経営者としての堤清二――幻想殺しのための三章

経営者としての堤清二は、神話化されている。
西武セゾングループの「文化戦略」と「イメージ戦略」によりつくられた、その幻想を殺すのが本稿の目的である。
堤経営を三点から検証する。

一、 堤と言えばコンセプト重視の「文化戦略」「イメージ戦略」で知られているが、実態は「器つくって魂入れず」であったこと。お題目は立派だが実行力に欠け、オペレーションを軽視していたこと。
二、先進的であったと評されることが多いが、堤が史上はじめて手をつけ成功させた事業はほとんどないということ。
三、独創的であったという評に対する疑問。堤/西武セゾングループが唯一無二の事業を成し遂げたものはほとんどない。むしろ一九八〇年代までの日本によくみられた、利益率ではなく売上至上主義で、本業とのシナジーも見込めない事業に対して目的不在のまま多角化に邁進した典型的な経営者であった。さらに言えば、真に独創的な経営は他社には容易にはマネしがたい「しくみ」を築くはずだ。だが西武セゾングループ傘下の企業がなしたことの多くは、たとえ業界で初めてスタートしたことであっても、単に順番が早いだけで簡単に追随、模倣することができるものばかりだった。


つまり、コンセプトが先進的で独創的な店舗展開、事業展開をしたと讃えられることが多い堤だが、実態は
•コンセプト倒れでオペレーションはずぶずぶ
•それほど先進的ではなく、大概は先人がいるところに後出しじゃんけんしている
•他社がマネできるようなことばかりで独創的ではなく、他社がマネできないことは単に採算が取れないから手を出さないだけ
だった。
なお、本稿では八六年からセゾングループと呼称することになった西武流通部門に関して、それ以前の時代に関しても「西武セゾングループ」および「セゾン」と呼称する(堤義明による国土計画を中心とする西武不動産グループと区別するため)。また、「西友ストアー」時代のことも「西友」と表記する。

一、コンセプト倒れの経営
一-一、「リゾーム経営」の虚構――組織運営の問題点
九〇年代以降のセゾングループの崩壊とその後を追った由井常彦、田村茉莉子、伊藤修による労作『セゾンの挫折と再生』のあとがきには、こうある。


セゾングループを統括する堤代表は、経営者であるばかりでなく詩人・作家として学問・芸術に造詣が深く、したがってセゾングループも単なる営利事業集団ではなく、理念と文化を尊重する経営理念を持っていた。グループの組織原理として「経営共和制」ないし「リゾームの組織」を提唱して、個人のあいだでも組織のあいだでも「支配と従属」を排除する哲学に立脚していた。


