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『風の谷のナウシカ』 感想 宮崎駿は文明を憎んでいて、人類が滅んでもいいと思っている怒りが表れた映画

 宮崎駿監督、劇場版『風の谷のナウシカ』を観た。まぁ凄い映画だと思った。

 何が凄いって、宮崎駿の怒りの大きさが凄い。とにかく怒っている。私利私欲や権威欲のために地球の環境を破壊し、そこから教訓を得ず、一度ならずともその過ちを再び繰り返そうとしてる、人類に対する怒りが伝わってくる。

 もうラストの巨神兵を始めとする戦闘シーンでは、人類なんて滅んでしまってもいいというぐらい、人間は愚かな生き物だというその様が描かれている。

■前半と後半でまるで違う映画のよう

 それにしてもこの映画、不思議なのは前半と後半で雰囲気が全然違うことだ。絵コンテの切り方が違うというか、作品世界の描写の仕方がまるで違う作品であるかのようになっている。

 前半は、主にナウシカの存在の崇高さが描かれている。ナウシカの気高さ、その心の大きさ。その描写にはリビドーさえ感じる。

 後半は違う。ナウシカ単体の描写は影を潜め、様々な利害関係を持った人たちの政治劇のような構成の画面になっている。

■作りながら話を考える独特の制作スタイル

 前半と後半で画面構成の質が全く異なっているのだ。この違和感は、何か作っている途中で話を変えたというか、作りながら話を考えたから起こったことのように思えた。普通、アニメ映画はそういう作り方はしない。

 しかし、宮崎駿の制作体制は通常のものではないようだ。先日『プロフェッショナル 仕事の流儀』で宮崎駿の『風立ちぬ』制作時の回が再放送されていた。そこではやはり、宮崎駿は先に物語の結末までを考えず、実際の制作を進めながらストーリーを考えてる、その体制についてのエピソードがあった。

 この作り方は大変なやり方ではないか…終わりが決まっていないと言うことは、スケジュールが組めない。周囲のスタッフはさぞかし振り回されることだろう。凄いというか、いずれにしろ監督関係者双方の神経が相当に図太くなければできないのではないだろうか。

■文明が嫌いな宮崎駿はデジタル的なものも嫌い

 宮崎駿はなぜこのようなスタイルを取るのか。また、宮崎駿のジブリはその作画にデジタルを使わないことでも有名である。このアナログに対するこだわりと、制作体制の話はつながっていると思われる。

 宮崎駿は、要するにデジタルが嫌いなのだ。よって、デジタル的なものも含めて嫌いなのだ。どういうことか。

 デジタルとは論理的な世界である。結論はすべて要素に還元し、因果的に説明することができる。

 アニメの制作は通常この発想で作られる。通常アニメ映画は、先に脚本や絵コンテで先に何を作るかを決めておく。それから、動画や背景など各要素に分解して、制作を進めていく。

 しかし、宮崎駿のデジタル嫌いという思想が、この方法を忌避させる。制作スタイルにも、その思想が反映されているのである。

 だから、結末や全体像を決めて、そこに向かって論理的に進行を組み立てる方法を取らない。進めるその時々の模索の中で、要素を現在進行形で構成しながら、作品を創るのである。

 なぜ宮崎駿がデジタルが嫌いなのかというと、それが人間の作り出した「文明」だからだろう。ナウシカでも描かれているように、人間の「文明」とは、地球の環境を破壊した人間の驕りそのものなのだ。

 彼にとって、「デジタル」もそういった「人間の文明」の一つなのだろう。

 推論に過ぎない話ではあるが、宮崎駿の制作スタイルにはこのような背景があるのではないかと思った。


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