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雨が来る。私たちは歩く。

 雨が来る。その予感を孕んだ秋風が吹いている。もうずいぶん歩いた。広い公園を一周して、美術館に入ってみる。まだ歩く。歩く。歩く。私もあなたも、まだ歩いていく。歩く。見る。考える。今この場所を。しかしここは通過点に過ぎない。過去があって、未来がある。私たちの前から、後ろから、やってくる者たちと共に、歩く。
 ピカソの絵がある。彼の辿った足跡を、ほんの少し感じて歩く。彼の描いた世界が広がっている。曲線、直線、また曲線、あるいは両方。赤、青、あるいは両方。比較的写実的なもの。あえて崩したもの。描きたいものははっきり描かれている。顔が多い。顔がはっきりしていると、手は歪であったり、大きかったり、いい加減に描かれているようにすら見える。しかし手が描けないのではない。精密なこだわり抜かれた手足の姿もある。それらは彼のうちから湧き出てくるもので、しかし同時に外的要因も表れてくる。戦争があった。そう、今この瞬間も、戦争は起こっている。美術館のある公園のそこかしこにも、かつての戦争の足跡があり、ピカソの絵の背景にもあった。対象的に、美術館の中はあまりにも平和である。
 一歩外に出れば、都会の喧騒に飲まれてしまいそうになるのに、ここにはあらゆる人々が、あまりに平等に絵の下に集っている。老若男女、ようやく歩きはじめた子どもも、健康な若者も、車椅子の人も、一見普通に歩いているけれど、ヘルプマークや障害者手帳を持った人も。芸術というものは、いつでも広くあらゆる人を受け入れてきた。無論世間がどう見るかというものにはシビアな現実があったりはするが。一旦ここで脱線しよう。
 先日シューベルトの伝記を読んだ。彼の曲、彼の生前ようやく出版されたというソナタが孕んでいるものを知ろうと思った。彼の友人たちは一人では生きていけない彼を、その人柄と才能を愛するがゆえに、献身的に支えた。その身が朽ちたあとでさえ、ベートーヴェンの隣に墓を作ってやった。さらにはシューマン、ブラームスといった名だたる音楽家たちが、彼の音楽を追い求め、掘り起こし、愛した。今も彼は愛されている。クラシックを聴かない人でも、彼の音楽を知っているだろう。口ずさめるだろう。
 さて、線路に車輪を押し上げよう。また美術館に戻ろう。ピカソとその時代の画家たちに特化した展示を離れて、常設展へ向かう。まずキリストが何人も現れる。金色のイコン、ゲッセマネの祈りや磔刑といった典型的な宗教画。キリストやマリア、聖人たち、絵の構図までも、ある一定の決まりごとの元で描かれる。その全てが頭に入ってはいないが、必ず磔刑の足元には頭蓋骨が転がっているし、マリアとキリストの衣は鮮やかな赤と青である。しかし、やがて時代は移る。あらゆる制約はなくなっていく。宗教画ではなく、個人の肖像画や、多くの人が足を止める印象派(特にモネの睡蓮)が現れる。やがてピカソのように、一見わけのわからないような絵も出てくる。しかし人間の、あるいはあらゆるものの表情を、立体でもなく動画でもなく、平面の絵の中に表したとき、それは確かにあのように見えてくるかもしれないとも思える。人間の目を欺くほど平面に立体的に描くこともできる。けれどもそれではやはり、ものの一面しか見ることはできない。動画にしても立体にしても、私たちがその瞬間瞬間に見るのは、一面に過ぎない。ピカソの絵のように、正面とともに側面を、あるいは背面まで見ることは、動画や立体を見ても絶対にできない。
 ところで私たちはなにを見ているのだろう。それらが私たちに語りかけてくるものは、それらから私たちが知ることは、予感を得られるものはなんだろうか。生きてゆく上で、それらを必要ないという人も多くいる。時にとある郷に入れば、絵画を延々見つめているだなんてことが恥ずかしいことのようにすら思えてくる。しかし、見つめていると、必ず見つけることができる。あらゆる制約を離れても、ピカソの絵は確たる彼の基本的な絵画技術(制約だらけの)の裏付けあってこそ成立している。だから彼は子どもや絵の練習をしている人間とは違い、時に顔を精密に描き、時に手の指を精密に描き、どんなに崩しても対象物のを見失わずにいられるし、見る人を魅了する色を選ぶことができる。さらには絵画を見ない人々も、古典的な芸術のエッセンスに触れずにいることはできない。それらはあらゆる方法で私たちに影響を及ぼし続けている。漫画にも、アニメにも、映画にも、テーマパークにも、音楽にも、どんなに真新しいものにも、あらゆるところに私たちはいつも古典的なものからずっと流れてきている、普遍的ななにかを見ている。
 もう少しだけ歩こう。疲れた足を引きずって。ああでも、ずいぶん歩いた。また夜が明けたなら、私たちはまだずっと歩いていなければならない。今ここは長い旅路の、ほんのひと時、ほらここに物語を絵に起こした版画たちがある。ゲーテの「ファウスト」、シェイクスピアの「ハムレット」。総じて酷い話も多いが、案外誰の人生にも、多かれ少なかれ似たような絶望と希望とが備え付けてある。相も変わらず天上で、神と悪魔が賭けをしているかのように。そしてファウストのように、過ちを繰り返し、誰かを傷つけながら、また追い求め、未来に希望を見て、その一生を終えるまでは、この肉体を持って歩いていなければならない。
 美術館を出ると、雨。駅は近い。せめて駅まで小さな折り畳み傘に入って行きましょう。あなたを見送れば、私たちはまた別々の道を歩くでしょう。もう、お互いの人生において、お互いに与え合うものはほとんど終えてしまったような気がするけれど、まだ私たちはお互いを忘れないでしょうから、また会える日まで。雨は強まる予報。ああ、疲れた。でもたまにはこんな日があってもいいのかもしれない。


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