セゾングループ解体をつぶさに追ったはずのこの本でさえ、なぜかツッコミが甘いが、これは「お題目」にすぎない。理念を浸透させるための施策が徹底されていなかったのが実態である。たとえば当時リブロに勤めていた田口久美子による『書店風雲録』や、アール・ヴィヴァンに勤務していた永江朗の『セゾン文化は何を夢みた』に明らかである。たしかに百貨店の人間はリブロやアール・ヴィヴァンの売り場に口は出さなかった。その点では「支配と従属」は排除されていた。しかし両書によれば、
・百貨店事業部は、西武美術館、アール・ヴィヴァン、リブロといった文化事業部を煙たく思っていたこと
・セゾンには(当時の日本企業にしては進んでいた方だとは言え)男尊女卑があったこと
・百貨店事業のなかでも、服飾を頂点とするピラミッド構造のヒエラルキーが存在していたこと
が確認できる。
百貨店の服飾出身の和田繁明――バブル崩壊後に西武百貨店を建て直し、そごうとの合併を実現させた経営者――は、堤によって百貨店からレストラン西武の社長に配置させられたことを「左遷」と捉えていた。また、著書『無印良品は、仕組みが9割』をもつ良品計画会長の松井忠三も、かつては西友を母体とするショップだった無印良品に西友本体から出向になったことを、やはり左遷だったと表現している。これらのことからも、「上意下達のツリー構造ではなくリゾーム」なる理念の空虚さは自明である。和田は、堤が父・康次郎の反対を押し切って実行した「大卒者の新卒採用」第二期生であり、堤思想の薫陶を受けていたはずなのにこれなのだから、他は推して知るべし、であろう。
「理念」はつくるが、理念の「浸透」には務めない。「コンセプト」(ハコ)はつくるが「オペレーション」(しくみ)はおざなり。器つくって魂入れず。堤経営には、こうした「見かけ倒し」ぶりが至るところにみいだせる。堤清二をヨイショしまくっている上野千鶴子でさえ、辻井喬との対談本『ポスト消費社会のゆくえ』の中では、社史編纂に関わったときの調査で「西武は当時の高いイメージにもかかわらず、じつは顧客のニーズに応じる品揃えがないとか、欠品があっても平気だとか、(中略)イメージと実態に落差があることがよくわかりました」と語っているほどだ。
堤は何かを新しく始め、新業態を傘下に収めることに執心した。アントレプレナーシップに長けていたと言える――この点も後述するように疑問なのだが、さしあたっては通説を採用しておこう。増田通二や田中一光といった盟友の力もあり、セゾングループは「PARCO」や「無印良品」など、新しい概念を提唱して店づくりを行う「理論派」だったことが巷間よく語られている。
しかし経営者に必要なのは、「何かを生み出す」というアントレプレナーシップだけではない。マネジメントとリーダーシップも必要である。ジョン・P・コッターの定義を参考にするならば、マネジメントとは「管理する能力」であり、計画立案/予算策定、組織化/人材配置、コントロール/問題解決をもって複雑さに対処すること。リーダーシップとは「ヒトと組織を動かす能力」であり、変革の方向設定、方向性共有のコミュニケーション、動機づけをもって、変革を推しすすめることだ。
堤の実態は、会議中に取締役相手だろうと灰皿を投げつけ、怒鳴りつけて机を叩くような独裁的なワンマンであった――ということは立石泰則『堤清二とセゾングループ』も、レズリー・ダウナー『血脈 西武王国・堤兄弟の真実』も記している。にもかかわらず「リゾーム」だとか「経営共和制」なる欺瞞にみちた概念を持ち出し、お題目と実態が乖離した人間関係をつくりだし(リーダーシップの欠如)、また、日々のオペレーションをカイゼンし、組織を調整していく管理能力にも欠けていた(マネジメントの欠如)。ゆえに堤の理念は現場に浸透せず、実行されずに空転した。なにしろトップの言っていることとやっていることがあまりにかけ離れているのだから、下の人間が理念を信じるはずがない。
こうした堤経営の特徴は「財界」一九七二年一一月号に掲載された「二つの顔をもつ堤清二の午前二時」という記事ですでに指摘がある(『堤清二・辻井喬フィールドノート』に再録)。「流通業界の内情にくわしい消息通は『多店舗展開とか、新規事業分野への進出には極めて意欲的だが、でき上ったものを固める日常業務は不得意。ひと口にいって“攻め”には強いが、“守り”に弱いところがある』とも指摘する」と。
最大の問題は、自身の能力特性を自覚し、欠点を補うようなHRM(人材マネジメント)を長きにわたり放置しつづけたことだ。ひとりの人間にすべての能力を求めるのは不可能である。堤でなくても、ひとりであらゆる能力を兼ね備えていることなどありえない。よって成すべきは組織運営に必要なスタッフを能力や性格的なバランスを見て配置することだ。
しかし堤がしたことはなんだったか。新規事業を始めるたびに、外から子会社のトップをリクルーティングし、しかも自らの意にそぐわない場合はパージしていっただけである。それでは自身のアントレプレナーシップ発揮をサポートすることにしかならない。HRMシステムには評価、報酬、教育、配置、そして採用と解雇といった要素がある。セゾンについてよく語られるのは採用(大卒採用、外部からの幹部登用)と配置(抜擢)ばかりだ。評価制度や教育制度が優れている、などとはほとんど語られていない。評価や教育について記述があるのは、セゾンの公式本である由井常彦編『セゾンの歴史』上下巻くらいだろう。同書にもこういう「制度」を作ったという話は載っているが、いかに「運用」されていったか、という肝心の話は出てこない。これらのことからも、既存事業を回すスタッフを育成することがおざなりであったことは容易に想像がつく。現に『無印良品は仕組みが9割』でも、松井忠三が社長に就任する以前の無印は「セゾンから、経験と勘を重視しすぎる体質を受け継いだため、(中略)仕事のスキルやノウハウを蓄積する仕組みがなかった」「担当者がいなくなったら、また一からスキルを構築し直さなければならなかった」と批判的に語られている。
バブル崩壊以降のグループ瓦解の原因はこうしたマネジメントの軽視、リーダーシップの不在にある。
さらに、あまりにグループ企業の数が多すぎることが、ガバナンスを貧弱にした。堤は有楽町西武やつかしんなど、そのとき自分が執心している新規事業には口を酸っぱくして介入しまくったが、堤の目が届かない(さして関心を払われなかった)グループ会社では「堤はお飾りで、これは俺(たち)の会社だ」という増長が横行した。自社・自部門の個別最適を考える人間を育み、グループとしての全体最適を見るという視点の高さを志向する者を消滅させ、しかし「最終的なケツ持ちは西武がやってくれる」という甘えに基づくザルな事業運営を横行させた。定量的にみればグループの致命傷は、西洋環境開発と東京シティファイナンスが返済能力を超えた多額の有利子負債を抱えたことであったのは『セゾンの挫折と再生』にあるとおりだ。だが同書や佐藤敬の『セゾンからそごうへ 和田繁明の闘い』も指摘するとおり、西武百貨店本体も非常識な仕入れと大量の架空売上に基づく六〇〇億円もの不良在庫を抱えていたのであり、グループ瓦解の原因を「バブルのせい」という外部要因に帰すのは難しい。因果関係としては、堤の目の届くところではご託宣を得ることばかり考える上層部と、堤の視野の外ではガバナンスがゆるゆるになった経営であったがために、あらゆるところでタガが外れかけており、その負の連鎖が業態的に数字に跳ね返りやすかったのが西洋環境開発やTCFが関与したリゾート投資、不動産投資だった、とみるべきだ。
もとより、ガバナンスの問題以前に、バブルが起こる前から、西環の前身である西武都市開発も一九七四年から七六年にかけて不動産投資の失敗が顕在化し、グループを危機に陥れていたことは『セゾンの歴史』下巻にもあるとおりだ。堤は九一年にセゾングループ代表引退を表明したのちも九九年五月まで西環の代表取締役の任にあったのだから、上野千鶴子や三浦展との対談において、西環の経営について「情報が上がってこなかった」などと言って自らは知らぬ存ぜぬであったかのような口ぶりには違和感がある(セゾングループ全体の実権はないにもかかわらず「西環とTCFの負債に対してグループで分担して負担する」などと勝手に銀行に対して申し出て西武百貨店代表に就いていた和田繁明らを面食らわせた一方で、代表権のある西環の実態については「知らなかった」と言う堤の行動には一貫性がない)。なんにせよセゾンはヒト系スキル以前に、不動産投資に関するビジネススキルが欠如していた。外部環境(=景気)頼みの経営であり続けたのである。
不動産投資事業の二度の失敗からも明らかなように、堤の経営には「撤退戦略」がなかったことも問題だ。ここまで行ったら事業をやめる、この時点までにこれを達成できなければ引く、という定量的な基準の存在が、セゾン関連の文献をいくら引いても出てこない。多店舗展開、多角化はひたすらに推進するが、堤は自身が毛嫌いしていた旧日本軍と同じく「どうなったら撤退すべきか」を決めていなかった。いつか火傷を負って崩壊することは約束されていたのである。


一-二、オペレーションではなくコンセプトとプロモーションばかりが語られる流通小売業
セゾンを語るさい、PARCOや「つかしん」のコンセプトが斬新であったこと、「おいしい生活」に代表される広告・宣伝手法についてばかりが語られる。
バリューチェーンの上流には力を入れるが、オペレーションは軽視されていたことの象徴である。
『無印良品は、仕組みが9割』では、セゾングループは発想力や事業構想力には優れていたが、発想を実現する実行力が欠けていたこと、堤清二に企画を通すために膨大な企画書が必要とされ、それをつくるだけで疲れてしまい、実行する気も失せてしまうし、現場もそんな膨大な企画書に基づくことなんてやれっこない、という反応だったことが証言されている。
こんな流通・小売業はおかしいのである。「接客」と「物流機能の合理化」という小売りで重要な二点が抜け落ちている。

