直に教授の問いに答えた。別に秘密にしているわけではないが、それを誰かに話す度に気味悪がられる為、メアリは自分の視界の事を殆ど話さない。気味悪がられる程度ならまだ良いが、嘘つき扱いされることさえあるからだ。
 しかし、教授はそれを聞いても気味悪がるというようなことは一切無かった。逆に、感心したように小さく呟く。
「音を色と数字で感じるのみならず、それを視覚化も出来るのか……。素晴らしい」
 闇色の声が一瞬だけ明るくなった。色が明るくなるときは、大体が、心(しん)から感心している証拠だ。初めてそれを肯定されて、メアリはどきりと胸が高鳴る。
「素晴らしい……?」
 今まで言われたことの無い言葉に、思わずメアリの語尾が上がった。それを聞き、教授がはっきり頷いた。
「ああ、素晴らしいさ。君のそれは、俗に共感覚と呼ばれるものだ。例えば高名な音楽家の中に、絶対音感という、ある楽音の高さを他の音と比較しないで識別できる能力を持つ者がいる。音の捉え方はそれぞれだが、中には音を数字で認識する事でよりはっきりと識別できるタイプもいるそうだ。君の場合はそれに近いが、色と数字、両方で感じるということは、更に詳しく分析が出来ているということだ。それは希有な素質だよ」
 絶対音感がなんなのか、メアリにはよくわからないが、しかし、教授の言葉に嘘は無かった。だから、彼は本当のことを言っているのだとそれでわかる。教授がここまで感心するのだから、余程凄いことなのだろう。
 教授がしみじみとした声で言った。
「数学というのは、数・量・空間などの性質や関係について研究する学問の事だ。君の能力は、直感的にそれを理解し、分析している。君のお父上の言うとおり、君には天性の数学の才能があるのは間違いないだろう」
 心からの賞賛だった。
 今まで誰からも気味悪がられ、或いは信用されたことのない『それ』が、初めて他者に肯定されるという事に、メアリは少し泣きそうになる。しかし、教授はそんなメアリに気付くことなく、更に話を続けた。まるで、試すような声で言う。
「では、改めて君に問うが、二十一の階数と、十八の階数、そうしてそれを乗算した答を教えてくれないかね?」
 唐突な問いだった。傍らで黙ってそれを聞いていたウィリアムが、メアリにペンと紙を差し出そうとする。しかしメアリはそれが差し出される前、教授の問いから一秒もたたないうちに答えを告げた。
「ええと、二十一の階数は五一〇九〇九四二二〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇になります。十八の階数は六四〇二三七三七〇五七二八〇〇〇ですので、それを掛け合わせた数は……」
 暗算の方法は人によって様々だろうが、メアリの場合、特に脳内でいちいち演算をするようなことはない。数式を見る、あるいは聞くと、一瞬で光の集合のようなイメージがふっと頭に浮かぶ。そのイメージを語ろうとすると、自然と数字になって口から出てくる。メアリにとっての計算というのは常にそれで、ペンと紙を使うこともない。
 即答するメアリに、教授は僅かに満足げな笑みを浮かべた。まるで教え子に対するように、鷹揚に頷いて尋ねる。
「その通り、正解だ。君は、普通の人間がその答えを暗算では導き出せない事を知っているかね?」
「え、それはどういう……」
 教授の言葉に、メアリは驚いて目を瞬かせた。この程度の計算は、皆当たり前に簡単にできるのではないだろうか。その問いに、教授は静かに首を振る。
「大多数の人間は、一つの事例に対して一つの感覚でしか認識することができないし、また、二桁以上の乗算を思考のみで暗算することも、訓練せねばなかなか出来ない。君のように、何の訓練もせず、当たり前のように出来る者は滅多におらんよ」
「そう、なのですか?」
 あまりに驚き、メアリは少し、声が詰まる。
 大きな桁の計算は日常的に使われないだけで、皆、当たり前に出来るのだろうと、生まれてこの方、メアリはずっと思っていた。思うというより、信じ切っていたという方が正しいだろうか。
 けれど、思えば、買い物にしても、多くて一ギニーくらいの支払いしたことがなかったため、他者の計算を見ることも、そういえば全くない。
 自分の常識は他人の非常識というのはよく言われる言葉だが、まさかこういうことだとは……。
 愕然としているメアリへ、教授は小さく苦笑する。
「君の計算能力は特別なのだ。我々は、君のような人間を『計算手』と呼ぶ。思考のみで莫大な数を計算できる、選ばれた者のことだ」
 そう言うと、教授はゆっくりと『計算手』についての解説をしてくれた。
 計算手というのは、本来の意味は数学者や設計者の手足となって、細細とした計算を代行する者の総称である。
 今から百年ほど前の一七九二年、ナポレオン・ボナバルトは、仏蘭西の数学者ガスパール・ド・プロニーに命じて、わかりやすく正確な対数表の製作を命じた。
 対数とは、スコットランドの数学者、ジョン・ネイピアが創始した計算法だ。すべての数は十の冪数(べきすう)《同じ数または式を何回か掛け合わせたもの》であらわすことが出来、二つの数の冪数を足し合わせると、その二つの数を掛け合わせた数の対数になるというものである。ネイピアは十を底(てい)とする多くの数の対数を計算し、それを対数表として公表した。ある数どうしを掛ける、あるいは割る場合はその対数表でそれぞれの数の対数を見つけ出し、足し算・引き算を行って、その答えを逆対数法で照合すればいい。
 対数は平方根や立方根、三角関数の計算を著しく簡単にした。そのため、対数は数学に限らず様々な分野でも活用されるようになり、誰にでも使えるほどに簡単で、より正確な対数表が求められたのである。
 その作業のためにド・プロニーは人手を集め、階層性にして雇った。つまり、まずは数学者達に式を考えさせ、続いて助手達にその式を簡単な加算と減算に分解させる。最後に計算手と呼ばれる労働者達がその基本的な計算を行う。この一連の流れが階層性、というものなのだが、その最下層に位置する労働者こそ、今の「計算手」の始まりである。
