ゾンビはなぜラノベと相性が悪かったのか
「一時期、ライトノベルでもゾンビ流行ってたじゃないですか」
流行ってない。ガチで売れたのは木村心一『これはゾンビですか?』だけ。
売上を無視して『これゾン』以降にリリースされた作品の数を見ても、両手両足で数えられるくらいしかないと思う(ライトノベルって毎月一〇〇冊以上出ているのに)。
しかもいちばん売れたゾンビライトノベルである『これゾン』はジョージ・A・ロメロ『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』以降のゾンビの特徴である
・見境なく人を襲う、喰う
・頭部を破壊されたら活動停止
・伝染する
・知能が低下する
といったお約束を外している。
ゾンビで魔装少女の相川歩は女の子の着替えに遭遇はしても喰っちゃわないし、爆発しても死なない不死身の男だし、伝染しないし、知能は(たぶん)元から低い。
では逆に、きっちりゾンビもののマナーを踏まえた作品の代表はというと、大樹蓮司『オブザデット・マニアックス』がある。
ロメロゾンビが出てくるばかりでなく、章タイトルはぜんぶ先行作品からの引用。作中でボンクラの主人公とヒロインがザック・スナイダー版の走るゾンビについて是か非か議論するほどだ。
けれどそれくらいのもので、あとはゾンビ映画のマニアが読んで喜ぶような作品は、このジャンルにはさほど存在しなかった。
しかも『オブマニ』が売れたかというと、そうでもない。
ゾンビライトノベルは、ゾンビマニアにもライトノベル好きにも鬼門だった。
なぜライトノベルとゾンビの相性は悪かったのか?
1、ゾンビ映画とライトノベルのニーズの違い
1-1、エンターテインメントの基本は「おもしろそう+おもしろい」
そもそも。
「ゾンビもの」とか「ヒロインが残念」とかいう要素(パッと見、目に入るツカミの部分の「属性」)を入れるだけで当たるなら誰も苦労しない。
ジャンルの流行り廃りは否定できないくらいにあるものの、すぐ目につくレベルの設定や属性だけで売上が決まるわけではない(もちろん、流行りは流行りで重要。その時代のユーザーにとってわかりやすいタグが使えるということなので)。
エンターテインメントは、ターゲット顧客(観客や読者)に対して「おもしろそう」+「おもしろい」と思ってもらうことが売れるためには必要である。
「おもしろそう」とは観る/読む前に想定顧客が抱く「期待」のこと。これがない作品は初速が伸びない。
認知すらされない作品は「期待」以前。選択肢にも入らない。
そして初速がわるい作品は、ほとんど後伸びしない。読者にアテンション(関心)を与えられない作品は売れない。
だから、タイトルやツカミの設定は大事である。
「おもしろい」は読後の満足のこと。「釣り」的なツカミに惹かれて入ってきてくれたひとに対してそれなりの中身を示せない作品は口コミも広がらず(広がっても悪評となり)、売上は初速からどんどん勢いを失っていく。
「ゾンビ」のような属性は主に「おもしろそう」に関わる。
流行りの属性選択は、アテンションを与えることには役立つ。属性の組み合わせの妙で「おもしろそう」をつくることができる(『これゾン』だったら主人公の男に「ゾンビ」+「魔装少女」。ヒロインのハルナには「魔装少女」+「チェーンソー」)。
ただしよく見られる勘違いは、「○○もの」が作り手側で流行っていることと、それらの作品が読者に求められて売れていることとの混同である。
「○○もの」の作品がいっぱい出ていても、実際はほとんどの作品が売れていないなんてことは、よくある。実売を見ずにリリース数だけ見て「流行っている」などと言う人が多いのだが、似たような作品数の多寡はビジネス的にはあてにならない指標である。
また、「○○もの」をやるなら、その属性を入れたことによって生じるテーマ性に取り組まなければならない。そうしないと、軸がないふにゃけた作品になる。
ゾンビものなら極限状態における人間の(ゾンビ以上の)醜さとか、女性型アンドロイドとのラブコメなら機械を愛していいのかとか、そういうものだ。
と同時に、ライトノベルならライトノベル、少年マンガなら少年マンガ、ハリウッド映画ならハリウッド映画というジャンルの読者一般が求めるニーズに応えなければならない(そうしないと、鑑賞し終わったあと「つまんなかった」「俺が見たかったのと違った」と言われる)。
取ってつけたように流行りの属性をパクった作品の大半があれなのは、「○○もの」にしたからには書くべき主題をおざなりにしたり、主題を描こうとするあまりユーザー満足を置いてけぼりにするからだ。
そしてゾンビライトノベルが難しいのは、ゾンビものというテーマ設定が与える「やるべきこと」と、ラノベ読者が求めるニーズ(「やってほしいこと」)が一致しにくい点にある。
1-2、カテゴリ/セグメントの階層構造