・接客を追求しない小売業
まずは接客という点から他社と比べてみよう。たとえば百貨店業なら、ノードストロームや伊勢丹は「おもてなし」ぶりがよく語られ、接客におけるオペレーショナルエクセレンスが志向されている。あるいはスーパーマーケットなら、成城石井は「小売店はリピーター需要が大きいからこそ日々の挨拶を徹底する」ことで知られる。現場の人間ひとりひとりの努力なくして現場のサービスレベルは向上しない。
だが西武には接客に関する有名エピソードがほとんどない。接客で他店より優れていた、などという風聞もない。堤は「市民企業たれ」と言っていたが、実地で顧客にいかに接すべきかということに対することばは意外なほど出てこない。登場するのは「美術館をつくった」などといったハコの話と、「こんな新規事業を手がけてドメインを拡大していった」という話ばかりである。小売り業がサービス業でもあるという視点が薄いのだ。そこにあるのは「モノを売る」という時代の、プロダクトアウトの発想である。「いいモノ」を作り(無印良品)、売ればいい。こういう考えであって、無形のサービスを提供するという思想ではない。広告をプッシュ型で出しまくれば「モノ」が売れると思われていた時代の産物が西武の「おいしい生活。」だった。
先にも述べたとおり、現場の軽視はHRMにも見られる。成城石井を経てセブン&アイフードシステムズの社長を務める大久保恒夫は『実行力100%の会社をつくる!』の中でマネジメントの重要性を説いている。マネジャーこそが現場づくりを、スタッフの士気や行動を左右するからである。セゾンの発想はどうか。組織を短期に変えるにはどうしたらいいか、外からつれてくればいい。という考えでHRMがなされており、最大の顧客接点である売り場スタッフへの施策が軽視されている。「マネジメントだけを変えればなんとかなる」という考えであり、マネジャーが現場スタッフを教育する存在であるという点が軽んじられていた。
「小売業の経営者はみんな同じようなことを言っている。イトーヨーカ堂の伊藤雅俊さんは『お客様第一だ』と言っていたし、ダイエーの中内功さんも『フォア・ザ・カスタマー』と言っていた。西友の堤清二さんも、ジャスコ(現・イオン)の岡田卓也さんも、言っていることに大きな差はなかった。(中略)しかし小売業で差がつくのは、現場での実行レベルである。経営者は同じようなことを言っていても、現場で実行している企業と、していない企業の差が大きいのである」(大久保恒夫『実行力100%の会社をつくる!』)

・物流機能合理化の不徹底
もうひとつは物流機能の合理化についての言説の不在、である。たとえばウォルマートはハブアンドスポーク方式の物流機能を整備し、多額のIT投資によって売れ筋を見つけ死に筋を排する商品管理を実現した。セブンイレブンも「ドミナント戦略は個々の店舗のオペレーションの徹底があってこそ活きる」「小売業でいちばん重要なことは、データにもとづいた仮説・検証による適切な発注です」(『商売の創造』)と鈴木敏文は言い、七六年から当時としては前代未聞のメーカー横断で牛乳の共同配送システムを採用、さらには世界でも稀にみる「単品管理」というしくみをつくりだし、高い経営効率(=利益率)を誇ることで知られる。だが流通・小売業であるにもかかわらず、堤清二/セゾンには、物流関係の施策で優位性を構築しようとした、という話がきこえてこない。そもそもコストに関する話がほとんど出てこない。奇妙なことである。
物流だけではない。情報の環流も非効率的であった。イトーヨーカ動は本部から通達があると翌朝にはすべての店の売り場が出来上がっていたが、セゾングループではそれが一週間から十日かかっていた(『無印良品は、仕組みが9割』)。情報が伝達され、実行されるまでのリードタイムが遅いということは、それだけ機会損失が生じ、経験蓄積の回数が少なくなる――他社と差がついてしまう。
西友や西武百貨店の営業利益率はなぜ低かったのか? 接客や物流におけるオペレーショナルエクセレンスの追求が競争力になるという考えもなければ施策もなかったからである。店舗コンセプトや宣伝展開といった華やかなところには予算も労力も割くが(セゾンの販管費は同業他社と比して非常に高かった)、オペレーションのカイゼンや接客のよさの追求といった泥くさい現場フェーズの仕事に関しては、掛け声に留まって実行がなされていなかった。
もちろん、例外もある。百貨店からレストラン西武へ左遷させられた和田繁明は、八〇年代半ばからバックヤードに力を入れ、オペレーション効率化を徹底していった(佐藤敬『セゾンからそごうへ 和田繁明の闘い』)。九二年に経営を建て直すために百貨店にカムバックしたさい、和田は西環とTCFの抱えた負債の処理方法をめぐって堤と激烈な争いをすることになるが、それは外面(イメージ)を重んじる堤と、実(オペレーション)を取る和田との経営思想の闘いだったとも言える。


一-三、エリートが愚民を導くというレーニン主義
なぜかくも現場は、オペレーションは軽視されたのか? 堤の思想にその原因をみいだすことができる。
堤が一九六二年に書いた「実業家と芸術家の和解」では「観念エリート」「感性エリート」「実務エリート」「技術エリート」の協同作業の必要性が語られている。そう、「生活総合産業」を標榜していたセゾンは、しかし「エリートが大衆を導く」というモデルを執り続けた。ゆえに経営陣は、マネジャーは現場を軽んじた、とも言える。エリートがコンセプトをつくって店を出しさえすれば、売り場のスタッフも顧客も付いてくる、すぐには難しくとも、いつか状況は一変する。なぜならエリートは正しいから。
こうした思考様式の根幹は、堤が青年期に心酔したマルクス=レーニン主義にあるのだろう。都市のインテリゲンチャが農民に階級意識を注入し、革命を導く。PARCOやつかしんのような物珍しいコンセプトを打ち出し、西武美術館では現代美術を取りあげる――セゾンが好んだ「客をつくる」というプロダクトアウトな発想の根本は、レーニン主義的な革命モデルがあると思われる。
戦後日本の流通業者による「流通革命」の担い手たちが、独自にマルクス主義を摂取していたことは、しばしば語られている。たとえば「西のダイエー、東の西武」の片翼であるダイエー中内功の著書『我が安売り哲学』は、メーカー主導ではなく消費者が価格を決めるのだ、という思想に貫かれている。「流通革命をプロレタリア革命に擬するなら、消費者、量販店はプロレタリアートであり、中小メーカーはブルジョアジーの一角を構成している。中小メーカーは本来ならばプロレタリアートたる消費者、量販店に敵対する階層であるが、寡占化の進展はブルジョアジー陣営に内部矛盾を起こし、民主主義革命において、中小メーカーは同盟軍に参加し得る条件にある」(『我が安売り哲学』)。中内は「農村が都市を包囲する」という毛沢東主義的な革命モデルであり、事実、三越を頂点とする都市部の百貨店を包囲するようにスーパーマーケットを田舎や郊外から攻め、やはりマオイズムに由来する山岳ベースでの軍事訓練中にリンチ殺人を起こした連合赤軍事件が世間を騒がせた一九七二年に、ダイエーは三越のグループ売上を抜いたのだ。
こうした市民主権、消費者主権の思想を、堤も持っていたように見える。しかし違う。辻井喬と上野千鶴子の対談『ポスト消費社会のゆくえ』には「私にはレジスターが子守唄にはきこえませんでしたよ」といったような辻井の発言があるが、これは『我が安売り哲学』内の有名なフレーズ「キャッシュレジスターの音が子守唄に聞こえる」を揶揄したものである。辻井=堤は、中内の毛沢東主義的流通革命理論を、田舎者の戯れ言程度にしか思っていなかったはずである。
革命を先導し、成就するのは観念エリートたるセゾンであり、革命主体は生活する市民でもなければ末端従業員でもない。根にあるエリート主義=レーニン主義を温存したまま、リゾームなどという現代思想――フランスの戦後思想家たちは「リゾーム」を提唱したドゥルーズにしろ、アルチュセールにしろ、レーニンを否定しマオを礼賛するのがおきまりであった――を接ぎ木したがために、堤の思想と行動は拭いがたい矛盾をはらんでいた。経営者・堤清二と詩人・辻井喬の分裂、ではない。堤清二自体が、そもそも矛盾していたのである。
セゾンのコンセプト倒れ経営は、堤の本質が「観念エリート」のワンマン経営者であり、にもかかわらず自らの考えをわかりやすく上意下達する組織としての「しくみ」すら構築せずに運営したがために、理念の浸透もなかったこと、リゾームを標榜しつつも従業員たちも経営陣もみな階層的にグループを認識していたことに由来する。堤がスタッフに対して「俺の言ってることがわかんないやつはバカ」という圧をかけるような接し方をしていたことも、抽象的な「グループの理念」に基づく判断ではなく、属人的な「堤清二」を向いた仕事ぶりに拍車をかけた。実態と建前が、レーニン主義とリゾームが同居していた。
結果、組織の中枢には優秀な人材がいるが、そこから遠ざかるほど機能は低下する――池袋の西武百貨店は売上日本一を誇るものの、地方の店舗やグループの孫会社などはいかにも戦力不足が否めない品揃えとスタッフで回していたのがセゾンである。
そして、ソ連の崩壊と歩調を合わせるようにセゾングループも崩壊した。九〇年代初頭の西武百貨店では、予算が未達でも昨対比で売上が下がっても、従業員はそれで当たり前だと言わんばかりの態度を取っていたという(『セゾンからそごうへ』)。計画経済なるものを誰も信じていないが、社内の数字だけはつくられ、しかし、決算数字は対外的に公表しない秘密主義を貫くという、まるで社会主義国家と同じような体制、同じような空気を、セゾンはつくりあげたのである。