 しかし、百年前のただの労働者とは異なり、現在の計算手はすこしばかり『出来』が違う。
 近年――ここ、二、三十年前後に現れた『計算手』と呼ばれる人々は、道具などを用いて簡単な四則演算を解くだけの労働者ではない。例えば道具を用いず、思考するだけで二十桁同士の乗算や割算をこなしたり、計算だけで百年後の曜日まではじき出せるという、凄まじい能力を誇る。
 一八六九年、天文学者であるロス伯爵の研究所に、ジョージ・ロジーヌという十七才の少年が訪れたことが、ある意味で計算手誕生のきっかけだった。ロジーヌは貧民街出身で、読み書きも碌に出来なかったのだが、誰も教えたことが無かったのに、異常なまでに計算速度が早く、かつ正確だったことから、研究対象としてロス伯爵家に引き取られたのである。
 彼は十年間ロス伯爵の研究所に在籍していたが、転機が訪れたのは一八七九年の事である。ロス伯爵の三男であるサー・チャールズ・パーソンズが、タービン関連の会社を立ち上げた折、計算手としてジョージを連れて行ったのである。この時代、計算が最も求められたのは工業関係であったろう。優れた計算手の活躍で、パーソンズの会社は一年も経たぬうちにメガワットタービンとタービン動力の船(タービニア)を開発したのである。
 ロジーヌはのろまで役立たずと言われていた少年だったが、計算や暗記には異常なまでの才能を示していた。特に映像記憶に長け、床にばらまかれたトランプの枚数や、爪楊枝の本数を一瞥しただけで正確に回答できたという。
 当初は、このような才を持った計算手はロジーヌだけだと思われていたが、その二年後にマークス・スノウという天才計算手の少年が、同じく貧民街で発見された。ロジーヌよりも二歳ほど若いこの少年はやや自閉症の気があったが、しかし、凄まじい計算力と暗記力を誇ってもいた。観劇の際、一度見ただけの芝居のすべての台詞をいっぺんに覚えてしまったりもしたという。彼を計算手に雇ったヘンリー・ボンズは、当時解読不能と言われたスペインのカルロス式暗号の解読に成功し、軍の特殊諜報機関部の長官となって各国の諜報戦の軍事地図を一気に塗り替えている。これにより、英国は更に国家間の発言力を強めていった。
「時代の節目、節目には、必ず特殊な能力を持った人間が現れる。というよりも、境界線を超えてしまう人間が出る、と言った方が良いかもしれない。そして、境界線を越える者が現れたと同時期に、同じように境界を越えられる者が複数現れる。あちら側の壁は、まるで物理的な壁と同じだと、神が我等を試しているかのようにな。例えばかつて、一哩(マイル)を五分以内に走れる人間など存在しなかった。しかし、一八八八年にジョナサン・マックスウェルが一哩を四分五十七秒で走破した途端、次々と五分の壁を越える者が現れた。計算手もまた同様に、ロジーヌ、スノウに続く才能が次々と報告されている。君は、そんな天才の一人なのだよ」
 教授の話を聞きながら、メアリは内心酷く驚いていた。
 自分が当たり前のことだと思っていたことが、またもや異常なことであるということを、メアリは今、初めて知った。けれど、自分の他にも何人か、同じような能力に特化した人間がいる事に安心もする。一人ではない、誰か仲間が居るという事が、何故だか不思議と心強い。
 困惑と安心が半々のメアリに、教授がやや目を細める。
「一般的に天才は、自分が天才だと知るが故に天才である人種と、自分の才能に気付かぬままに、凡人として生きている人種に別れるそうだ。計算手という人種は特に後者に多いらしいが、それ故に、真実の計算手は数が少ないと言う。さて、ジズ嬢。私は君の、その計算手としての才能を活かすべきだと考えている。少なくとも、貧民街の中でその才能を埋もれさせるのは惜しい。しかし、その才能を活かすのかどうかを判断するのは、私では決してない。決めるのは、君の意志だけだ」
「私の、意志?」
「一歩足を踏み出すか、或いはここに留まるか、ということだ。君は、幸運によってここから連れ出されるのではない。君自身が運命を従えて、己の未来を『選ぶ』のだ」
 教授の言葉は何処までも淡々としていたが、しかし、酷く重要な決断を迫られているというのは何故かわかった。
「選ぶ……」
 メアリは、教授の言葉を口の中で繰り返す。その単語は、奇妙な重さを持って胸に響いた。
 思えば、メアリの人生は、一つも自分で選んだものでは無かっただろう。
 事故によって父が死に、有無を言わさず孤児院に入れられた。
 孤児院でいきなり勝手に里親を紹介され、縁組をされた。
 その里親が悪人で、いきなりイーストエンドに捨てられた。
 死にかけたところを、ジェーンという優しい人に拾ってもらい、彼女に養われるままに、ここで暮らした。
 ジェーンの死後も、何処に行くことも出来ず、生きるために、そのまま彼女の後を継いだ。
 それらすべてが、押しつけられた、もしくは与えられたものであり、メアリ自身が選ぶ余地はまるで無かった。それが当たり前であり、選べないことが当然だと、多分メアリは、今の今まで、ずっとそう思っていたのだ。
 しかし、教授はメアリに選べと、そう告げた。
 今のメアリには、確かに道が二つある。このままジェーンの後を継いで占い師としてここで生きていくという道と、教授の手を取り、ここから出て行き、新しい人生を生きるという道だ。
 自分はずっと、ここに居るのだという、漠然とした感覚がメアリには合った。ここから出て行く方法もわからないし、未来だって何もない。ジェーンから受け継いだものを守って生きていくものだと思っていた。
 それなのに、たった今、メアリにはいきなり新しい選択肢が増えたのだ。急に開けた未来に対し、最終的にはそれを選ぶにしても、数日は考える時間を欲するだろう。
