湯気の中の視界
「課題が終わらない」
キーボードを打つ手を止めて、呟いてみた。
だがそうしてみて初めて自分が大して焦っていないことに気がついた。
期限は明日の正午まで。 書かなければいけない量は残り半分。 周りの友人に言わせればヤバいらしい。
しかし価値観と言うのは恐いもので、現状をどう捉えるかによってものの見方が変わってしまう。
マイペースな人の根本にはこの原理が働いているのかもしれない。 ちなみに言えばおそらく僕もそこに含まれるので、あまり深くは考えたくないものだが。
切羽詰まった状況ではあるが、一人暮らしの部屋の中は片付いている。
壁の本棚に並んだ大量の本、干された洗濯物、畳まれた衣類、洗い物の終わった半分だけ見える台所。
後が面倒なので、極力部屋は汚さない。 高2から始めた一人暮らしの成果と言えば、胸を張って言えるのはこのくらいだ。
今はそんな部屋の中心に位置する丸テーブルにパソコンを開いて作業をしている。季節はもうすぐ冬を迎える。 そろそろこたつを出したいところだ。
こたつ用の毛布をどこにしまったかを考え出したところで、台所から湯気をたてたマグカップが2つ顔を出した。視界の端が曇る。
「はい、リクエスト通りミルク多め砂糖少な目のコーヒーです」
「ありがとう」
トタトタとスリッパの音を鳴らしながら、彼女はマグカップと共に台所から出てきた。
湯気をたてていたその中身は僕がリクエストした甘めのコーヒー。 もうひとつはたぶん彼女のお気に入りのメーカーのホットココア。
僕が忙しい時は彼女が、彼女が忙しい時は僕がいれる決まりだ。
いつもと変わらない組み合わせに、なんだか口の端がほころんだ。
「何よ、1人で笑って」
僕を横目で見ながら、彼女はマグカップのホットココアをスプーンでくるくるとかき混ぜている。
本人は猫舌じゃないと言い張るが、これを延々と続けるのだからその言葉の信憑性は薄い。
もうもうと立ち上がる湯気は、僕のマグカップも彼女のマグカップも一向に収まりそうにない。
「なんか、いいなと思って」
「何が?」
僕も熱々のコーヒーを持ち上げかき混ぜる。
なるほど、確かにこれは熱そうだ。ゆっくりと冷めるのを待つ。
きっとこの時間が、より僕をマイペースにする。
静かな夜。マグカップを両手のひらで包む彼女。
湯気の向こう側の世界はたぶんこんな場所。
あやふやでボヤけてて、安らかで穏やかで。
でもこの空間は僕1人のものじゃない。インドア派だから家にいる時間は長いけど、いつもこんな風に安らかな訳じゃない。
というよりところ構わずぼんやりしていたら忙しい大学生活は成り立たない。
でもふとした時にこの瞬間が訪れる。 その理由が最近分かったところだ。
高校から付き合ってる彼女、そのありがたみ。 大学に入って、季節が巡り心の余裕が出始めた冬。
暖かさがじんわりと染み込む。
一人で過ごすのに支障はない。慣れてしまえば問題もない。だからこそ、なのかもしれない。
「あったかいな」
「え?うん、あったかいね」
不思議そうに首をかしげながらも肯定する彼女。 少し冷めたコーヒーをすする。
人恋しい季節があるのは、人間だから仕方がない。だからどうやってそれを埋めるかを考える。
別に自暴自棄な埋め方をしなくたって方法はある。いつもと同じこと、それでいい。
ぼやけた視界の中で、僕は何かを掴んでみる。
それは誰かがそっと、コーヒーを差し出してくれる幸せ。
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