二、先進性というウソ
堤清二はアーリーアダプターであってもイノベーターではない。真に先進的なのは、まったく何もない状態からビジネスモデルをつくりあげるイノベーターである。堤清二はイノベーターの出方を見て立ち位置を決めるアーリーアダプターである。
もちろん、セゾンが「業界初」のことをやった事例もいくつかあるが、それは次項の「独創性の検証」パートでみることにしよう。
ここではセゾンがいかに遅れて参入していたかという歴史と、堤の経営思想の古さを見ることにしよう。


二-一、セゾンが一番乗りした事業はほとんどない
GMS/流通革命の旗出はダイエーだし、コンビニエンスストアはセブンイレブンが先んじていた。西友もファミリーマートも、後追いである。ここでは堤がそうした「後出しじゃんけん」に長けていたというファクトを見ていこう。
一九五六年に百貨店規制法が改正され、営業時間と休業日が定められたことを受け、その規制の対象にならない小売業が発展。堤がロスに百貨店を出せと父から指令されて大赤字を経験しつつも、日本でも百貨店ではなくGMS(ジェネラルマーケットストア、いわゆる大型スーパー)の時代が来ると予見し、西友も業績を伸ばしたことは周知のとおりである。一九六〇年代初頭の「百貨店法の規制により新業態への進出を志向した百貨店系スーパーの進出はもっとも早く、当初はターミナル型百貨店系、後に都心型百貨店にも広がっていった。(中略)東急百貨店系の東光ストア(現・東急ストア)は1958年に高円寺店の2階をセルフサービス化し、やや遅れて西武百貨店系の西友ストアーも1962年にスーパーマーケット経営に着手した。これらの百貨店系スーパーは設備投資額が大きく、仕入れを百貨店ルートに依存するなどの特徴を持っていた」「渥美理論の影響を受けて標準店舗を多数設立し、これらを本部で集中的に管理しようとした代表的な例が、西友ストアーである。西友におけるセルフサービス導入は、1962年に高田馬場店を「東都初のSSD(D)S」として改行したのが最初である。翌年には本部集中仕入れによるチェーンオペレーションを実施し、名称も西武ストアーから西友ストアーに変更された。1964年の新小岩店を始めとして大型店舗建設にも乗りだし、セルフサービスの導入やスーパーマーケット経営の開始に際しての出遅れを、チェーン化の段階で取り戻すことに成功した」(山口由等「高度経済成長下の大衆消費社会〈1955-1973〉」、石井寛治編『近代日本流通史』所収)。百貨店によるスーパー経営は失敗する、と言われていたがセゾンは成功させた、とはよく言われる通りだが、それこそ時機を逸して「早すぎた」がゆえに他社は失敗し、堤は「出遅れ」組であったが成功させたのである。
堤のようにアメリカに行って「これからは百貨店の時代ではなくスーパーの時代である」と感じて実行したのはイトーヨーカ堂の伊藤雅俊も同様であり、伊藤の方が堤より先んじてスタートしている。ちなみにセブンイレブンをスタートしたのも早ければ、POS導入も圧倒的にセゾンより早い。「日本で最初のコンビニエンスストア『セブン-イレブン』が発足したのは、一九七四年(昭和四十九年)、第一次石油危機の最中である。西友がコンビニエンスストア事業に着目したのは、それより二年前であって、七三年に埼玉県狭山市で実験店舗をオープンした。ところが、その後の事業展開について堤清二は、この事業が零細小売業の圧迫になると考えて、承認しなかった」(『セゾンの挫折と再生』)。プライベートブランドの開発も、ダイエーが西友に先んじていた。堤の遅さは明らかである。
一九八〇年に始まった無印良品はどうか。今日で言うSPA/製造小売業の業態としては一九六九年創業のGAPや一九七五年創業のZARAが先んじており、バリューチェーン(サプライチェーンと言うべきか)の構造革新という点では、同時代によくあった発想にすぎない。
ライバル東急と比べるとどうか。セゾンといえば渋谷に西武百貨店、PARCOなどを出店して風景を一変させた、と言われるが渋谷はセゾン以前に東武百貨店があった場所であり、ここでも一番乗りではない。また、東急ハンズは七六年にスタート、LOFTができたのは八七年と東急の方が早い。堤が銀座に百貨店を出そうとしたが三越をはじめとする銀座界隈の勢力に猛反発され、「銀座西武」という名前ではなく「有楽町西武」にしなければならなかったというエピソードは有名だが、東急はそれを遡ること半世紀ほど前に、似たようなことを経験している。一九三七年に東急・五島慶太が三越をのっとろうとしたときに、「日用雑貨店に毛のはえたような東横百貨店を始めたいなか実業家がいどもうとする、身のほどを知らぬにもほどがある」と反発を招き、断念したという逸話がある。打倒・三越に燃える青年実業家、という点では五島慶太や中内功の方が堤に先んじていた。
銀座、といえば、セゾンは渋谷において「店づくり」ではなく「街づくり」をしたのがえらい、とよく言われているが、しかし、三越や高島屋、あるいは資生堂が二〇世紀初頭からいかに銀座/日本橋エリアの「街づくり」をしてきたか、街を育てることで店(企業)を育ててきたか、経営者たちが都市計画や景観保護運動と関わってきたのかは、百貨店や資生堂の歴史に関する書物をひもとけば明白である(たとえば与謝野晶子とも交流のあった高島屋・川勝堅一による『日本橋の奇蹟』や、福原義春『銀座物語』、戸矢理衣奈『銀座と資生堂』などを参照のこと)。さらに、西武百貨店が「ふしぎ、大好き。」などといった八〇年代に展開した広告が、「商品」ではなく「イメージ」を売るものであったことが先進的だったと語られるが、三越が一九一三年から展開した「今日は帝劇、明日は三越」というポスターを見ても(ググればすぐ出てくるので見てほしい)、蝶のような女性が飛んでいる姿であったりして、具体的な商品ではなく「イメージ」を売っていたように見える――まあ当時は「三越呉服店」だったから、呉服が売り物であることは店名からして明白ではあったものの。そもそも日本の百貨店は富裕層向けにできたものである。最初から、機能性だけで買うような人たちを相手にしていない。金持ちがなぜ三越で買うか。品質のよさは大前提だが、サービスやステイタスといった無形の喜びを味わうためでもあったに決まっている。セゾンの広告展開のクオリティの高さは認めるものの、それが史上画期的だったとは、私には思えない。ちなみにデパートで催事を行う、美術を展示することを日本で最初に行ったのも三越である。堤がジャスパー・ジョーンズなどアメリカの現代美術を西武デパートで展示したことの先進性はしばしば語られるが、堤の新しさとはデパートという「ハコ」に入れるための現代美術品という「モノの新しさ」である。「デパートで美術品を展示する」という「ビジネスモデルの新しさ」(しくみの新しさ)をつくりだしたわけではないのである――この点はのちに詳述する。
また、何もない場所に街自体をつくりあげる、というのはそれこそ堤清二の父・堤康次郎が国立や軽井沢でやってきたことである。渋谷で行われた、という一点を除けば、何も新しくない。
ほかにも耐久消費財以外のクレジット販売を普及させたのは、一九六〇年に丸井がクレジットカードを発行し、六一年に割賦販売法が制定されて以降であり、六三年にダイエー、六九年に東急、西武は一九七〇年とやはり遅れている(『近代日本流通史』)。あるいは、チケットぴあと提携を発表するも、ノウハウだけパクって堤の鶴の一声で提携を一方的に解消し、同じシステムをもつチケットセゾンをチケットぴあの半年後に始めたエピソードも有名だろう。
堤清二が得意としてきたのはゼロから1となる事業を生み出し、ビジネスモデルを考えることではない。誰かが考案したビジネスモデルを模倣し、付加価値をつけて展開することであった。これは「マネシタ」と呼ばれた松下幸之助時代の松下電器(現・パナソニック)をはじめ、日本企業によく見られるタイプの経営である。堤は無からの創造を手がけるイノベーター型ではなく、模倣と追従に長けたアーリーアダプター型であり、「先進的だった」という言は虚妄である。