 教授に引き取られ、中流階級の娘に戻るのは、とても素晴らしいことに違いない。しかし一方で、貧民街の孤児がそんな日の当たる場所へ出て行っても良いのかという、恐れにも似た躊躇いがあった。
 学もない、単に計算が得意だというだけの娘を引き取って、教授ががっかりしないかという不安もある。
 しかし、メアリは一瞬たりとも悩まなかった。
 そうするのが最初から決まっていたかのように、即座にメアリは差し伸べられた教授の手を取る。少しだけ笑って言った。
「わかりました。では、私は貴方の手を取ることを選びます」
 あまりの躊躇いのなさに、教授が僅かに目を見開いた。感心したように低く呟く。
「……君がこの手を取るであろうということはわかっていた。しかし、そう決断するに至る時間は予想よりも短かったな」
 その言葉に、メアリは困ったように微笑んだ。小さく言う。
「確かに、とても不安はあります。でも、心の中では何を選ぶか、既に決まっているのです。でしたら、悩む時間はすべて無駄です」
 メアリは昔から恐ろしいほど割り切りが早い。取捨選択の正確さはともかく、判断の速さだけは誰にも負けない自信がある。そうしなければ生きていけなかったというのもあるが、それ以外にも、うじうじ悩むのが面倒だという、恐ろしいほどの怠惰さのせいだろう。
 世の中には確率というものがあるが、突き詰めれば、それはすべて二分の一だ。『出来る』か『出来ない』か、あるいは『やる』か『やらない』かの二択でしかない。そして、『出来る』のならば、メアリは常にそれを選ぶ。自分はここから出て行ける。ならば、進むのが正しいと、そう判断したからだ。
 確たる理由が在るわけではない。ただの直感だ。しかし、直感というのは、よくわからないが、自分の全人格を賭けた何らかの計算の答だとそう思う。
 今回もその直感に従って行動しなければ、教授達に助けられることもなく、きっとメアリは命を落としていたはずだ。そうして未来を用意されることもなかっただろう。
 だから、メアリは教授の手を取ったのだ。そうしろと、自分の中の何かが囁くが故に。
 自分は計算手なのだと教授は言う。数学者として希有の才能だと。つまりそれは、父の願いを叶えることが出来るということだ。選んだ道にどんなリスクがあろうとも、ひとつにひとつ、二つは選べない。自分の能力が誰かに望まれているのなら猶更だ。
 自分にそれが出来るのならば、それはきっと、自分が為すべき事なのだから。選んだことによって生じる手間やごたごたは、また次元が違う話だろう。
 そんなメアリの思いを知ってか知らずか、教授がほんの僅かに感心したように、あの闇色の声で言う。
「なるほど、確かに君は計算手だ」
 何と答えて良いかわからずに、メアリは首を傾げるのみだ。計算手がどんなものか、メアリは知らない。しかし、教授がそういうのなら、きっとそうだ。メアリは改めて、自分の道をはっきり選ぶ。彼等と共に、外へ行こう、と。
 それがすべてのはじまりだった。
 この会話から一時間後、メアリは箱形馬車(ブルーム)に乗せられて、フィッツロヴィアにある教授の家へ連れてこられた。
 屋敷のメイドに暖かいお湯がたっぷり張られた浴室へ案内され、そこで久しぶりに入浴をさせてもらった。擦り傷が染みたが、それよりも、暖かく良い匂いのするお湯に浸かる事の素晴らしさの方が勝っている。
 英国人が入浴の楽しみを覚えたのはここ最近のことだ。それまでは、ウェリントン公が提唱した水風呂による健康法でしか、風呂というものは認識されていなかった。かつて英国では医者達が『入浴はリューマチや呼吸器疾患を悪化させる』と唱えたために、健康のためには、温かいお湯で毎日入浴するなどは以ての外だったのである。
 しかし、医学の進歩により、体を清潔に保つ事の大切さがわかってくると、一般家庭にも浴室が設置され、毎日の入浴が当たり前になっていった。浴室の持てない労働者階級の為にも公衆浴場が用意され、タオル付きで二ペンスという手頃な値段で入浴が出来るようになっていったのである。
 そんな中でも、貧民街の人間が湯に浸かることはあまりなかった。湯に入りたいのは山々だが、公衆浴場はイーストエンドに多くないし、木賃宿の一泊の宿泊費とほぼ同額の金を、たかが入浴に使えるほど、彼等の収入は多くなかったからである。メアリの場合は更に、体が傷だらけだという理由もあって、殆ど公衆浴場には行けなかった。自宅で大きな盥に湯を張って、そこで汗を流すのが関の山だ。
 バスタブの中で手足を伸ばせる感覚は素晴らしかった。気持ちよすぎて、全身がふやけるくらい入り続け、メイドが心配して様子を見にきた程である。
 用意された新品の寝巻きは肌触りがとても良かった。それを着て、ふかふかで暖かいベッドの中に潜り込んだ事までは覚えている。
 夢のようだと思う間もなく、あっという間に眠りについて、そうしてあの夢を見て、目覚めたのだ。
 時計は九時半を指している。たっぷり七時間は寝たらしい。寝過ぎたと思ったが、しかし、昨晩の出来事を思い出すと、仕方ないともそう思う。
 伸びをしてゆっくりとベッドから起き上がると、メアリは寝巻きのままで床に立ち、改めて室内を見回す。
 酷く新しい匂いのする部屋だった。壁紙は勿論、絨毯や置かれているチェストも新品のようであるし、よく見れば水道まであるようだ。
 用意されていたふかふかのスリッパを履くと、少し乱暴に、洗面台で顔を洗った。頬の傷がまだ痛んだが、冷たい水は、頭をいっぺんに冷やしてくれる。昨日のことも、今日の悪夢も、すべて洗い流されるような気がした。
 ふとベッドサイドを見ると、そこには真新しい服が用意されていた。落ち着いた色をした、近頃流行の羊脚袖のドレスである。仕立ての良い服に袖を通すと、びっくりするほど着心地が良くて、それもまた驚いた。
 着替えを終えて、髪を調えてから、さて、これからどうしようと思っていると、ドアが驚くほど正確無比な間隔でノックされる。
