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2022/09/23 今読んでいる本

1、中井久夫『こんなとき私はどうしてきたか』

『徴候・記憶・外傷』が今手元になく、代わりに読み始めた。僕は自分を何かしらの病であると自称することはない。自称してもいいのだが、何でもそうだが、そのとき、私たちは息苦しさを覚える。ぼくは何かを言ったり書くとき、体が抵抗しない言葉を使う以上に、え、この言葉なのか、という音律を持つ単語を、体がすっと受け入れているから使うということがある。私たちは渇いている。息苦しい本を読むことができなくなった。渇きを吸うようにして水は流れる方向を決める。この本は語りであり、そっと寄り添い、私たちのもっとも暗い場所を支え、光の方向をしめしてくれる。過去を決算しているような、全ての無と思われたものをこの場所まで連れてきてそれらが支えとなるような、名づけようのない温かみ、それが中井久夫のやさしさである。泣いてしまった。この本を今読めることに感謝をしています。

2、郡司ペギオ幸夫『やってくる』

私がアルトーの『ロデーズからの手紙』と『ヨハネ福音書』を往復して書き写しているように、中井久夫と親和性のある本であるといえる。なぜなら、彼はあきらかになにかしらの病であると言われてもおかしくないことを書いているが、それを病であると固定化することなく、(一般的に病的な)体験→その哲学的分析、を繰り返しながら、自らを絶えず解いているからだ。しかしこれは、哲学書なのか、それとも体験記なのか、自ら描いた絵も載っているからそういった要素もあるし、小説的であると言えなくもない箇所もあり、異物的な本であると言える。私はこの本にひとつの理想を見た。この本に無理のない統合を見る。ばらばらのままのものがひとつの場所(=本)で、気ままに遊んでいるような、ゆるやかさがある。でも、すげえ頭がいい。自然で、肯定し、思わず吹き出した箇所が、図とともになされる説明で、驚かされる。以上。

3、アントナン・アルトー『ロデーズからの手紙』vs『ヨハネ福音書』

アルトーから学ぶものは大きい。大事なのは環境を超えて書くことであり、それが環境となり、人は必ず自らの領域に縛られている、そして読むことはあまり意味をなさず、書くことにのみ狂熱がはかられ、解釈も解放も、ついてくるならついてくればいい。私たちはこの表紙を見て、ああ、インクとペンだけではなく、血と火によっても書くということが可能なのだ、と思う。もう私たちは本を買うということが祈りの儀式となっている、たくさん本を読んでいる人たち、あなたたち・とても・危ない。時間は攻略され、知性は機械化し、ますます私たちは大切にしている肉体を、誰かに手渡す必要が出てくる。神について話すとき、私は信仰者ではありませんが、と前置きをしなければ、日本人である私たちは、何かを疑う目を持つことになる。信仰を呪う。それは人であるということを呪うことにならないか。アルトーが信仰していても、神と直接対決をしているように感じられるのはなぜだろう。言葉が神である、と二千年前に書かれたその本によって私たちはできているとするのなら(いや、そうなのだ)、私たちの書くことは光によって守られ、失われていく暗闇もまた、時間を取り戻すことになる。私は書き写すことをやめ、朗読することを決める。不安な日々を送ることは、いかなる充実をも凌駕する。なぜならそれは、と書くことができる私たちに、あらゆる言葉、ロゴス、神がいるのだから。

4、カフカ『フェリーツェへの手紙』

手紙を書くにあたって、参考にするものです。手紙こそが、私たちに必要な解放です。日記を書くことと対峙する、人の根幹を支える手作業です。手紙は、送ったら手元に残らない。なにを書いたのか、それを知るのは、受け取った者であり、それを読むのも捨てるのも、河原で焼くのも、あなたたちの自由だ。一人称も二人称も、病的な人間が生んだものである。たとえばここで、「あなた私」という人称を作ってみるとしよう。あなた私は、考える。自分というものがどこかで区切られ、と同時に区切られないものとなる気配を。あなた私は、毎日断片を書くことが、無限分岐・無限延長からの解放となり、それが手紙を書くことにもつながると知る。それはもちろん、あなた私がいるからこそ可能なことであり、人材ははかりしれない気配をもつ。中心点はどこにあるのか。世界を巻き込んで壊れたから、世界を巻き込んで生まれ直す。それが不可能な、病者扱いをされることになれてしまったことで自らを病者であると固定してしまったかわいそうなぼくたちの仲間。彼らに一つの解放源を与えなければならない。「言葉は繋げるためにあると言うが、私には断ち切るためにあるとしか思えない」私たちが一つの解放源である。それがこの手記であり、時代を錯誤する、すなわち時制をともなわない策略であり、それが批評のなせる地平であり、「決して大地の地盤になることはできないが」「それを指し示すことができなければ、それはそこにない」「それこそが批評的思考で、小説的思考に対峙するものだ」「時代は錯乱を求めている」「しかしそれでは、病者の絵の息苦しい閉じたパズル的一致として終わる」「ああ、おれたちは過ちを一つの道とするためにここにいる」「カフカは紙の上を走るために、毎日窓を開けた」「本は、読めたと思った箇所だけが読めたのではなく、手にした瞬間、全てを読んでいる」「さあ、そろそろ終わろうか」

5、私が書くものは、天啓である

 本を読むことができる者が少ないのは、私たちが世界の部品となっているからだ。それが社会に生きるということで、ネットで生きることは、そこから逃避することである。その良し悪しをここで問うわけではない。何度でも死ねるし、男は女に、女は男に、あるいはそのどちらでもない性になることもできるし、名前を偽ることもあっという間にできるし、あらゆる自由がネットにはある、と思われている。石川九楊が言っていた、自らの限界こそが個性であるという言葉は、今の時代に、一つの牽制球となる。しかしそれはそれほどの拘束力を持たない。私たちは逃げることが主であるからだ。時代は錯誤する。言葉は自由連想的であるが、それは私たちには危険であると中井久夫が書いている。「一つのことをするといい」それは、一つのことを書きなさい、ということだ。それが断片であり、私たちの生である。批評は、断片とともに、どう生きることができるだろう? 今、この町では雨が降っている。それをあなたに伝えよう。「今、この町では雨が降っています。」手紙は朽ちる。日に焼けないノート、というものが、近所の本屋に昔売られていたが、そしてそれをなぜか記憶し、5度か6度思い出しているこれまでと今、ノンアルコールビールが、とても危険であることを、神から伝えられる。

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