二-二、経営思想の古さ
堤が先進的だと言えない理由は、その経営思想の古さにもある。彼のマーケティング観や経営学への印象は六〇年代から更新されておらず、その古めかしい経営学/マーケティング観を時代が下っても引きずったまま、言いがかりに近い批判を続けている。
たとえば一九九五年に刊行した『消費社会批判』では、科学的管理法/フォーディズム的な「人間を機械や数字として扱うこと」への批判が綴られ、経済活動においても人間的な扱いがなされるべきだ、というきわめてよくある主張がみられる。本当にふしぎなのだが、フレデリック・テイラーやフォードを批判する左派の知識人の多くは、なぜホーソン実験に触れないのだろうか? 「労働者の作業能率は、客観的な職場環境よりも職場における個人の人間関係や目標意識に左右される」という、メイヨーたちが一九三〇年代初頭には発見していた知見(人間関係論)を、さも新しい課題であるかのように堤はむなしく反復し続けている。『消費社会批判』の以前から、堤は「人間の論理」と「資本の論理」の両立を説いていたが、それとて渋沢栄一の『論語と算盤』と同型の発想で、何も新しくない。人間は定量的な存在(KPIを追求し、利潤を追求する)として扱われると同時に、それに回収しきれない側面をもった豊かな存在でもある、ということが織りなすドラマが経営学であったと言ってもよい(たとえば三谷宏治『経営戦略全史』を見よ)が、何にしても経営学や経営者の主張を無視しすぎである。
ほかにも、皮相な「マーケッター批判」も目立つ。たとえば『新祖国論』では、マーケッターを批判して、
・ターゲット層を拡大することに尽力している。
・営業時間を昼のみならず夜に拡大し続けている。
・消費社会批判の意識がなく、人文・思想への理解がない。また、人文・思想の知見をなんでもマーケティングに使おうといういやしい発想を持っている
ということを問題点としてあげている。それぞれに違和感がある。

・「マーケティングとは、ターゲット層を拡大することである」???
一点目の「マーケティングとはターゲット層を拡大することである」という解釈は、ほとんどマーケティングとはなんたるかを理解していない。マーケの教科書でまず学ぶことと言えばSTPである。セグメンテーションし、ターゲティングし、ポジショニングを考えろ、と言われる。「ターゲットを絞れ」、顧客は誰かをぼやけさせてはいけない、ボケた顧客像に基づいて商売をしても、誰にも刺さらない、というのがマーケの根本思想である。「ターゲットを広げること」がマーケの仕事であることももちろんあるが、それが第一ではない。商品やサービスを考案するとき、ターゲットをむやみやたらと広げたがるのが日本人の悪いクセだ、とビジネススクールのマーケティングのクラスでは口を酸っぱくして言われるが、堤もその典型である。サプライヤーロジックでターゲットを広げ、新規事業を手がけることが自己目的化していたのが八〇年代のセゾンだった。「マーケティングとは顧客を絞ること、その人たちに対して『顧客志向』をするってことなんだけど?」という常識を理解していなかった。もっとも、和田繁明が西武百貨店常務取締役在任時の八一年に刊行した『挑戦的経営の秘密 西武百貨店の発想』には「客を選ぶことは、いままでの百貨店の常識からいうとタブーなのであろうが」という発言が見られるから、百貨店業界は「顧客を絞らない」「業態を拡げる」全方位で展開することをよしとする風潮が伝統的にあったのだろう。いずれにしても堤はきわめて八〇年代日本的な「拡大すればいい」という誤ったマーケティング観に基づいてマーケティングという営為を否定しており、ここには「経営効率を重視する」ということすら視野に入っていない(そしてセゾンは、イトーヨーカ堂に利益率で大きく水を開けられ続けた)。