「どうぞ」
 慌てて返事をすると、包帯や薬瓶が乗った盆を持ったウィリアムが表れた。相変わらずの無表情だが、昨日と違い、その目の蒼は茫としている。
「おはよう。そろそろ目が覚めた頃合いかと思って」
 無感情な銀色の声もまた、相変わらずだ。数字も昨日とまったく変わらない。メアリも慌てて挨拶をする。
「おはようございます。昨日は御世話になりました」
 その挨拶に、ウィリアムが少しだけ頷いた。
「僕は特に何もしていない。君の方こそ、さぞや大変だったろう。傷の具合はどうだろうか」
 心配をしてくれているのか、数字の纏う銀色が、ほんの少しだけ沈む。メアリが慌てて手を振り言った。
「大丈夫です。もう殆ど痛くないですから」
「だったら良かった。でも、痕が残ると大変だ。手当てをさせてくれないか」
 淡々と告げるウィリアムの声は、決して無理強いしている風ではないのだが、なんとなく断りにくい不思議な迫力があった。メアリは言われるままにベッドに腰を下ろし、治療を受ける。
 頬の傷に塗られた膏薬は、とても優しい香りがした。強い消毒液の香りもなく、阿片チンキの匂いもしない。傷の上にはガーゼが貼られる。
「あの、足の方は自分でできますから……」
 膝小僧の手当てをされる時だけ、メアリは少し逆らった。この時代、男性に踝から上の部分を見られるのは、胸をさらけ出すくらいに恥ずかしいことなのだ。顔の傷は一人では巧く手当てできないかも知れないが、しかし、膝小僧なら自分でも出来る。
 しかし、ウィリアムははっきりと頭を振った。断然(きっぱり)と断言する。
「僕は医療も学んでいる。素人の手当てでは、疵痕(きずあと)が残ってしまう畏れもあるんだ。だから、僕に手当てをさせてくれ」
 メアリに傷が残らないよう、本心から気を遣ってくれているのが解る声だった。無感情なくせに、とても誠実で、そうして心配してくれている、そんな声だ。
 医者に体を見せて恥ずかしがるのは、その仁に対しての無礼だろう。その声に押されるように、メアリは小さく頷いた。
「……はい、わかりました。よろしくお願いします」
 恥ずかしいのに変わりは無いが、しかし、彼の誠意を無下に断る勇気もメアリにはない。
 ウィリアムは、床の上に片膝をつき、メアリの足の手当てをする。丁寧に薬を塗り込み、そうして綺麗に包帯を巻いた。その間、メアリは足を見られていることを意識しないように、ウィリアムの様子をじっと観る。
 昨晩は気付かなかったが、この青年は両利きだった。とても器用だというのは、傷の手当ての手際の良さからも窺える。ディットーズは昨晩と同じ物だが、中に着ているシャツは洗い立てのようだ。シャツは立て襟ではなく折り返し襟で、フォアインハンド・タイを結んでいた。
 その姿に、ふっと閃くものがあり、メアリは思わず訊いてしまう。
「ウィリアムさんも、このお屋敷に住んでいらっしゃるんですか?」
「ああ。住むというより、助手としてここに置いて貰っているといった方が正しいかな」
 突然のメアリの問いにも、ウィリアムは一切動じる気配がない。声が纏う銀色や数字にも変化はなく、真実のようだ。
「教授の助手ということは、ウィリアムさんも数学が専門ですか?」
「専門というよりも、数学が馴染む、という方が正しいかも知れない。最初に知ったのが数学だから」
 そう言うと、ほんの少しだけ、ウィリアムは躊躇うように口を噤んだ。嘘とは違う、何かを言うか言うまいかを悩んでいるといった、そんな雰囲気である。
 だからこそ、メアリは何も言わずにウィリアムの手元を見つめた。長く整えられた指先は、まるで手品師や音楽家のようだとぼんやり思う。労働を知らない手というのではない。その逆で、常に訓練し、どんな動きでもできるようなしなやかさがある。所謂(いわゆる)、職人や芸術家の手、というやつだ。
 包帯を巻き終わったウィリアムは、立ち上がり、盆の上を片付けながら、ぽつんと言った。
「……僕に数学を教えてくれたのは、ギルバート・ジズ氏、君の父上だ」
 その言葉に、メアリは少なからず驚いた。父が教授に師事していたことは教えて貰っていたが、ウィリアムもまた、父に師事していたとは想像もしていなかったからだ。
「ウィリアムさんも、父のことを知っているんですか?」
 恐る恐る尋ねるメアリに、ウィリアムが静かに頷く。ほんの少し、遠くを見るような目をして言った。
「ああ。先生には僕がまだ幼かった頃に色々な事を教えて貰った。僕が教授の助手になったのも先生のおかげだ」
 見たところ、ウィリアムは二十代の前半くらいだ。仮に年齢より若く見える質だとしても、絶対に三十は過ぎていないはずだった。であるのなら、言葉の通り、彼は子供の頃に父を師と仰いでいたのだろう。
 ウィリアムには、メアリの知らない父の記憶がある。それを羨ましいと思う反面、自分以外に父のことを知る人に会えて嬉しいとも思う。だから、思わず訊いてしまった。
「あの、ウィリアムさんはどういう縁で、父と知り合いだったんですか?」
 その問いに、ウィリアムは、少しだけ考えたようだった。瞬きを一つすると、まったく変わらない銀の声でぽつりと言う。
「僕のいた、施設の中で。先生は、そこの責任者だったから」
 彼の声、銀を纏う数字には、僅かなブレさえ何もなかった。混じりっけの無い真実を言っている声だ。
 フロックコートやモーニングではなく、大衆着のディットーズを着ていることから、そこまで彼の身分が高くないのは解っていた。施設にいたということは、つまり、メアリと同じ孤児だったということだろう。ほんの少し考えるようにしたというのは、自分の出身をあまり言いたくなかったからに違いない。
 悪いことを訊いてしまったような気がして、メアリは思わず話題を変える。
「あの……お父さま……、いえ、父はどんな人だったんですか?」
「先生はとても優しい人だったよ。専門は数学だという話だけれど、僕は数学の他に物理学も少しだけ教えて貰った。あとは読書の楽しみを」
