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私たちは言語の中に閉じ込められ、そして開かれる 『文学理論』と映画『ドライブ・マイ・カー』

日本語によって規定される思考

 私たちは普段、言語によって物事を認識し、その思考の枠組みは、言語によって規定されます。

 例えば日本語では「敬語」があることによって、相手と自分の立場のどちらが上か下かを表さなければいけないようになっています。
 また日本語は英語と違って、主語を明確に打ち出す必要がない言語だと言われています。その分主体が曖昧になりやすい傾向があると言えるでしょう。

 このように、私たちの思考はその言語が持つ特性によって、大きく左右されます。私たちは、その言語が持つ枠組の中において、その考えを巡らしているのです。

 それでは私たちの思考は、いつもその言語の枠組みの中に閉じ込められていて、その外に出ることはできないのでしょうか。

『言語の脱領土化』という概念

 文学理論の中で、「言語の脱領土化」という概念があります。「言語の脱領土化」とは、その言語を使いながらにして、その枠組みから外に出る試みを意味します。

 それは例えば、旧植民地の作家が、旧宗主国の言語を使って自らのアイデンティティを造り上げていく作品などで行われた営みです。

 被支配者たちが、その支配の手段でもあった「言語」の内にいながら、「支配−被支配」という構造の突破を試みるのです。

「言語」によって開かれる人格を描いた『ドライブ・マイ・カー』

 また、映画『ドライブ・マイ・カー』は、この問題に一つの可能性を提示した作品です。

 この作品は、死んだ妻を失った喪失に向き合うことができなかった主人公が、その喪失感と自分の弱さに向き合えるようになるまでの物語です。

 主人公の家福は、生前の妻に対しても、彼女の秘密や死んだ子どものことについて向き合えませんでした。そんな彼でしたが、他の言語(映画では韓国語や手話が登場。)と出会うことにより、その閉じて固かった人格が開かれます。つまり、「言語」によって「思考」が開かれるのです。

言語によって閉じる自己と開かれる自己

 社会に対して窮屈さを感じたり、自分の立場や考えが少数派でそれを表に出しづらかったりする場合、それは私たちの思考が「言語」によって閉じられているからなのかもしれません。

 しかし、文学では「言語の脱領土化」と概念化されたように、言語の枠組みを解きほぐす実践が行われてきました。また、映画『ドライブ・マイ・カー』は他の言語の出会いによって「自己」が開かれていく様が描かれました。

 言語とは、私たちをその枠組の中に「閉じ込める」存在であると同時に、時に私たちの「思考」を外へ連れ出してくれる可能性にも開かれているのです。


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