・「マーケッターは営業時間を昼のみならず夜に拡大し続けるからダメだ」???
二点目の、昼だけでなく夜中まで店の営業時間を広げていくことに対する批判だが、大店法でデパートが一八時で閉めろと法律で決まったらその規制に引っかからないスーパーに注力していたのも堤ならば、コンビニエンスストア・ファミリーマートを傘下にしていたのも堤である。批判するくらいならやるべきではない。また、そこには夜働く人間への差別意識が滲んでいる。堤が「差別は許せない」という考えの持ち主だったとはよく言われるが、夜の人間に対してもマーケッターに対しても差別的な印象を持っていたようにしか思えない。
この点に関して「いや、詩人•辻井喬が経営者•堤清二を批判しているのだ」と言う者もいるのだろう。しかし、堤はあたかもその二つの人格が別物であるかのように振る舞うことにより、発言の矛盾や二枚舌を正当化し、ちぐはぐな経営戦略、意思決定の一貫性のなさに対する聞き手の思考停止を促してきたのである。セゾンが多角化の名の下に何をしてきたか? 事業ごとにターゲットもメッセージもバラバラ、シナジーも見込めそうにない、本当に多角化する必要があったのか疑問な事業を無数に生み出し、バランスシートを燃費の悪いブタのように太らせてきたのである。グループとしてのブランド体験価値が何なのか。それからブレークダウンされる各企業、各事業のブランド体験価値が何なのか。焦点が結びつかない茫洋とした展開をし、「文化戦略」「イメージ戦略」と言いつつ、文化事業部と百貨店ではコンフリクトが発生し、無印は洗練されているが西友の衣料品は社員も誰も買わないくらいだっさいもの――セゾングループの「イメージ」はまったく一枚岩ではなかった。これを堤と辻井の分裂ゆえだ、と言って片付けるのはおかしい。ペンネームを使っていれば矛盾した発言や施策が許されるのか? 経営者が芸術的な活動に通じていれば、経営が一貫していなくていいのか? 写真家であり科学者であり経営者であった資生堂•福原信三は堤清二のような言い訳にまみれた企業活動や言論を行わなかった。「すべて商品をして語らしめよ」「ものごとはすべてリッチでなくてはならない」という思想に基づき、一貫した企業活動を行っていた。やはり資生堂の福原義春はメセナ活動で知られたが、資生堂の営利活動と文化支援が矛盾するものだとは思っていなかったはずである(「美の追究」が一貫した資生堂のテーマなのだから)。ほかにも森ビル/森トラストの森稔は作家を志した過去をもち、コルビュジェを愛する文化人でもあり、スティーブ・ジョブズはテクノロジーとアートが交差する未来を切り拓く経営者として讃えられている。ひとびとは彼らの矛盾ではなく一体性をこそ称賛しているはずだ。なぜ堤=辻井の矛盾や二枚舌が特権化されなければならないのか。理解できない。ターゲットが絞れず、施策が一貫せず、メッセージがブレているという、ダメな企業、ダメな多角化の典型だったのが真の姿である。堤と辻井の人格を分離して語ることは、それを覆い隠す詐術としてしか機能しない。
「その地域のトポスがこういうものを作っておくれ、と囁いてくるものを受けて、デザインするのが、私は街づくりだと思います」などという言葉遣いで堤は部下を指導・叱責したという(『漂流する経営 堤清二とセゾングループ』)。何を言っているのか聞き手が理解できないような言葉遣いで話すという点では、堤が詩人・知識人であったことはマイナスにしか働いていない。「言語能力に長けていた」という通説に反し、プレゼン下手の経営者だったと結論づける方がしっくりくる。

・「マーケッターたちは消費社会批判の意識がなく、人文・思想への理解がない」からダメだ???
三点目の「マーケッター」たちは人文・思想の知見に乏しく、あったとしても商売に使おうとしか考えない卑しさに充ちている、という批判についても、経営学に対する無知・不勉強を露見している(日本のビジネスパースンの多くが人文系の教養や文化・芸術に対する関心がないのはまったくそのとおりで本当にうんざりすることではあるが、「お互い様」と言うほかない)。
マーケティング思想のグルたちを眺めてみれば、堤の批判は筋違いと言わざるをえない。たとえば「マーケティング近視眼」で知られるセオドア・レビットは、「芸術のための芸術」を謳っていたはずのモダニズム詩においても、エズラ・パウンドがいかに「いつ、どのタイミングでどの雑誌に何を投稿すべきか」を思考していたか(マーケティングをしていたか)、ということを強調していた。「ターゲットを広げる」という経営戦略のセオリーの基礎を築いた「アンゾフのマトリクス」で有名なイゴール・アンゾフは、論文冒頭にホワイトヘッドを引いている。日本でも石井淳蔵や野中郁次郎のように、哲学・思想に関する学識豊かな経営学者は存在する。
他社が始めたら追随する、あるいは「ヨコのものをタテにする」タイムマシン経営が堤のやり方であった。堤は六〇年代にはアメリカの小売業を参照し、経営学を勉強していた。だが八〇年代になると参照先はフランス現代思想のボードリヤールに代わり、そこから先、同時代の経営学やビジネス思想にはほとんど関心を払っていなかったように見受けられる。八〇年代にはすでに日本の経済界では著名だったフィリップ・コトラーもマイケル・ポーターも大前研一の名も、堤=辻井の本にはほとんどまったく登場しない。ビジネス書を軽蔑し、人文系の教養が重要だと説く経営者は堤だけでなく福原義春もそうであったが、そのこと自体が批判されるべきことなのではない。読書量や本の趣味で経営者の良し悪しを判断するのは馬鹿げている。たとえば昨今、再評価が激しい出光佐三はまったく本を読まない人間であることをむしろ誇っていたわけだが、そのことと彼が成した業績とは関係がない。
しかし当時、一世を風靡したトム・ピーターズの『エクセレント・カンパニー』ではマッキンゼーが開発した7Sのフレームワークが紹介され、Strategy(戦略)、Structure(組織構造)、System(システム・制度)といったハード面だけでなく、Shared value (共通の価値観・理念)、Style(経営スタイル・社風)、Staff(人材)、Skill(スキル・能力)といったソフト面も重要だ、経営者は現場へ足を運べ、と説かれていたのだが、先に見たとおりセゾンはハードは重視するがソフトスキルに欠いた「器つくって魂入れず」であったことが、皮肉に思えてならないのである。
刷新されていく経営学/マーケティングの知見には目を向けず、古色蒼然とした科学的管理法批判を繰り返す堤の経営思想のどこが先進的であったのか、私にはわからない。