 メアリの問いに、特に気を悪くした様子もなく、ウィリアムが静かな声で答えてくれた。この青年は、訊いたことは何でもきちんと答えてくれるし、驚くほどに嘘がない。
「数学と物理学、ですか」
 幼い子供に教えるにしては、随分と高度な学問だ。それくらいウィリアムは優秀な子供だったのだろうか。そう訊くと、ウィリアムは静かに首を振って見せた。
「僕は優秀でも何でもない。優秀だったのは先生だ。先生は本気で人を救おうとしていた」
 この時代、底辺にいる者が這い上がるには、学問しかない。だから、父は幼い子供にもあえて難しい学問を教えたのだろうか。確かに男性であるのなら、計算が出来れば商売が出来るし、ウィリアムのように、大学教授の助手にもなれる。
 ウィリアムは小さく続けた。
「先生と共に居た時間は三年にも満たなかったけれど、あの頃が僕にとっては一番幸せな時間だったと思う。――先生が亡くなったのを知った時は、本当に哀しいと感じたし、だから、あの時、君を助けられて本当に良かった」
 何らかの感情が、初めてその蒼の瞳に揺らめいたようにメアリには思えた。それが何かはわからない。迂闊に触れてはいけないような、そんな脆くて綺麗なものだ。自分の好奇心のために、おそらくは触れられたくないはずの出生のことまで話さざるを得なかったウィリアムの内心を考えたら、その綺麗なものに踏み込んではいけないと、そう思う。だからメアリは、さりげなく話題を変えた。
「あの時は本当にありがとうございました。手当てまでしていただいて……。ハンカチも汚してしまって申し訳なかったです」
「ハンカチのことよりも、君が無事で本当に良かった。この薬は良く効くから、毎日きちんと手当てをすれば、傷が残ることもない」
 ウィリアムの言葉は字面こそ素っ気ないが、しかし、口調は不思議と優しかった。無感情には変わりないのだが、先刻までのものとは、纏う数字が柔らかいのだ。
 父のことを話してくれたおかげで、ある種の垣根が外れたような、そんな気がする。気を許すとか、打ち解ける、というのはこういうことをいうのだろうかとメアリは思った。
 ふと、ウィリアムが思い出したように言った。
「少し遅いが、下に降りて朝食にしよう。教授も待っている」
 その言葉にメアリは喫驚(びっくり)してしまう。
「皆さん、私が起きるまで朝食を待っていてくださったんですか?」
 慌てて訊くと、ウィリアムが静かに頷く。
「初めての朝食くらいは、皆で顔を合わせて食べるべきだと言っていた。尤も、教授も僕も、昨晩は帰りが遅かったから、起きたのも君と大差ないくらいの時間だったし、問題は無い」
 その言葉に嘘がないことだけが幸いだった。自分のせいで皆が空腹に耐えていたのなら、申し訳なくていたたまれない。
 ウィリアムの後ろについて部屋を出て行くのと入れ違いに、二人のメイドが掃除道具と換えのシーツを持って入っていく。二人とも衣擦れの音以外、無駄口は勿論、足音一つたてないようだ。昨夜、メアリの世話をしてくれたメイドもそうだったが、躾の行き届いた家の使用人というのは、これほどまでに静かなものか。
 そういえば、前を行くウィリアムもとても静かだ。足跡一つたてていない。一方で、どこか湿った土の上を歩いたものか、靴底に泥が付いているのがちらっと見えた。廊下に僅かに土が残る。それを踏まないように自分の足下を見た途端、メアリは自分が靴を履かず、スリッパのままで廊下を歩いていることに初めて気がつく。
「あ……」
 スリッパで廊下を歩き回ってはいけないという決まりはないが、不作法なのには変わりない。部屋に戻ろうにも、メイド達の掃除の邪魔をするのは悪いし、そもそもあそこに、自分の靴はあっただろうか。
 戸惑うメアリに気がついたウィリアムが振り返る。
「どうかした?」
「いえ、その……、靴に履き替えるのを忘れてしまって……」
 申し訳なく告げるメアリに、ウィリアムが事も無げに言う。
「気にしなくてもいい。君の靴はまだ無いから」
「え?」
 目を瞬かせるメアリに、ウィリアムは相変わらずの銀の声で静かに言った。
「君が着ていた服や靴は、血や泥で汚れていたため処分した。今日、昼過ぎに、仕立屋と靴屋が来て、採寸する手筈になっている」
「採寸……?」
 予想外の言葉に、メアリは更に目をぱちくりとさせる。今着ている服だって、十分に体に合って快適だ。オーダーメイドで服や靴まで作ってもらえるなんて信じられない。教授の気遣いには戸惑うばかりだ。
「あの、どうして教授は、そんなに私に良くしてくださるんですか? 教え子の娘というだけなのに……」
「教授の心尽くしと思ってくれれば良い。ジズ先生と教授はとても親交が深かったんだ。教授が君を引き取ったのも、他でもない、ジズ先生のご息女だからだ。教授は、君には絶対に不自由な思いはさせまいとお考えらしい」
 メアリの問いに、ウィリアムが淡々と答える。嘘も無ければ、迷いもない。どうしたって真実だ。
 教授と父は、そんなにも親しかったのだろうか。そんなにも親しいのなら、もしかしたら、自分は教授と会ったことがあるのかも知れない。しかし、記憶を探ろうにも、メアリには、五歳以前の記憶が殆ど無かった。あの列車事故の衝撃で一気に吹き飛んでしまった、という方が正しいだろうか。幼い頃の記憶なんて、往々にして頼りないし、明瞭(はっきり)とは覚えていないのが当たり前なのだろうけれど、しかし、メアリには、自分が何処か空っぽになってしまっているような、そんな思いが強くある。
 ――私は、何か大事なことを忘れているのかも知れない。
 ふっと気泡のように、メアリの心にそんな想いがわき上がる。突然黙ってしまったメアリに、ウィリアムは何も言わなかった。そのまま静かに歩き始める。
 その後を付いていきながら、メアリはその『大事なこと』が何なのかをずっと考え続けていた。


