見出し画像

さまよえるエッセイ『INTO THE WILD』

たまに本を読んでいると、気になる言葉に出会うことがある。
「荒野をめざす」とか「荒野をさまよう」といった言葉。
詩や小説ではよく見かける表現だけど、実生活ではあまり使っているところを目にすることはない。

もし、どこかでこんな会話がなされていたらどうだろう。

「この前、久しぶりに荒野をさまよってさ」
「いいですね。混雑してました?」
「いや、わりとすいてたよ」

そりゃそうだろう。人で溢れかえった荒野なんて聞いたことがないし、混雑していたらもうそれは荒野とは呼べないのではないだろうか。
普段、こんなことを言っている人たちを見かけることがないのは、荒野にはやっぱり誰も人がいないからなのだ、きっと。
山登りやピクニックへならいくらでも行く人はいるだろう。けれど、実際に荒野を訪れたことがある人なんて、一体どれほどいるのだろうか。

少なくともわたしは荒野をめざして旅に出た記憶はないし、荒野をさまよい歩いた経験も当然ない。
と言い切ってはみたものの、本当のところは定かではない。荒野がどんなものなのか漠然としたイメージはあっても、それが具体的にどこの場所を指すのかわかっていないのだから。

地図を開いてみても、当然荒野の場所なんてどこにも載ってはいない。
旅先での道すがら、「その先、荒野ですよ」と、すれ違いざまに教えてくれる心優しい旅人にも出会ったことがない。

ならばどうやって荒野の場所を知ったらいいのだろう。

もし、駅前でタクシーに乗り込み、「荒野まで」と告げたらどうなるだろうか。

おそらくタクシーの運転手は、怪訝な顔で「え?」と聞き返すだろう。
カーナビに”こうや”と入力して、地名を探し始めるかもしれない。

「お客さん、”こうや”って和歌山の……」などと言い出してもそれを遮り、「とりあえず出して」と出発をうながしてみる。

ルームミラーで後部座席の様子をうかがいながら、困惑を隠しきれない運転手。
あてもなく延々と走り続けるタクシー。
見慣れぬ景色を映し始めた車窓に不安になるわたし。

もしかしたら、これが「荒野をさまよう」ということだろうか?

おそらく違うだろう。タクシー一本で行ける場所に荒野があっていいはずがない。荒野とは、距離的にも心理的にも人里から遠く離れた場所にあるべきものではないのか。

そもそも荒野とは何なのか?当たり前の疑問が頭をよぎる。
よくあるエッセイなら、広辞苑を引っ張り出してきて意味を解説し始める場面。でもここではそんな野暮なことはしない。
言葉の意味を知ったところで物事の本質がわかるわけではないし、知っている言葉を羅列しただけですべてわかったような気になってしまうのは危険なことだ。しかも、最近では辞書の編纂に出版社ごと特色を出そうと、言葉の解釈に違いを持たせ、辞書にもはっきりとした個性の違いがあるという。

どの辞書を選ぶかで世界の認識まで変わってしまうなんて、そんな恐ろしいことってあるだろうか。
それがたとえ誰かが何かの立場を主張するのに最も適さない、何一つ他意を持つとは思えない「荒野」という言葉であったとしても。

と、話が逸れてきたので元に戻したいところだが、そもそもこの話はどこへ向かっているのだろう。

ひとまず荒野について想像をめぐらせてみると、真っ先に思い浮かぶ荒野といえば、映画化もされたジョン・クラカワー氏のノンフィクション『荒野へ』

その物語の中で、主人公の青年はアラスカの荒野を目指して旅していた。

そうだった。タクシーなんかで荒野へ行けるはずがないじゃないか。やっぱり飛行機に乗り込まなければ。

「荒野をめざそう」と思ったら、まず初めにパスポートの準備。たまの海外旅行だと有効期限が切れていることもあるので、そのときは再度申請。5年か10年かを選べるけど、やっぱり10年の方がいいのかな。そんなに海外へ行く機会なんてないよと思っていても、5年なんてあっという間だし。それから戸籍謄本を取りに行って、証明写真も必要か。収入印紙と証紙も忘れずに買わなければいけないな。

どこをさまよっているのだろう……。これでは役所の窓口をうろうろしているにすぎない。それに、荒野をめざす前に準備するものがあまりにも多過ぎやしないだろうか。

そもそも日常から脱却したくてめざすのが荒野だったはず。人間関係をこじらせて悩んだり、仕事を辞めたり恋人と別れたりして、日常の何もかもが嫌になり投げ出したくなって向かう先が荒野だったはず。

出発の前日にバックパックに荷物を詰め込みながら、荒野へ何を着ていこうかと鏡の前でコーディネートを考えてみたり、荒野のことを考え始めたらワクワクして眠れなくなってしまった、なんてそんな夜を過ごしているようではいつまで経っても荒野への道は開かれない。

日常から離れるために必要なのは、旅する距離と時間だ。
電車でも飛行機でもいい、いつもとは違う時間の流れの中に身体を押し込み、忘れてしまいたい記憶や感情までもを一瞬で置き去りにしてくれるような流れる車窓の風景に身をゆだね、これまでのことやこれからのことに思いをめぐらせたり、イヤフォンから流れる曲のメロディや何気ない歌詞にふいに遠くの景色をにじませたり。
そんなことを繰り返しているうち、目の前に荒野は現れるのではないだろうか。

わたしは人にさまよい、街にさまよう。
わたしのことなど誰も知らない土地へとさまよう。
そして、やっとたどり着いた荒野をさまよいながら、この文章をどう締めようかとオチを求めてまたさまよう。

確か、脚本家ユニット木皿泉さんはエッセイで、「旅は明日のことを考えなくてもいいから気楽でいい」と言っていたはず。
翻して言えば、明日のことを考えるようになったら、もうそこで旅は終わりを告げるのだ。
あんなに忘れたかった上司の顔や、喧嘩をした彼女、友人の顔が浮かんできたり、明日何を食べようかと献立を考えて、冷蔵庫に何が残っていて何を買わなければいけないか、そんな想像を始めたときには荒野はもう姿を消している。

人混みの中ではいつもひとりになることばかり考えて、いざひとりになると人恋しくなってしまうのはなぜなんだろう。

そういえば、『荒野へ』の物語の中で、青年は飢えに苦しみ、もうろうとする意識の中、こう書き記していた。

Happiness only real when shared
幸福が現実になるのは
それを誰かと分かち合うときだ

ひとりになることでしか誰かと過ごす時間の大切さに気づけないのなら、わたしたちはこれからも出会いと別れを繰り返していくのだろう。
それが旅の目的だというのなら、わたしたちの旅に終わりが来ることなど決してないのだろう。
身体は日常を取り戻しても、心はいつもどこかをさまよう旅人のまま。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?