三、独創性のなさと「しくみ」で勝つという発想の欠如
セゾンのしてきたことのほとんどは先進的でなく、そうであったとしても順番が早かっただけである。ほとんどが後追い、ほとんどが売上においても利益率においても他社に後塵を喫していたのがセゾングループだ。堤の経営には持続的な競争優位性を築く、模倣困難性を構築するという発想がない。ようするに、他社がパクれるようなことしかしなかった。
また、堤/セゾンの施策について「ここがすごい」と言われる点の多くは、他の経営者も同じようなことをやっている。
いくつか具体的に「独創性のなさ」を象徴するファクトを見ていこう。
かつてセゾン傘下にあったリブロは、書店発のイベント、ブックフェアを手がけた画期的な存在だった、と言われる(『書店風雲録』)。それはそうなのだろう。しかし、書店でイベントやブックフェアをやることそれ自体は、誰でもマネできる。
PARCOは自ら商品を仕入れて売るという百貨店モデルではなく、コンセプトだけを決めてテナントを募集する「場所貸し業」としてのビジネスモデルを確立したことで知られる。これはイメージ戦略を立てるのはうまいが、仕入れの交渉力や現場オペレーションに難があった西武ならではの、逆転の発想だったと言える。テナント側に仕入れや販売努力をアウトソースできるからだ。しかしこれまた、「場所貸しをするファッションビル」という形態だけでは、いくらでも他社がパクることが可能である。
あるいは、上野千鶴子が堤からセゾンの社史への寄稿を依頼された際、「批判も書かせろ」と言ったが堤清二が許諾したことについて、太っ腹だと讃えているが(『ポスト消費社会のゆくえ』)、五島昇も東急の社史を編纂するとき「都合の悪いことも全部書け」と言っていた(新井喜美夫『五島昇 大恐慌に一番強い経営者』)。
先にも述べたとおり、セゾンだけでなく、資生堂だってメセナには力を入れていた。
堤が西武百貨店に労組結成を自ら申し出て、父から反対されたが押し切ったエピソードはよく知られているが、鈴木敏文もイトーヨーカ堂での労組結成を創業者・伊藤雅俊に進言し、渋られるも実現している。
セゾンは「生活総合産業」を自称していたが、ダイエーも「総合生活文化情報提案企業」と自社を定義し、「リテール、サービス、ファイナンス、ディベロッパーの4事業分野の確立とそのシナジーを目指す戦略に転換した」(『近代日本流通史』)。
堤と中内のライバル意識とは無関係に、セゾンとダイエーとの近しさは際だっている。
セゾンはなにゆえ多店舗展開し、多角化せねばならなかったのか。当初の目的としては望んだ良い品をきっちり仕入れるため、普通の品は安く仕入れるためである。問屋は池袋に一店舗しかない三流百貨店には取引口座を開かない。開いたとしても、三越や伊勢丹などに良い品をまわし、余り物の粗雑な品をまわすのみである。べつだん、大きくならなくても、一番にならなくてもいのでは? そう考えるかもしれない。しかし問屋は売上が大きいところ、取引条件のよいところに優先して良い品を数多く卸す。そういうエコノミクスが働いている以上、セグメント内でトップをめざす必要がある。三流の流通グループ側が交渉力を上げるには、一流グループ以上に問屋が大量に、恒常的に、好条件で取引できる状態を作り上げねばならない。ではどうするか? 店舗を増やしに増やしまくればいい。その資金をいかにしてファイナンスするか? 弟の堤義明が率いる西武不動産グループの土地を担保に、銀行から借り入れする。そうして多額のファイナンスを達成し、百貨店も西友も、増店に増店を重ね、「数の論理」で問屋にとって一流の取引相手へ成り上がる。幸いなことに、日本の流通小売業は売上/シェア至上主義。利益率は店/グループのランクを考える上では軽視されていた。とすれば、採算が取れるかはあやしくとも、売上が立ちそうな場所にガンガン出店すればとりあえず日銭は回る――当座は回らなくとも、日本は人口が増え続けていた時期だったから、長期の予測財務諸表に人口増=売上増を入れ込んでおき、別の場所でファイナンスしたカネを返済にまわせば話は済んだ。ライバルのヨーカ堂が千坪から五千坪の店舗規模に主力店を集中して出店したのとは対照的に、西友は具体的な店舗政策を持たず、無秩序に六〇坪ていどから五千坪を超える店までただただ出店攻勢を繰りひろげた(立石泰則『漂流する経営』)。そうして売上が大きくなればランクが上がる。そのために百貨店を多店舗展開し、西友など異なる業態へと多角化し、売上を増やし、いたずらにバランスシートを肥大化させていった。
この「取引条件改善のために、銀行借入によって資金調達し、店の数を増やして売上を増やす」という手法は、堤の独創ではない。中内功率いるダイエーも同じ理屈で負債による資金調達を用いて拡大した。中内も堤も、ともに売上重視。利益を、キャッシュフローを軽視していた(ちなみにダイエーよりも西友の方が経常利益率のみならず営業利益率――利払いなどをさっ引く以前の、本業の収益率――が低かったことは『漂流する経営』『セゾンの歴史』などが指摘している)。そしてバブル崩壊、すなわち地価向上神話の終焉により「ふくれあがるバランスシートの右上を、左下の固定資産(=「土地」の含み益の増加)で支える」というやり口が通用しなくなったとき、両グループは破綻したのである。
一点付け加えておけば、ダイエーやセゾンにおける六〇年代から七〇年代にかけての多店舗展開や小売業における多角化と、本業とシナジーがない事業への進出を旺盛にしていた八〇年代の多角化とは、分けて考えるべきである。後者には経済合理性が存在しない。
堤は「先進的で独創的な経営者」だったのか? 八〇年代までの日本に典型的な「売上至上主義」「土地神話」にまみれた経営者だった。この時代の流通小売業で真に先進的であったのは、POSを導入し、単品管理を進めたイトーヨーカ堂/セブンイレブン。あるいは巨額のIT投資とハブ&スポーク方式の物流システム構築を進めたウォルマート。あるいはアパレルのサプライチェーンを極端に効率化し、ファッション性と価格の安さを両立したファストファッションの旗出となったZARA。こういった企業だろう。