 階段を降り、玄関ホールを横切ると、立派な樫の扉があった。ウィリアムが恐ろしいほど正確な間隔でノックをすると、執事らしい老人が、中から扉を開いてくれる。
「おはようございます、お嬢様」
「はい、あの……、おはようございます」
 礼儀正しく述べられた挨拶に、メアリは少し慌ててしまう。こんな立派な大人にお嬢様と呼ばれることなど、今までの人生で一度もなかったからだ。
 教授の家は大きいし、数名の使用人もいるらしい。馬車を所有出来るということは、それだけで最低でも七百五十磅(ポンド)以上の年収があることを意味している。中流階級の年収はおおよそ三百磅であるから、馬車を持てるのは、上流階級か一部の上層中流階級(アッパー・ミドル)ではないと不可能だ。馬車もそうだが、家を見ても、教授は相当裕福らしい。
 そんな家に引き取られたら、確かに貧民街育ちの孤児でも一晩で『お嬢様』になってしまう。なんだか後ろめたいような、恥ずかしいような、そんな気持ちになるのは、メアリが自分は淑女ではないと、はっきり知っているからだ。
 居間の中央には、綺麗なクロスの敷かれたテーブルが置いてある。そこには既に教授が着席しており、新聞を読んでいた。どうやら高級紙であるタイムズ紙のようだ。メアリに気付くと、教授は読んでいた新聞をテーブルの上に置き、静かに言った。
「おはよう、ジズ嬢。よく眠れたかね?」
「おはようございます。おかげでぐっすり休めました」
 丁寧にメアリが挨拶をすると、教授が僅かに目を細めて頷いた。闇色の声のまま、それでも優しい風に言う。
「とりあえず着席したまえ。堅苦しい挨拶は不要だ。朝食にしよう」
 教授の言葉に従ってテーブルに着くメアリへ、ウィリアムが椅子を引いてくれた。淑女のような扱いをされたのは初めてなので、メアリは少し緊張してしまう。
 完璧な深さと距離で座れるように引かれた椅子に腰を下ろすと、テーブルに置かれた新聞に赤いインクで丸が描かれているのが見えた。メアリは反射的にその記事を読んでしまう。
 記事には、ソーホーのセイント・アンズで殺人事件が起こったと記されている。軽く流し読みをした限りでは、中流階級の多く住む比較的治安の良いセイント・アンズにて、猟奇的な殺人事件が起こったこと、遺体からは内臓が抜かれていたため、怪しい儀式に使われたのか、或いは医学的知識ある者の犯行に違いない事などが書かれていた。一方で、切り裂きジャックの帰還と称する文もある。余程死体が陰惨な有様だったに違いない。
 凄惨な内容に思わず眉を顰めたメアリに気がついて、ウィリアムが新聞を片付ける。教授が相変わらずの無感情な声で言った。
「最近は物騒な事件が続いていてな。セイント・アンズのように治安の良い地域でも、そういった犯罪が起きている。フィッツロヴィアの治安のよさは折り紙付きだが、しかし、犯人が捕まるまでは、決して一人で出かけてはならん。必ず誰かと一緒に行動したまえ」
 無感情な声ではあるが、それでもメアリのことを案じてくれているのだろう。メアリが素直に頷くと、教授も一つ頷いた。
 暫くして、メイドが朝のお茶を運んでくる。少し濃いめなのは、朝用の為だろう。添えられたミルクもたっぷりだ。
 メイドは相も変わらず、足音を立てることなく、静かに無言で仕事を行う。年齢は若いようなのに、不思議なほどに落ち着いていて、作業もまた完璧だった。台所からも私語を話す声も聞こえないし、倫敦の洗練された家の使用人というのは、こういうものであるのかと感心する。
 メアリが感心している間にも朝食の準備は進んでいく。
 各々の前に置かれたトースト立てには、ママレードとバターの壺と一緒に、紙のように薄く、かつ半分に切られた食パンが四切れ乗っている。完璧な薄さ、という奴だ。
 メインの皿にはカリカリに焼かれたベーコンと少しの蒸し野菜、そしてふわふわのスクランブル・エッグが乗っていて、出来たてのように湯気を立てていた。絵に描いたようなイングリッシュ・ブレックファーストというやつである。
 この家では食前の神への祈りはないらしい。教授もウィリアムも、静かに朝食を口に運んでいる。
 メアリもそれに習い、トーストを手に取った。
 バターを塗ったトーストに、ママレードをたっぷりと山のように盛る。
 カラントケーキやポリッジではない朝食なんて、一体どれくらいぶりだろう。英国では、朝食のパンは主食ではない。強いて言うなら、ジャムを載せて食べる台だった。だから、紙のように薄いのだし、且つ、口の幅と同じサイズに切ってある。
 一口食べて、驚いた。バターはしっかりバターだし、ママレードも酸味と甘みのバランスが上品だ。安物のマーガリンさえ殆ど口には出来なかったメアリは、本物のバターの味に感動さえしてしまう。
 英国の食事は概ね、味が濃いか、全くないか、の二つに一つだ。中間は、ほぼない。添えられた野菜も、蒸しすぎて食感(テクスチャー)が全くないのが普通なのに、この家では全く異なる。
 普通のベーコンはまず鹹(から)すぎるし、スクランブル・エッグには卵の味以外は一切しない筈なのに、ここでは完璧な味付けだった。鹹くないベーコン、味付けのされたスクランブル・エッグというものがこんなに美味しいとは知らなかったし、更に、ママレードとバターのパンとの相性も抜群だ。
 教授やウィリアムは特に表情も変えずに食べているが、こんなに美味しい食事を取っても無表情でいられるというのは凄いと思う。メアリなど、一口食べるごとになんだか不思議な笑いが浮かんで仕方が無かった。
 教授が口を開いたのは、食事の終盤になってからだ。
 食後のお茶を飲みながら、静かに言う。
「しかし、昨日は災難だったな、ジズ嬢。君の服や靴は血や泥で汚れていたので一旦処分させて貰った。今日の午後に仕立屋と靴屋が来るように手配をしたから、申し訳ないが、しばらくは家の中で過ごして欲しい」
 先ほどウィリアムから聞いた内容とほぼ同じだ。あらかじめ聞いていたおかげで、さほど驚かずに済んだのだが、しかし、たまらず訊いてしまう。