いわゆるゾンビものは、たとえばゾンビ映画を例にとると、ユーザーの心理的には
エンタメ―実写映画―ホラー(またはコメディ)―ゾンビ
という階層構造(カテゴリ階層)になっているはずである。
エンタメを観たい人間の中でも映画を観た人間が、そのなかでもホラーやパニックもの、あるいはコメディを観たい人間が、さらにそのなかでもゾンビが観たい人間がゾンビ映画を選ぶ。
しかしライトノベルは
エンタメ―サブカル―ライトノベル
というカテゴリ構造になっている。エンタメのなかでもアニメやゲーム、マンガ、ニコ動といったサブカルコンテンツを好む人間が、サブカルコンテンツの中でも漫画やアニメやゲームではなくライトノベルを選ぶ人間が読むもの、である。
だからライトノベルのゾンビものは
エンタメ―サブカル―ライトノベル―ゾンビ
になる。
いわゆるゾンビものとライトノベルとでは、客層が入り口の時点で違う。
この階層を無視してエンタメ―ホラー―ゾンビライトノベルなんてノリで書いたものは売上的には99%爆死する。
ライトノベルはサブカル好き以外は読まない。
読む人間もゼロではないが、その「非サブカル層でライトノベルを読む人たち」をあてにして書いてもパイが小さくて商売にならない。
そう思ってつくったほうがいいジャンルである。
アニメやネット的なサブカル要素を抜いた純ホラーなライトノベルは、読者に敬遠される。
若いサブカル好き(とくにアニメやマンガ、ゲームが好きな層)向けのホラーには、そもそもパイはどれくらいあるのか?
2000年代には、竜騎士07による『ひぐらしのなく頃に』のように大ヒットした作品もあった。
2010年代以降ならフリーゲームではホラーは定番化しているし、四六判で出たこれらのノベライズはヒットもしている。
だが文庫で刊行される男向けのラノベ作品では、2010年代の主流であるファンタジー系のバトルやラブコメに比べれば、そこまでリリース数も市場規模も大きくない(女性向けではホラーはいつの時代も一定の需要がある)。
2000年代に文庫のライトノベルでホラーを書いている作家でいちばん売れていたのは甲田学人だと思うが、甲田作品はいちども映像化されていない(理由はいろいろあるのだろうけれど)。
だからライトノベル読み以外への商品としての訴求力は、ほかのメディアミックスされるライトノベルに比べれば残念ながら小さい(これは作品の小説としてのクオリティの問題ではない。ジャンル選択の時点で客数の上限があるていど決まってしまうからだ)。いわんやほかのホラーライトノベル作家(作品)をや、である。
つまり男向けのライトノベルで売れる可能性があるとしたらコメディゾンビしかない。
エンタメ―オタク―ライトノベル―(コメディ系)ゾンビ
『これゾン』はまさにこういうものだ。
1-3、ニーズの違い
私はホラーのいいファンではないが、ゾンビもののニーズはたとえば以下のようなものがあるだろう。
①驚きたい+おののきたい
こわいもの見たさ、死や醜さが伝染するという恐怖に接近するが逃れるという緊張と緩和、情報伝達が困難になり真実がわからず疑心暗鬼になるなか脱出するというカタルシス
②秩序の組み替えの快楽
既存の社会ルールが書き換えられた例外状態/祭りの到来による解放感、タブー破り、暴力の開放
クライヴ・バーカーは「ゾンビに対するわたしたちの恐怖の根底にあるものは、いわば群衆の行動の怖さだ。人が群衆になったときの非情さへの恐れなのだ」と語っている(スキップ&スペクター編『死霊たちの宴 上』創元推理文庫)。
群衆蜂起の興奮と恐怖の疑似体験を求めるひともいるだろう。
なんたってロメロの『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』はフランスや日本で学生運動が爆発していた一九六八年公開だし、ケリー・リンクが「いくつかのゾンビ不測事態対応策」で「ゾンビは差別ということをしない」「誰でもゾンビになれる。特別である必要はない」と書いているようにゾンビ間ではいかなる階級も存在しないきわめて平等な社会が訪れるし(だからこそ怖い、わけだが)。
個人的には、
ゾンビはやっちゃいけないことをやるやつだから殺していい。
疑心暗鬼に陥らせたり、極限状態だからといって非人間的な振る舞いをするやつは死んでいい。
などという理由で正当化された暴力が噴出する/ゾンビ側も容赦なくバイオレンスを行使するところが好きだ。
だからホラー映画的な怖さを煽る路線の『遺体安置所』みたいな作品や、ヒューマンドラマに寄せちゃう『ウォーキング・デッド』的な展開は自分の好みとはちょっと違う(が、この感覚は多くのゾンビファンとはズレているだろうと思う)。
対してライトノベルは
①楽しい
②ネタになる
③刺さる
が最大公約数的なニーズである。
まず①「楽しい」とは何か?
