東洋と西洋の心を巡る旅
「他人との境界線がないね」
子育て中の私を知る人は皆、大体知っている。
私の体が弱いこと。
旦那が出張に行くたびに、子供と一緒に発熱する。ストレスで発疹や発赤
がでる。幼稚園で子供がもらってくる流行りの病気をすぐもらう。
「ひとみさんって健康そうに見えてすごく虚弱体質だよね!免疫力アップして体に気をつけてね。」
虚弱体質と笑われ、心配されながら、なんとか3人の男子を育ててきた。
大好きな本も読まず、物事も深く考えず、体に負担がかからないようになるべく感情の波が起こらないようにしてきた。
今日1日を精一杯生きる。
明日も朝起きてお弁当を作る。
本当にこれが毎日の目標だった。
そんな私が、子供も大きくなっていざ自分のことをやろうとし始めていわれ始めた言葉が
「他人との境界線がないね。疲れるでしょ。」
え、そういうこと?
子供の悲しみや怒りをまともに正面から受け止め、旦那の顔色を伺い、義実家に愛想を振り撒き、友達やコミュニティで良い人であり続けようとする。
これって、「良い子」を演じてたってことか。そりゃ疲れてブツブツもできるな。
アクセル踏みながらブレーキを踏む
今流行りの心理学用語でHSP(Highly sensitive person)という言葉があるのだけれど、間違いなく私はそれ。
母親にも「とにかく育てにくい子で、癇癪もすごかった。感受性が豊か過ぎて神経質、雨が降っても光が当たっても泣いていた。夜泣きもすごかった」と、申し訳なさで一杯になるほどのエピソードはずっと聞かされてきた。そんな私の第一子は、まさしくHSPの超センシティブな夜泣き絵ベイビーだった。
「えー、ひとみさんはHSPじゃないでしょ、リーダーシップ発揮して、先生もやってるし外交的に見えるよ〜」という声が聞こえそうだけれど、あるのです。外交的HSPという言葉が。下のサイトから引用させてもらうと、外交的なHSPは、ブレーキとアクセルを同時に踏んでいるような状態らしいです。私だな。
「刺激を求める外交的な繊細さん(HSS型HSP)
外向型の繊細さんのほとんどが、このタイプ。好奇心旺盛、活動的で周りの人に気を配ることができる人です。マルチタスクも得意でリーダーシップも発揮できますが、後から疲れてぐったりしてしまうことも。
周りからはアクティブに見られますが、その裏で疲れたり傷ついたりしている自分の二面性に悩むことが多くなります。
私の場合は自ら刺激を求めるというよりは、そういう役割を任されることが多いし、期待に応えようと頑張ろうとしていることが多いのだけど。
とにかく、心と体には負担大。
気づかなかったけど、心への負担はものすごく大きかった模様。
Who am I?
体調を崩して、そこから私の「自分」を取り戻す旅が始まる。
まずは、フィジカルに回復するために、ヨガの呼吸法を習い始めた。感動するほどの頭のスッキリ感で、そこからどんどんヨガにハマっていく。
元々運動は得意なので、アーサナと呼ばれるエクササイズは楽しいし、ちょうどヨガブームでクラスも服も巷に溢れている。
そこである流派のヨガの先生に言われる。
「Who are you?」
え?私は、子供が3人いる母親で、夫はこんな仕事をしていて。とここまで伝えた時点で先生は、「それはあなたの属性」と言う。
ガーン。
ああ、私は自分を属性以外で語る術がないのか。
コーヒーが好きで、本が好きで、とかは私そのもの?
いやこれは趣味や嗜好か。
うーん。
と悩んでいると、それを考えるのがヨガです、と言われてすっかり哲学を学ぶ気になってしまった。
ヨガの瞑想では、あらゆる物事をそのまま受け取り、手放していくことを訓練していく。湧いてくる感情も客観的に見つめ、その感情は自分そのものではなく、一つの感覚器官が起こした反応だということを理解していく。
本来の自分は奥の方にあって、感覚そのものは自分ではない、外界で起こることに振り回されない。
エゴを手放していく…
何千回と聞いた、ヨガのフレーズだ。
そうした考えから、ヨガとは
「自分と他人の境界線を取る」
ことであるとも言える。
ヨガのチャクラの概念も、相手との波長を合わせる力の高まりを表していると乳井真介先生は教えてくれている。
先生の考え方では、
「ヨガの最終的なゴールは、『自分さえ良ければすべてよし』というエゴを消滅させること」ーYogini p50 2019年9月号
とある。
ヨガの瞑想を深めていくと、世界は一つであるという感覚を深いところで理解していく。
これって、境界線を取ることだよね。
私には得意。
でも一転、西洋のエネルギーワークでは突然、「境界線がないこと」が悪いことになっていく。
西洋のエネルギーワークでは、他人を自分のオーラの中は入らせないように境界線(バウンダリー)をしっかり引いて、自分のエネルギーを守っていくのだ。
自分と他人、そして自分の子供ですらしっかりと他人であるということを自覚していく。
バウンダリーがしっかりしていないと、相手のいうことをそのまま自分の意見のように受け入れたり、自分の意見をはっきりと主張(これはアメリカでは悪!)出来なくなってしまう。
日本人でありながら西洋の社会で生きるために、私はこの境界線(バウンダリー)問題に悩まされている。
「私」はないけど「私」がない
仏教の諸法無我や、ヨガの考え方では執着やエゴを手放していくことを教えられる。その「私」はない、ということをもしかしたら、私はかなり浅く解釈していたのかもしれない。
心に起こる感情の波を、コントロールしているように見せかけて実はただ見ないようにしていただけなのかもしれない。
心に蓋をしていた…?
チッタブルッティニローダハ。
ニローダ出来ていなかった。
そんな話を僧侶である友人を話していた時に、ふと言われた一言が気になった。
「ひとみさんは何者かになろうとしてたんだね」
ん?私、何者かになろうとしていたの?
「私」はいないと教えてもらってきたけど?
「私」を消し去ることに集中して、他人が望むことを第一に考えてやってきた。自分をアピールすることも控えて、真実の探究のみを求めてきた。
そうしたら、「自我」もないけど、「本来の自分」も透明になって見えなくなっていたの?
自分が何をどう考えているのかも分からなくなって、自分じゃない何者かになろうとしていたんだ。
はっとさせられた。
境界線って、どこにどう引いたら本来の自分が守れるのだろう。
分からなくなったら、一度、寝かせてみるか。
言語や伝え方は違っても、実は同じことを教えてくれているのかもしれない。
私の心を巡る旅はまだまだ続く。
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