見出し画像

村上春樹『神の子どもたちはみな踊る』書評 「死」を求めながら、全力でそれに抗うということ


「喪失」と「受容」

 この短編集には7つの作品が収録されている。各短編の登場人物はみな、過去に負ったある種の傷を背負いながら生きている。
 その傷は、1995年に発生した阪神大震災に端を発している。中には、同年に起こったオウム真理教による地下鉄サリン事件を想起させる作品もある。
 
 この短編集は、これらの傷ーその傷とはすなわち「喪失」ーを受け入れることをテーマとしている。いかにその「喪失」と向き合っていくのか、その可能性を巡る物語群なのである。 

作中で触れられる物語の核心

 2つ目の短編『アイロンのある風景』という作品で、ジャック・ロンドンの『たき火』という小説が紹介されている。以下は、物語の主人公がその小説について語った箇所の引用である。

でもその物語の中で、何よりも重要だったのは、基本期にはその男が死を求めているという事実だった。彼女にはそれがわかった。(中略)それにもかかわらず、彼は全力を尽くして闘わなくてはならない。生き残ることを目的として、圧倒的なるものを相手に闘わなくてはならないのだ。順子を深いところで揺さぶったのは、物語の中心にあるそのような根本的ともいえる矛盾性だった。

『アイロンのある風景』

 『たき火』という作品の主人公は、死を求めていた。しかし、同時に死に向かっていることに抗っていた。
 この箇所は、『たき火』という小説の核であることと同時に、この『神の子たちはみな踊る』という短編集の核心を、ハッキリと示した部分でもあるだろう。
 そう、この短編集の主人公たちも、死を求めながら、全力でそれと闘っているのだ。

飛躍するイメージ

 死を求めながら、それに抗うこと。それにはいかなる方法があるのか。
 そこでキーになるのが、ある種の「飛躍」である。

 6つ目の『かえるくん、東京を救う』という作品は、「かえるくん」が「みみずくん」と闘って、東京を地震から救うというストーリーだ。そしておそらく、ここに出てくる「かえるくん」とは、4つ目の短編の主人公が変わり果てた姿である。

 そこには何の合理性もなく、繋がりもない。登場人物の1人がかえるになるというのは、荒唐無稽な発想だ。
 このような「飛躍」に、村上春樹の思索の切実を感じることができる。

「傷」と「暴力」がいつも隣りにあること

 この短編集の主人公たちは、人生で受けてきた痛みを背負いながら生きている。そして、その隣には、その人生を脅かそうとする圧倒的な暴力がいつも存在していることが、物語中に示唆される。

 村上春樹という作家は、喪失や、それをもたらす暴力から逃れることはできないと考えているのだろう。暴力はただそこにあるものであり、それによって受けた傷も治るわけではない。

 それは何も特別なことでもない。誰の身にも起こり得る、至極当たり前のことだ。むしろ、人生とはそういうものなのだと思っている節すらある。

 問題は、その「喪失」をどう「受容」していくかだ。村上春樹が描くのは、その模索なのだ。
 その可能性を巡る旅は続いていくのである。
 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?