「楽しさ」は、作中人物がおおよそ以下のような状態になることで、もたらされる。
力の増大
・何かできるという「能力」の増大
・他者から求められ、好かれるという「魅力」の増大
・他者との関係性の進展、ネットワークの形成
・視覚的に大きな「効果」、不思議な効果をもたらす力の使用
ポジティブな感情の発露
・個人による肯定的な感情の「発散」
・複数人での感情の「共有」
・前向きになるなどの意志の「成長」、読者が共感できる目的意識の「発現」
笑い
(ポジティブな)非日常的体験、快楽
・主人公たちの内的条件の変化ではなく、その外側にある世界や人間が主人公たちに対して与える変化
自己の力が拡張されている感覚、自分が認められているという承認、愛してるとか好きだとかいったポジティブさをふりまいたり、誰かと共有すること、そして笑い、非日常的な経験から、「楽しい」という感情は生まれる。
次に②「ネタになる」だが、これは以下のような要素を入れていることが必要になる。
リアルやソーシャルメディアで口コミしたくなる(話題にしたくなる)要素
読者と作者がお互いオタクという同じ趣味のコミュニティに属していることを確認する要素
前者は主に読む前の「おもしろそう」という期待に、後者は読んだあとの「おもしろい」に関わる(読後に口コミしたくなる要素、というのももちろん重要である)。
なぜ「ネタになる」ことが重要なのか?
今日ではひとびとの購買プロセスにおいて、企業やマスメディアが発信している情報のみならず、ユーザー間で流通する評判が重要になるからだ。
佐藤尚之は、インターネットの普及を背景に、消費者が自ら情報を収集し、発信し、他者と共有するという行動を踏まえて電通が提唱したAISAS、すなわちAttention(気づく)→Interest(興味をもつ)→Search(情報収集する)→Action(購入する)→Share(情報共有する)がソーシャルメディアの発展に伴い、「SIPS」へと変化している、と言った(http://www.dentsu.co.jp/sips/index.html)。
SIPSとは
Sympathize(共感する)→Identify(確認する)→Participate(参加する)→Share & Spread(共有・拡散する)
という流れのことである。
ニコ動やtwitter上でバズるコンテンツはこの行動プロセスにフィットする要素を持ったものだ。変なタイトルやJOJOネタは「ネタになる」ために必要になる。
最後に③「刺さる」だが、これは感動するとか泣けるといった要素である。
ライトノベルは明るく楽しそうな表紙の作品ばかりが目につくため、ロクに読んでいない人間に「シリアス展開が必須なのだ」と言うと信じてもらえないし、普段はおちゃらけているキャラクターがいざというときには仲間のために戦う様子を読んで「キャラブレしている」などと絶句するようなとんちんかんなコメントをする人間がいるのだが、読者の胸を打つようなエピソードを挿入しない作品はベストセラーにはなっていない。
2、ゾンビとライトノベルがミスマッチになる理由
ふだん見られないものを見たい、という気持ちはゾンビものでもライトノベルを読む人間にとっても同じだが、若い男が見たいものは人間の顔の皮を剥ぐゾンビではなくて女の子が履くチェックのスカートの下にある縞パンである。
ニーズの違いを確認すれば、ゾンビライトノベルがなぜ鬼門なのかがわかるだろう。
① ネタになる」しか調達できない
妹や幼なじみがゾンビというのは「ネタになる」かもしれないが、そんなヒロインと恋愛したいか?