・「しくみ」で勝つ、という考えのない経営者
堤経営の弱点を整理するために、流通・小売業、店舗運営に関する「よさ」を三つに分けてみよう。「器(ハコ)のよさ」「もののよさ」「しくみのよさ」である。
「器(ハコ)のよさ」は、いかにいい器、すなわちどれだけいい立地にいい建物をつくるかで決まる。コンセプトや内装、人の流れの設計などが重要なファクターとなる。
「もののよさ」は、いかにいいものを仕入れて流すか、安く流すか、あるいは「いいものをつくる」かで決まる。問屋やメーカー、ブランドとの交渉力、プライベートブランドならばデザインや製造能力などで決まる。
「しくみのよさ」は、しくみをつくり、磨くことで決まる。しくみとは、どんなふうにマネタイズするのかといった「ビジネスモデル」的な意味合いと、日々のオペレーション、インプリメンテーション(実行)という意味合いがある。新しいビジネスモデルを考案するには発想力と分析力が必要であり、オペレーショナルエクセレンスの追究には粘り強い実行力と、きめ細やかなHRMの制度と運用が必要となる。
堤清二は、器はつくった。器に流すものを仕入れ、あるいはつくりもした。しかし、マネできないようなしくみを築くことはできなかった。現在、先端的なセンスと「しくみ」を持つ伊勢丹と比較して、ジャーナリストの川嶋孝太郎は書いている。

西武百貨店というのは一時期疑いもなく日本一のセンスと“華やかさ”を持つ百貨店だった。ブランドイメージは伊勢丹を遙にしのぐ時代もあったのである。
「ラルフローレン」や「エルメス」といった海外ブランドをいち早く導入したのも西武だったし、商品のセンスの良さだけでなく、売り場にセンスのあるオブジェを配置して空間を演出したりしたのも西武の特徴だった。売り場を歩いているだけでも楽しいというのはある時期の西武以上のものはなかった。
そのセンスの高さは、パルコ、無印良品、ロフトといった専門店がセゾングループから輩出したことでもわかる。
惜しむらくはこれらの要素が属人的で個人の才能に頼ったものであり、システム化されたものではなかったという点。(中略)
それに対して伊勢丹は(中略)顧客の動向や消費動向などを元に、どういうものが求められているか、と売れ筋を提示する、いわば地に足がついたボトムアップでかつシステム化されたセンス。(川嶋孝太郎『百貨店戦国時代』産経新聞出版、一七二~一七三頁)

堤清二/セゾンの新しさや独創性を人々が語るとき、対象となるのは「もの」と「ハコ」に関わるものばかりである。「しくみ」はザルだった。「器つくって魂入れず」という経営だったのだ。HRMもさまざまな制度(器)はあったようだが、運用(魂)は機能していていなかった。一事が万事。魂を入れるのは現場のスーパープレイヤー(エリート)に一任されており、スタッフが凡人の集まりであっても非凡な成績をあげられるような独自の「しくみ」を構築し、それによって勝利する、という発想がなかった――旧セゾンの企業にそれができるようになるのはグループの解体と再編が進み、『無印良品は、仕組みが9割』という本が出るに至った二〇〇〇年代以降の話である。
「ハコ」や「もの」だけでなく、他社には模倣困難な「しくみ」で勝つことを実践する企業だけが、生き残る。これは業態を問わない真実である。セブン&アイ、星野リゾート、楽天、クロネコヤマト、ユニクロ……これらは新しいビジネスモデルをつくり、理念や戦略を打ち立ててよしとするのではなく「経営は『実行』」(ラリー・ボシディ、ラム・チャラン)であることを肝に銘じ、マネジャー層から現場の末端従業員にまで機能する「しくみづくり」に長けているから、強いのだ。
戦略と宣伝は立派だったが、オペレーションと実行力に欠いていたがために、顧客にとって重要な点で差別化することはできなかった。それが堤経営の特徴である。


四、結語――「文化戦略」と「イメージ戦略」の墓場から
器作って魂入れずであったこと、先進性がないこと、独創性がないこと。この三つは相互に連関している。先進性がなく後追いだから、イノベーターがつくった「しくみ」の本質的な意味を理解せず、表層的な模倣に留まり(人事制度はつくるが運用はおぼつかない。コンセプト重視の店舗はつくるが、接客や仕入れ・品出しといった現場オペレーションは他社に劣る……)、ビジネスとして見た場合には独創性を欠いていた。他社がマネできないようなことはほとんどやっておらず、他社がマネせずセゾンだけがやっていたことのほとんどは、単に誰がどうやっても採算が取れない経済的に非合理なことだった。こんにち社会起業家と呼ばれる人々、CSRをきわめて重視している企業を横に置いてみるならば(たとえばメルクやパタゴニア)、一定の経済的な非合理性をも包摂しつつ社会的な公益を訴え、グループ従業員も顧客も納得するような理屈を打ち出し、それを実践する道もあったはずだが、堤はそれをしなかった。
堤は「現代経営者の孤独について」のなかで「ドラッカーの主張はバラ色の夢を描く睡眠剤である」と言ってその思想を批判した。本稿は経営者としての堤清二に関する神話に異議を呈し、目を覚ましてもらうべく言葉を連ねてきた。
もちろん文化人としての功績はまた別の話であり、そちらを否定するつもりはない。

余談めくが、最後にセゾンとの個人的な関わりを書いて、閉じることにしたい。
1982年に生まれた筆者は、セゾン文化にほとんど恩恵を被っていない。池袋サンシャインシティで開催される同人イベントにはお世話になっているが、それとてセゾンの本社がサンシャインを抜け出たあとの話だし、サンクリもボーマスも、セゾン文化やパルコ文化とは関係がない。
ただ、地方在住者であった小中学生のころ、西武系列の百貨店には足繁く通っていた。九〇年代初頭から半ばにかけてのことだ。汚くボロっちいビルで、従業員はやる気がなく、売っている服もピンと来ない、いかにも田舎の百貨店じみた、ババくさい店だった。私はショッピングをするためではなく、最上階にあるゲームセンターで、当時全盛を誇っていたSNKやコナミの対戦格闘ゲームをプレイするために、ほとんど毎日足を運んでいたのである。往時、渋谷の西武百貨店最上階にある美術館やアール・ヴィヴァンに来る客と、百貨店に服を買いに来る客がまったく別の層だったことは、上野千鶴子も永江朗も証言している。地方でも事情は似たようなものだった。九〇年代の中高生は、西武系列の百貨店最上階にあるゲーセンめがけてエスカレーターを駈け昇り、ほかのフロアに何があるかなんて、目も向けなかった。セゾンの「文化戦略」や「イメージ戦略」にゲーセンなど想定されてはいなかったろうが、あの想い出の百貨店も堤なくしては存在しえなかったのかもしれないと思うと、そのことだけは感謝してもしきれない。
池袋や渋谷、有楽町ではセゾンはすごかったのかもしれない。しかし地方の西部百貨店や西友は、ださくて小売業の基本がなっていない、他のデパートやスーパーと比べても特別輝くところがない場所でしかなかった。あの停滞した空気が充満する、我が青春の西武百貨店@90’sはなぜ生まれたか。本稿はその原因を明らかにするために綴られた。

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