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霜月の特効薬

「ここのところずっと暖かい日続きだったのに、いきなりの冷たい雨はひどくこたえますね」
 それが十一月なら、なおさら。そう口にして、老年に爪先を踏み入れた年配の店主はあたたかいココアを差し出してくれた。
 こまかく砕いたチョコレートをゆっくりと、一人用のミルクパンで溶いたココア。手作りとおぼしき厚手のマグカップに注がれたココアは想像した以上にこっくりとあまく、予想以上に冷えた身体を温めてくれた。
「……ねえ、店主さん」
 紅葉に誘われて、というよりは、日が傾けば冷えてゆく霜月の空気から逃れたくなってのあてどないドライブ。その道中で降られた雨にしかめ面しながらふらりと立ち寄った、ちいさなちいさな街の──さらに北のほうの山に囲まれ、ゆっくりと忘れ去られていく宿命を諦観と共に受け入れたような一区画でほとんど奇跡的に開いていた、カウンター席しかない喫茶店でココアをひとしきり啜ったあと、わたしの口はようやくほぐれ、ぽつりぽつりと喋りはじめた。
「秋のメランコリーにはココアがいちばん。わたしはそのことをたしかに、誰かから教わったんです。けれど──それが『誰だったのか』を思い出せなくて。
 いつもは喫茶店で何も入れない珈琲しか口にしない私の、唯一の例外が十一月のココア、になるくらいに染みついているから、遠い遠い、ぼんやりとした記憶にしてしまうのはいやだと、思っているのに……」
 泣こうか、と思っても涙ひとつこぼれもせず、けれどお愛想で笑おうにも、頬の筋肉が変にゆがむのが分かる。
 そんなわたしの顔を、店主はつくづく見はせず──けれど、やわらかい視線を逸らすことなく、やさしく微笑みを返してきた。
「そのことを覚えているなら、けして遠くはない、と思うんですよ、私は……他ならぬ私自身が、そう信じたいだけなのだとしても」
 店主はたっぷりのミルクとひとかけらのチョコレートをミルクパンに入れ、とろとろと弱火で温めはじめる。新しい湯気がわたしと店主の眼鏡を霞がかったように曇らせ、あまい香りが、せまい店をゆったりとたゆたっていく。
「私もお客さまたるあなたに、慣れた手つきで何気なくココアを供しているように見えるかもしれませんが──あなたと同じく、十一月の特効薬はココアであると、たしかに何方かから教えていただいた、はずなのです。
 こんな特効薬に自力でやすやす辿り着けるほど、私の行動半径もこころ模様も、おおきくゆたかに拡がっていくことはない性質と分かっていますから──……それなのに、はたしてそれは何方だったか、今なおとんと思い出せないままなのです。
 空気がしんしんと冴えて冷えゆく十一月、透きとおった青空に映える紅葉、あるいはあわい色の宝石を溶かし込んだような黄昏にこころを動かせぬほど弱ってしまう私に、ココアという特効薬を教えてくれたその何方かこそ、おおげさではなく命の恩人と思っていますのに──そのひとを思い出せないなんて、冷えゆく季節に己の薄情さにうすら寒い思いをするほど、メランコリーが加速してしまうでしょう?」
 店主の問いかけに、わたしは言葉では答えられなかった。かわりに、うん、と子どものようにこくりとうなずいて──すこし冷めて、ざらりとしたチョコレートの舌触りがつよいココアを喉の奥へと流し込む。
 わたしがさっき浮かべていた泣き笑いより、きっと、いま──店主が浮かべているおだやかな笑顔の裏でしずかに流されている涙のほうが、きっとふかく切実で、濃い。
 メランコリーに己の自由を奪われ、かたくぎこちなくこわばる自分を、やわらかくやさしく、ほどいてくれるひとは、きっと──かけがえのないひと、だ。なのに、そのひとを思い出せない情のうすさなんて、この季節にはいちばん直視したくないものだろう。
「……きっと、思い出せます、よね?」
 わたしも店主さんも、と続けかけた言葉は、あまりに軽いような気がして、わたしは最後のココアでそれを封じる。けれど──きっと一度きりの来訪になる喫茶店で飲んだココアの思いがけないおいしさも、店主の笑顔の裏の涙の濃さを感じたこのひとときも、いつかわたしから、果てもなくきりも遠くなってしまうのだとしたら──それが今のわたしには思いもつかないほど、遠い日のことであってほしい。
 そう祈らずには、いられなかった。

                  #ノベルバー  Day22 泣き笑い



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