したくない。
楽しくもなければ刺さる話にするのも難しい。
『魔法少女まどか☆マギカ』で「それじゃあたしたちゾンビにされたようなもんじゃないか!」と杏子が言うけれど、杏子やさやかは腐らないし人も喰わないし知能もあるから「こんなからだじゃ、抱きしめてなんて言えない!」とか言われても、いや、全然いけますよ、と思うが、ほとんどの人間は、生肉を追い求める腐乱死体の異性を愛せない。
②性悪説の作品は好まれない
ほとんどの読者はライトノベルを読みながらビビりたいわけではないし、本気の人間不信を見たいわけでもない。
ライトノベルではハッピーエンドが好まれるが、ゾンビものでは後味の悪い終わりや恐怖を残すような終わりが好まれる。
ライトノベルでは性善説が好まれるが、ゾンビものは性悪人間がうじゃうじゃ沸いてこそおもしろくなる。
そもそもの人間観がちがうのだ。
にもかかわらず突き詰めて考えずに取り組もうとするか、あるいはライトノベル読者向けに日和ってしまうから、ゾンビライトノベルはライトノベルとしてもゾンビものとしても微妙な作品だらけになる(大樹蓮司の『オブマニ』はゾンビもの=性悪説の人間と、ライトノベル=性善説の人間のコンフリクトがきっちりと描かれる点が例外的である)。
③グロ描写イラネ
ゾンビもの大半は、ホラーだろうがコメディだろうが、少なからずグロ描写を伴う。これは明るく楽しいものを求める人間からは萎える要素である。
ゾンビものといえばカニバリズムや内臓の露出、疑心暗鬼の末の人間同士の殺人がつきものだ。
だが標準的なゾンビ映画が描くていどの暴力表現でさえ、最大公約数的なライトノベル読者が許容する/好む度合いを超えている。ゾンビ描写にリアリティを出そうとすればするほど、読み手は引いてしまう。
『ハイスクール・オブ・ザ・デッド』はマンガでもアニメでも、おっぱい作品としての側面を十二分に描いている反面、グロ描写は周到にソフトなものに設定されている。
エロもグロも描きすぎないことが重要なのだ。
小説でゾンビを描くさい、たとえば肉が腐り血や臓物を垂れ流しながら歩いているのだから、当然、ゲロ以下の臭いがプンプンしているはずだが、いたずらに嗅覚を刺激するような描写をしても気持ちが悪いだけである。
フィリップ・ナットマンのゾンビ小説『ウェットワーク』では内臓だらだらになった身体から血と糞尿と胆汁の入りまじった臭いがする様子などが描写されているが、これは読む側がスプラッタパンクであることを承知している(怖いものが見たいひとしか読まない)からオッケーなのである。
たとえばライトノベルではないけれども、やはりゾンビ小説であるアイザック・マリオン『ウォーム・ボディーズ ゾンビRの物語』を例にとってみよう。
この作品は、ゾンビになった主人公が、ある男の脳を喰うとその男の記憶が流れ込んできて、男の恋人のことを好きになってしまうという悲恋のラブストーリーとしてつくられている。
ゆえに、描写の密度のコントロールが行われている。
ゾンビが人間の脳みそを食べるのであれば、頭の皮が剥がれ血が噴き出て鉄分や骨のカルシウムが空気にさらされ、脳漿が見えるのだから、人間が日常生活を送るうえでは決して嗅ぐことのない臭いが漂うはずだし、脳を喰ったなら舌になんらかの食感と味覚を感じ、刺激と享楽に震えていたはずだ。
しかし「ラブストーリー」をめざすかの小説においては、それらの描写に踏み込むことはしない。
ライトノベルでゾンビものをやる場合にも、描写の密度を調整し、読み手の想像力を"刺激しない"ていどに情報をとどめなければならない。
売れているライトノベル作品は、暴力表現のバランスが絶妙である。
グロくせず、エグすぎず……たとえ腕や胴体が斬られても切断面や腸の様子、苦痛を仔細に描写することはなく、スマートに、少年マンガ的に処理する。
しかしほとんどのゾンビものライトノベルは最大公約数的なライトノベル読者が引いちゃうくらいに具体的に描いてしまっていた。
――結果、それほどは売れなかった。
④主人公が弱いなんて……
「圧倒的に売れる」ことを至上命題にした場合のバトルものライトノベルのアリ/ナシを簡単に整理すると
○アリ
・スカッとする。派手。主人公に突出した能力があって大活躍。
・知的。敵にも味方にも理屈や工夫がある。一進一退して倒す
・"友情・努力・勝利"、少年マンガ的展開。アツさ。
