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TIDE

「コウちゃん、その蘭燈の硝子は『TIDE』のだよね?」
 まだ熱を帯びた風が吹きすぎてゆく空き地に張られた、ネイビーブルーのテント。その陰でバタフライチェアに座りながら、さて今から昼寝をしようかどうか、瞼に決めさせようとしていたコウは、かけられた声に跳ね起きた。
 くりっとした黒い目をまたたかせ、コウは声の主へと向き直ると──にこっ、と笑う。
「ああ、木滝さん」
 年の頃は七十……いや、もう八十さえ過ぎているとおぼしき、すっかり白髪頭の老爺は、白ポロシャツにベージュのチノパンと、潮泊では「お出かけ着」と称されるいでたちで、テントの陰に立っていた。
「昨日の夕涼みでも、みなさんこの蘭燈をじっと見つめてましたけど……潮泊の西の港のかたには、やっぱりそれぞれ感じるものがあるみたいですね」
 額に波うつくせっ毛をかきあげてから、コウはテントの端で廻るランタンに手を伸ばす。真鍮の黒い枠を組み合わせたなかに、意匠もさまざまな硝子が嵌め込まれている蘭燈。ステンドグラス風、というにはモチーフが見えないデザインだが、硝子の選択が良いのか、場当たり的に作られたようには感じられない。そのなかの一枚である、冴え冴えとした青い硝子の、薔薇と砂浜のレリーフに木滝は皺の彫られた指を伸ばし、なつかしそうに目を細める。
「喫茶店『TIDE』……とっくに今はもうない店だのに、この歳になってもまだ覚えてるんだ」
 ふうっ、と木滝は息をつき、ひとりごちるように唇を開く。
「南に半分、西に半分で配された窓。その上の枠には薔薇と砂浜のレリーフが彫られた青硝子、下の枠には気泡をとじこめた透明硝子が嵌められていた。そんな硝子越しの、午後の光に照らされる、たった五つきりの席。
 ひとり掛けソファに合わせられたちいさなテーブルの居心地良さに身体がくつろぐ頃に聞こえてくる、音を絞ったラジオの、ずっと何処かの遠い土地のフリートークや洒落た音楽……ああ、でも、そんな店のたたずまいよりなにより忘れ難いのは、マスターの淹れる珈琲!」
 その熱っぽい声にコウはぴくっ、と状態をふるわせたが、次の瞬間には興味深そうに木滝の横顔を見つめる。そんなコウの熱視線をよそに、木滝は口許に笑みを浮かべながら、ふたたび語りだす。
「ここにあった喫茶店『TIDE』に、若造だった僕が足を踏み入れたころには、マスターはもう、今の僕のような老人でね。日焼けした肌に深々と刻まれた皺も、ぱりっと伸びた背筋にちゃんとアイロンをあてたワイシャツを隙なく着こなしているのも……最初は冗談抜きで、ほんとうに怖かったものだよ。でもね……『TIDE』でたったひとつきりのメニューだった珈琲は、ほんとうに……ほんとうに美味しかったんだ」
「それ、どんな味だったんですか?」
 飲んでみたかった、そう視線で語るコウに気づいた木滝は、やわらかく頷いてから答える。
「苦さと酸っぱさ、そのどちらにも偏らないのに、両方の味がたしかに残って……子どもからおとなになろうとする段階で、砂糖も牛乳も入ってない珈琲を飲む、って今でも通過儀礼リストに入れるのかな──ともかく僕は『TIDE』のマスターが淹れた珈琲をひとくち飲んだときに、なるほど、たしかに珈琲を飲むのって通過儀礼のひとつだな、なんてつくづく思ったことも覚えてる」
「お話をうかがっていると、ますます飲んでみたかった! ってなりますね」
「そう思うだろ、コウちゃん? 僕も『TIDE』の珈琲を知ってからは、すくない小遣いをやりくりしては、折に触れひとり通ったものさ──……でも、ね」
 木滝はふ、と息をつき、視線を蘭燈へと転じた。かれの視線の先で、海からゆっくりと吹いてきた風が、蘭燈を構成している青硝子の薔薇の輪郭をかすかにゆすぶる。
「産湯がわりに海につかって、海とともにおおきくなってゆく潮泊の子どもたち。それなのに、あこがれ描くモチーフとしての海を愛すことはできても、現実にひろがる海は、波も読めず底すらうかがえない存在として、ただただ、恐怖の対象でしかなかった。
 幼馴染みの源造や正平のように、海へと乗りだせずにいた僕にとって──……珈琲に想いを寄せて七つの海を旅し、長い長い、若造からしたら気の遠くなるような歳月を重ね、マスターが研究し続け、辿り着いたのが、今、僕が口にしている珈琲なのだと知ったときに……すっかり尻込みをしてしまってね。
 それきり、マスターが病を得て『TIDE』を閉じてしまうまで、僕はとうとう足を向けられなかった」
 遠き海からの潮の香をのせ、風が吹く、そこに木滝は溜息をかさねてついたあと、コウにかなしそうな微笑みを向けていた。
「そんなひとり勝手な薄情をしてるくせにね、今でもまだ忘れられないんだ。『TIDE』で珈琲をゆっくり、ゆっくり飲んでいた、あのひとときの思い出を──」
 ひとつぶの涙をこぼした木滝へとかける言葉が見つからず、コウはゆっくりと蘭燈に向けて視線をはずす。
 遠き日の喫茶店をいろどった青色硝子に咲く薔薇は、ただ黙したままに咲き、とまどうふたりを見下ろしていた。


                  2024年 文披31題 Day2.喫茶店

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