「あの……、どうして教授はこんなに私に良くしてくださるんですか? 昨日のことも何も訊かれませんし、その……怪しいとは思わないんですか?」
 夜の夜中に五人の男に命を狙われた娘など、普通は厄介ごとに巻きこまれるのを怖れて関わり合いにさえならないだろう。降りかかる火の粉を避けるため、一時的に助けてくれはしても、普通はその場限りで縁を切る。
 しかし、教授は事も無げにメアリに告げた。
「君については、ギルバート・ジズ氏の娘であるという一点だけが真実ならば、それでもう十分だ。君が何に巻きこまれていようが、もう終わったことだしな。あの五人はもう『戻らん』し、後は警察の仕事だ」
 戻らない、と口にしたときだけ、教授はちらっとウィリアムを見たようだ。しかし、当のウィリアムは茫とした目のまま、表情一つ変えることはない。
「終わったって……」
 これから警察に話を聞かれることもあるだろうし、そうなれば、教授やウィリアムにも迷惑がかかるだろう。しかし、二人は素知らぬ顔だ。
「まぁ、確かにしばらくはイーストエンドには近寄らない方が良いだろうな。君が住んでいた家についてはこちらで巧く処分しよう。何か必要なものがあれば取りに行かせる。誰が君を狙っていたのかは知らんが、イーストエンドの占い師がまさかフィッツロヴィアの数学教授宅に身を寄せているとはおもわんだろう。気になるなら、暫くは旅行でもして倫敦を離れてもいい。瑞西(スイス)以外の国なら、どこでもお勧めだ。この時期なら、北欧へ極光でも見に行くかね? 濠太剌利(オーストラリア)で暖かいクリスマスを過ごすのもいいな」
 教授は次々に異国の名前を告げていく。英国から出たことのないメアリには想像も出来ない国もある。あっけにとられるメアリに、教授は更に話を続ける。
「私の知己は世界各国にいる。だから心配する必要は何もない。そうだな、いっそ今年のクリスマスは海外で迎える事にしようか。まずは君の旅券の手配をしなくてはならないな……」
 なんだか、教授の中では、既に年末の海外旅行が決定事項になってしまっているようだ。メアリはあわてて首を振る。
「あの、そんな贅沢、大丈夫ですから……。本当に、どうしてこんなに教授は私にこんなに親切なんですか? 私が教え子の娘だから、というのは聞いていますが、でも、それにしては随分と厚遇ではないでしょうか……」
 困惑するメアリの問いにに教授はしばし考えた後、徐に口を開く。
「それはやはり、君がギルバート・ジズの娘であるからだ、としか言い様がないな。後は一つ、君に対する負い目だろうか」
「負い目?」
 教授が自分に何の負い目を感じることがあるのだろうか。メアリは思わず首を傾げる。教授が静かに口を開いた。
「私は、君と君の父上の埋葬の時、その場に居たのだ。参列者と共に墓穴に土を掬い入れ、墓掘り人夫が完全に埋め立てるのに立ち会った。君がまだ、生きていると言うことにも気付かずにな……」
 親族以外にも、恩師や同僚が埋葬に立ち会うのはよくあることだ。教授もそうして、父の埋葬に立ち会ってくれたのだろう。彼もまた、父や自分の棺桶の中に薔薇を入れ、最後の別れをしてくれたひとりだったのか、とメアリはすこし嬉しくなった。しかし、一方で、その事が教授の悔いになっているらしい。
「私は君達が完全に亡くなっていると信じ、手を触れもしなかった。まったく、もし、君の棺がフランツ・ヴェスターの『安全棺』でなかったら、と思うとぞっとする。ギルバートからの手紙を受け取って、警察から話を聞いたときに思ったことは、私は危うく、君も殺す所だったという事だった」
 教授の声が深く沈んだ。闇色の数字もほんの僅かに低くなる。悔恨の時、人の声は低くなるから、きっとこの変化もそうなのだろう。
 しかし、自分が埋葬されたのは、教授の責任では決してない。責任があるとすれば、事故を起こした鉄道会社であるし、更に言えば死亡診断を下した医者の筈だ。教授が気に病むことでは無い。だから、メアリは慌てて否定する。
「でも、私は今、こうして生きています。それに、教授が気付かなかったのは無理もないです。お医者様だって気付かなかったわけですし……」
 メアリの言葉に、教授は静かに首を振る。何故だか、ぞっとするような絶望感が何処かにあった。
「生きていてくれたのは本当に幸いだった。だが、そのせいで君は孤児となって、貧民街で惨めな暮らしをし、その結果、昨晩のように殺されかけた。私があの時気付いてさえいれば、少なくともこんな事にはならなかっただろう」
「教授……」
 心の底から悔いている教授に、メアリは何も言うことが出来なかった。確かに普通の人間にとって、自分が誰かを殺しかけたと言うことはショックなことに違いない。しかし、教え子の娘とは言え、赤の他人の為にそうまで悔いるだろうか、という疑問も残る。だが、教授の言葉には何一つ嘘がなかった。であれば、きっと彼は本当に親切な人で、だからこそ、仮死状態のメアリの埋葬に気付かなかったことを後悔しているのであろう。
「ギルバートの娘である君を引き取ったのは、そういうわけだ。償いにもならないが、失われた十二年間のために、せめて君には何不自由ない生活をして欲しい。勿論、これは私のただの独善だということは十分に承知している。その上で、君には出来るだけのことをしてやりたいのだ」
 こんな事を言われてしまっては、納得するほか何もない。メアリは静かに頷いた。
「わかりました……。それで、少しでも教授の心の痛みが去るのであれば、喜んで御世話になります。私こそ、助けていただき、本当にありがとうございました。これから、どうぞよろしくお願いします」
 深々と、心を込めてお辞儀をすると、教授が微かに笑ったようだ。
「そう言ってくれると助かるよ、ジズ嬢」
 声にある悔恨の色が和らぐのを見て、メアリは心の中で安堵した。自分のものではない罪で、人が苦しむのはおかしいと思うからだ。ただ、そんな烏滸(おこ)がましい事を言うことは出来ないので黙っている。