・わるいやつをやっつける、間違いをただす
△ナシ(やらないほうがベター)
・地味。主人公弱すぎ、戦闘のしかたががワンパターン
・ひたすらグロい(内臓や骨出る、散る、腐る。首・腕・胴体ちょんぱ)
・執拗な痛み、残虐描写、長すぎるウンチク
・主人公サイドの暴力に正当化できる理由がない。救いがない
・クライマックスにしょうもないオチ
となる(「楽しい」や「刺さる」につながるものが「アリ」、つながりにくいのが「ナシ」)。「ナシ」と書いてある者でも、一部の好事家には愛されるので固定ファンがつくことはあれど、むちゃくちゃ売れることは、まれ。
ライトノベルでホラー系ゾンビをふつうにやろうとするだけで、ナシの条件に該当してしまう。
描写に関しては③で述べた通りだが、ゾンビものでは人類が弱い立場に置かれ、防戦を強いられる。
しかしライトノベルでは基本的に特殊能力を持った俺TUEEE的な最強主人公のほうが好まれる。敵より強い存在であることが望まれる。
だからS・G・ブラウン『ぼくのゾンビ・ライフ』のようにゾンビ主観で迫害される様子を描く文芸的な小説は、ライトノベルでは商業的には難しい。
といって、人間サイドがゾンビを圧倒的な戦力で蹴散らすだけでは盛り上がらない。
ゾンビものでライトノベルをやろうとした場合には、このパワーバランスと読者の快楽/願望の折り合いのつけかたが難しい。
④ゾンビはしゃべらない敵なので小説ではバトルが盛り上がらない
ゾンビものの快楽である「暴力の解放」に関しても、ライトノベルで難しいのは、ライトノベルではしゃべらない(知能のない)存在を倒しても高い満足が得られない、ということだ。
ライトノベルにおける「しゃべらない敵との戦闘」は、主に主人公サイドの内面への問いや、能力や関係性の発動を描くチュートリアル的な説明のために使われる。
対して、「しゃべる敵」との戦闘は、根本的には敵との「理屈の戦い」である(それゆえ、クライマックスにふさわしい)。
内面を持たず理屈を持たない存在と戦って倒すよりも、理屈がある存在と議論して勝ち、バトルでも勝つほうがカタルシスは大きい。
ただし理屈を持った存在を描くには、敵側の物語を読者に開示しなければならない。つまり、それなりのページ数を食う。
ややもするとバランスを崩して主人公たちの物語の掘り下げが甘くなってしまうかもしれないリスクを負う。
ほとんどのゾンビ映画でも、対ゾンビよりも人間同士の戦いのほうが盛り上がってしまう。
ゾンビとは対話が成立しないからである。
理屈で戦い、武力で戦うという順を踏まないと、人間はいつまでもゾンビの頭をショットガンで撃ち抜いて破裂させるという単純な快楽だけでは満足できないのだ。
そこに「納得」がなければ。「快楽」+「納得」は、「おもしろそう」+「おもしろい」と並ぶエンターテインメントの基本である。
それでも映画やアニメは受け手が受身の表現だから(主体的にページをめくらなくても話が進む)、イベントの連続(アテンションの連続)で考えさせるヒマを与えなければ、納得感をあるていどスルーさせてもなんとかなる。
小説ではそれはムリだ。
主人公がピンチに追い込まれるパターンのイベントをいくら連続させたところで、「こいつらなんで戦ってるんだっけ?」とか「理屈がないなあ」と思われたら読み続けるのは苦痛になり、満足感は下がる。
ロメロ自身によるノベライズでさえゾンビものを小説にすると映画より見劣りしてしまうのは、ロメロ作品にはゾンビという存在に理屈がないからであり、そして理屈をつけたとたん、恐怖が薄れてしまうからでもある(「ゾンビもの」である必然性が消えていく)。
3、『これゾン』だけが成功した理由
ゾンビとライトノベルが水と油ということはおわかりいただけたと思う。
そして『これゾン』がうまくいった理由は以下の通りである。
①主人公を腐らず意識もあるゾンビにし、ヒロインたちも魔装少女や吸血忍者といった変わった属性の持ち主たちにしている
ラブコメをするのに片方が人間、片方がゾンビでは具合が悪い。
『これゾン』は主人公をゾンビ(ただし腐らないし人肉も喰わないし知性もある)にし、ヒロインも魔装少女や吸血忍者といった普通の人間ではない存在にしているので(もっとも、平松さんという私がいちばん好きなヒロインは人間だが)、釣り合いが取れている。
