見出し画像

変わりゆく街の風景と「資本主義の精神」 ブックオフ論争を問い直す

■消えゆく街の個人経営店

 街からちょうどいい定食屋さんが消えてしまったような気がします。今日は夕飯を外で済まそうかな、と思ったときに、気軽に入れるお店。かつては個人経営のお店でそういうお店がたくさんあったのですが、今はそれが牛丼屋やチェーンのラーメン店に取って代わられてしまいました。

 定食屋だけではなく、かつては個人経営の喫茶店、古本屋などが街に1つや2つありました。それが今では喫茶店はドトール、古本屋はブック・オフになり、かつての個人店は一掃されてしまいました。

■文化資本としてのブック・オフ論争

 そのような状態を是とするか非とするか、この20年程の間、ブック・オフを象徴として人文・批評界隈で論争が交わされてきました。

 社会学者・三浦展が均質化/画一化する郊外の風景を「ファスト風土」と批判したのに対し、その下の世代の宇野常寛や速水健朗はその感性を「文化左翼」と批判しました。

 そして近年では、幼少期から「ブック・オフ」を所与の風景として育ったまたその下の世代(三宅香帆など)が、その原体験への肯定的な語りを見せ始めています。文化資本としてのブック・オフの恩恵を好意的に評価しています。

■消費者目線と投資家目線

 このブック・オフ論争を始めとした「郊外化」の論争は、主に「消費者」としての目線で、それが「便利」か「豊か」なのかという視点で語られていました。個人経営店がチェーン店に取って代わられるのは、文化資本として豊かなのか、貧しいのかという論点です。
 
 私はここで、その当時には語られることのなかった論点で、この問題を捉え返してみたいと思います。

 まずブック・オフやドトールを始めとしたチェーン店と、街の小さな古本屋や喫茶店との1番の違いは、何でしょうか。それは経営形態です。株式会社か個人経営の違いです。
 
 その店舗の生み出す利益が、投資家の利益に還元されるかどうかという違いです。株式会社の経営する店舗の利益は株式によって、株主への配当となります。一方、個人経営の利益はいわずもがな、株主など投資家への利益にはなりません。

■今本当に問うべきもの

 ドトールやブック・オフなどの巨大資本の元にあるお店しかない状態が何を意味するか。それは、我々がもはや何か物を買うときに、その払った代金が投資家の利益に還元されるような消費行動しか取ることができないということです。私達が意識するしないに関わらず、そういう現実が拡がりつつあるのです。

 我々が今本当に問うべきとは、それが本当に豊かなのかということではないでしょうか。

■日経平均株価と実体経済

 もし今の状況で我々の生活が本当に豊かになっているのであれば、何も問題はないのかもしれません。個人経営の店が潰れ、企業のチェーン店に取って代わられる。そのことによって日本が経済成長し、我々庶民の暮らしが良くなり、現在に満足したり明るい未来を感じられる社会になっているなら、それで問題ないでしょう。

 ところが、今は日経平均株価が過去最高値を記録したにも関わらず、我々庶民の生活は一向に良くなる気配がありません。給料も上がらず、物価高のなかで生活は苦しくなるばかりです。この30年間で日本は他の先進国に遅れを取り、一人あたりGDPで比較すると、もはや先進国とは言えない状況になっています。

 特に生活が豊かになるわけでもなく、私たちが行った消費が、ただ投資家の利益になっているという現実。それが是が非か。本当の論点はそこではないかと思います。

■マックス・ウェーバーの預言

 社会学者の祖マックス・ウェーバーは、経済合理性を追求する価値観を「資本主義の精神」と称します。また資本主義が世界を覆い尽くし、それが「鉄の檻」となって、人々はそのシステムに支配される未来を預言しました。人々の意志に関わらず、システムの一部とならざるを得ないという状態です。
 
 今の社会の、我々の暮らしのために経済があるわけではなく、まるで経済のために我々の暮らしがあるような状態は、まさにマックス・ウェーバーが残した預言に通ずるものがあるのではないでしょうか。

 私たちがすべきこととは、この「鉄の檻」に覆われつつある現実を直視し、そのことの是非を問うことでしょう。そしてその中で、どういう社会がいいのか、それを問い直すことではないでしょうか。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?