 ふと、話題を変えるように、教授が言った。
「そういえば、ジズ嬢、君は何か好きなものはあるかね? この近くのオックスフォード・ストリートには女性が好みそうな店がたくさんある。靴と服が出来上がったら、是非足を運んでみるといい」
 好きなものを聞かれたメアリは、真っ先に本を思い浮かべる。
 メアリは読書が好きだ。物語は勿論、旅行記や、化学や物理の専門書までとにかく読む。居ながらにして別世界に連れて行ってくれる本は、孤児であったメアリの心を、だいぶん晴らしてくれた。
 しかし、一方で、本というのはとても高価だ。三巻セットの本(スリー・デッカーズ)を新品で買った場合、一冊が半ギニーもする。メアリの一週間の稼ぎより高いのだ。流石に大英博物館の中の図書館は無料で読めるが、貸し出しはしていない。イーストエンドからブルームズベリーは遠いので、毎日通っていたら仕事が出来ず、生活が出来ない。そんなわけで、メアリは今まで、思うさま読書をすることが出来なかった。だから、どうしても行きたい場所があったのだ。
「ありがとうございます。私は本が好きなんです。ですから、ミューディーズの本店には是非一度、行ってみたいと思っているんです。確か、この辺りの通りでしたよね?」
 弾んだ声で告げられたその言葉に、教授が感心したように言う。
「読書が趣味とは、血は争えんな。君の父君も読書家だった。ミューディーズの本店があるのは、オックスフォード・ストリートではなく、その先のニュー・オックスフォード・ストリートだったかな」
 そこで一旦言葉を切ると、教授は、まるで講義するような顔で続けた。
「ミューディーズの会員になるのなら、通常会員よりも、ブック・ソサイエティ部門の会員になるほうがいいだろう。配達サービスの範囲内だし、とても便利だ」
 ミューディーズというのは、倫敦を中心に展開する貸本屋の名前である。一ギニーの年会費さえ払えば、一度に一冊、年間に何回でも本を借り出すことが出来た。ちなみにブック・ソサイエティ部門の年会費は倍の二ギニーであるが、週三冊まで本が借りられるようになる上に、倫敦の半径二十哩(マイル)以内に住む会員ならば、リストを送付するだけで、三時間程度で専用馬車による書籍の配達サービスが受けられる仕組みになっている。
 教授の話に、メアリがほんのりと頬を紅潮させて訊く。
「はい、そうします。ニュー・オックスフォード・ストリートは教授の家と近いんでしょうか?」
「近いな。徒歩でも十分行ける距離だ。ミューディーズに限らず、本のことならばウィリアムが詳しい。あとで案内させるとしよう」
 そう言うと、教授は傍らで沈黙したっきりのウィリアムを顧みた。ウィリアムは無言だったが、期待に満ちたメアリの視線に気がつくと、ほんの僅かに頷いたようだ。メアリはにこにこしながら「よろしくお願いします」と頭を下げる。それを見たウィリアムが、一瞬何か表情を動かしたようだが、あまりに微かで、それが何かを表すものかはわからなかった。
 しかし、不快な感情を表したわけではないらしい。その証拠に、ウィリアムは少し考えるようにして言った。
「隣のブルームズベリーのチャリングクロス・ロードは古書店街だ。掘り出し物も多いから、今度、時間が出来たら案内しよう」
「はい、是非ともよろしくお願いします」
 メアリが声を弾ませて返事をすると、ウィリアムがまた、ほんの少し頷いた。二人の様子を眺めていた教授が、思い出したように言う。
「この家にも、一応は書庫がある。大半は数学や物理学の専門書だが、文学も少しばかりは置いてある。よかったら活用したまえ」
「ありがとうございます!」
 書庫の使用許可を貰ったメアリは、嬉しくてつい弾んだ声を上げてしまう。教授はその様子にほんの僅かに目を細めた。
 三人でそんな会話をしていると、執事が慇懃な様子で教授の側にやってくる。一礼し、几帳面そうな声で言う。
「旦那様、馬車の支度が調いました。そろそろお出かけの時間です」
 その言葉に、教授が壁掛け時計を見た。時計の針は、十時二十五分を指している。
「おや、もうこんな時間か。楽しい時間はあっという間だ。ジズ嬢。私は一旦席を外させてもらうよ。ウィリアム、彼女を書庫まで案内してやってくれ」
 教授の言葉に、ウィリアムが静かに頷く。
「わかりました」
 それを確認し、教授と執事は玄関ホールを抜けて、家の奥へ行ってしまう。後に残されたメアリに、ウィリアムがまったく変わることのない声で言った。
「では、書庫へ案内しよう。書庫は北側の部屋になる」
 その言葉に頷くと、メアリはウィリアムの後に付き共に居間を後にした。玄関ホールを抜けて、北側に進む。廊下には時折絵画やタペストリーが貼ってあり、なんだか屋敷と言うより修道院(アビー)のような趣がある。
「この屋敷は広いんですね……。迷子になってしまいそうです」
 自分が住んでいた一間しかない下宿とはまったく異なる作りに、メアリが戸惑うように呟いた。ウィリアムがふと立ち止まり、メアリを見ると、表情を変えずに言う。
「万が一迷子になったら、僕の名前を呼んでくれ。必ず君を見つけるから」
「はい、ありがとうございます。何かあったら、必ずウィリアムさんを呼びますね」
 丁寧にお礼を言うと、ほんの少しだけウィリアムが目を細める。うっかりすると見逃してしまうかもしれないくらいの、本当にささやかな変化だ。
 実際、瞬きする間にウィリアムの表情が、元通りの茫とした目にすぐに変わる。
 彼の後ろに付いていきながら、メアリはどこかで教授の言葉が引っかかっていた。教授の言葉に嘘は無い。でも、たった一言、何か違和感のある事を言ったのだ。しかし、それが何かが思い出せない。
 考え事をしながら歩くせいだろうか。書庫へ向かう回廊は、なんだか別の場所へ繋がっている気がした。

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