ゾンビである歩が日光に弱く、吸血鬼たちは平然としているという若干のひねりがある(テンプレそのままにしない)のもいい。
もっとも、"日光に弱くて知性もある"吸血鬼っぽいゾンビは『屍鬼』由来かもしれないが。
② グロ描写をせず、泣ける展開を用意している
『これゾン』はバトルでもバイオレンスを徹底してソフトな描写にとどめており、ホラーにつきもののグロシーンやエグい暴力描写を避けている。
また、コメディ系ゾンビながらきっちりと「刺さる」展開を用意している。
『これゾン』は毎巻必ずプロローグ+四話+エピローグという構成になっており、二話までは日常パートでラブコメ展開をし、三話と四話でシリアス展開をし、エピローグで日常パートに戻ってくる。楽しい+ネタになる+刺さるをきっちりと提供する流れになっているる
のみならず、個別のラブコメイベントにも内面吐露を組み合わせる点が巧みである。
一巻では主人公の歩がハルナの裸体に遭遇するが、ハルナが「ちょっ、まっ!」→「バカっ!」というおきまりのラッキースケベ展開から、一転してふいにハルナが「あたし……もう嫌だ」と歩に漏らし、魔力を使い果たしたことを後悔、魔装少女に戻れないというアイデンティティ喪失の危機をしゃべらせ、歩に自ら抱きついて「こうすれば見られないだろ」と言う(裸を隠すというより、涙で濡れた表情を隠すために)。
こういう、普通に書けばただのサービスシーンで終わるものを、いい感じにまとめるテクニックもポイントが高い。
③ 不死身主人公のバリエーションとしてのゾンビなのでTUEEE
作者がインタビューで「不死身主人公」が好きだったから歩を不死身にした、と語っていたが、ゾンビといっても朽ちやすい存在ではなく、同じ富士見ファンタジア文庫の鏡貴也『いつか天使の黒ウサギ』の主人公同様に、事実上、ほとんど無敵な存在にしているのでバトルパートで活躍できる。
また、魔装少女属性もあるため、ただ死なないだけでなく、常人以上の戦闘能力を持っていることも「楽しい」の調達に貢献する。
④ 敵がしゃべるので理屈で勝つ→バトルで勝つパターンが使える
『これゾン』で歩たちが戦うメガロだって学生服を着たクマちゃんとかザリガニが敵じゃね?
と思うかもしれないが、よく読み返してほしい。
『これゾン』では、クライマックスの戦闘は「夜の王」をはじめ、人間型で対話が成立する存在と激突している(これは雨木シュウスケ『鋼殻のレギオス』と同様の構造である。『レギオス』も序盤は学園都市の外から襲来する汚染獣という『風の谷のナウシカ』の王蟲のような化け物と戦うが、巻が進むと対話が成立する存在との戦闘に変わる。『これゾン』は一冊のなかに両方が入っている)。
⑤圧倒的なツカミのインパクト→隠されていた意外な多面性の提示→最大のコンフリクトに対してアクションを起こして打ち克ち、変化する、というキャラクター演出の鉄則を踏まえている
ライトノベルのキャラクターの演出は一冊の本のなかで
序盤は①「圧倒的なツカミのインパクト」を用意して「見た目や突出した能力」と「性格」のギャップを、
中盤は②「隠されていた意外な多面性の開示」で最初に見せた印象とは異なる部分を複数見せ、
終盤は③「最大のコンフリクトに対してアクションを起こして変化/成長する」。①②では隠されていた過去や本心の開示、成長を見せる。
という三つのステップからなる。
『これゾン』では全キャラがこのセオリーに則った描かれ方をしてシリーズが進められている。
なかでも吸血鬼+忍者で吸血忍者であるとか、ゾンビ+魔装少女とか、魔装少女+チェーンソーといった意外な要素の組み合わせ(ツカミ=属性の提示パートで示されるもの)の妙は才気走っている。
ほとんどのゾンビライトノベルはゾンビになった存在以上にキャラが立っている人間が少なく、また、ゾンビにストーリーの焦点を当てるがゆえにそれ以外のキャラクターの掘り下げが甘くなる傾向にあった。
ツカミが弱く、キャラの引き出しを描き切れず、終盤での変化が少ない――これはキャラクター小説としては致命的である。
4、そんなわけで
ゾンビとライトノベルの食い合わせの悪さを縫うようにストライクを投げる作家が出てきてくれたらいいなと思うばかりである。
……いや、やっぱゲテモノじゃないとゾンビらしくないから、いらないや。
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