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雷聲ふさぎの

「おお、また雨がざあざあはしってきて」
「雷も引き連れてきて、まあずいぶんとハデに暴れてくれるぜ」
 南の港に向けてひらけた商店街へと、コウが食料の買い出しに向かうその途上で、唐突に湧いていた黒雲からどう、と雨が降りつけてきた。間一髪、コウは空き店の軒先に駆け込んでいたが──夏の日除けにいくらか庇を長く取っている軒先では、ふたり連れの老爺が、くらぐらとさかる雲がひろがりゆく空を見上げている。
「今年はよくよく海から雷が来るねえ、千ちゃん」
「なぁに金ちゃん、ここで雷ゴロゴロ雨がざあざあ、ってなりゃ、シオミツで女のほうから袖引き留めてくれるってモンよ」
 千ちゃん、と呼ばれた老爺は、褪せた紺色の作業ズボンのベルト穴に括り付けていた手ぬぐいをほどき、短く刈った白髪頭をぐるりと撫でる。いっぽう金ちゃんは、洗いざらしのチノパンの後ろポケットから藍染の扇子を取り出し、丸々とした顔をあおいでいた。その間にも雨は遠慮会釈なく降り注ぎ、青や紫と、とりどりの稲光はするどく天を駆けめぐる。
「そうだねえ……じりじりと灰になってく線香を横目に、なんとか一秒でもながく一緒にいたいと口説いていたのが、すわ雷がゴロゴロはじめると、向こうからこう身を寄せてきたりなんかして」
 金ちゃんが頬を染めつつ目を細めれば、
「雷雨がおさまるまで、傍にいて、なんて頬寄せてきてさ。いつものお転婆がしおらしく、カワイイもんじゃねぇか、って鼻の下伸ばしたこちとらが肩を抱き寄せりゃ、かたかた震えてたりなんかすると、なあ」
 千ちゃんも手のひらをつくづく見つめ直す。
「ゴロゴロ雷、雨ざあざあ、ほんとの夏の幕開けに、なんと乙な縁の神──……なんて」
 空を引っかき回すように哮る雷雨を、金ちゃんと千ちゃんとはめいめいの思い出にふけりながら見上げている。海からの熱風に背を押された黒雲が、シオミツへと向かってゆくのをコウはぼんやり眺めていたが、その視界の先をバリバリ、と紫の稲光が駆け抜けていった。その思いがけない眩しさに、ひゃあっ、とコウは情けない声を上げ、そのまま頭を抱えてその場にうずくまってしまう。
「おっ、あんちゃんも雷は苦手か?」
 千ちゃんがにかっ、と、年齢の割に白い歯を見せて笑いかけてくる。
「はあ、まあ……」
 あまり得意な方もいないのでは、と続けかけ、あわてて飲み込んでいたコウへと、
「大丈夫大丈夫、正直、おれだって昔はシオミツじゃカッコつけてたけど、さて雷が平気かどうか、って言ったら、まあ苦手なほうだし」
 ぱたぱた、と金ちゃんが扇子をコウに向けて風を送りながら、のんびり話しかけてきた。
「オレだってオンナの前じゃ、ついつい痩せ我慢しちまってたんだけどさ──」
 そこで言葉を切った千ちゃんは、金ちゃんとふたりながら顎に手を当て、記憶を探るように目を閉じる。唐突な無言に、さてどうしたものかとコウが尻をもぞもぞさせたところに、また天をいくつにも切り分けるようにして、バリバリと奔る稲光。
「そういや雷っていやあ、総さんとカミさんのひとつ話があらぁな」
 口火を切った千ちゃんへコウが首をかしげると、金ちゃんは軒先すれすれまで歩いていき、閉じた扇子で高台の中腹を指す。
「総さんってのはね──ほら、繁った松の向こうにちらちら瓦が見えるだろ? あそこの家の跡取り息子でね」
 金ちゃんの指し示したほうをコウが見れば、まだ黒がつややかな瓦がいくつも連なっているのが見えた。
「ここいらの海でいちばんでっかい網元の、番頭格を代々務める家でな。総さんってのはオレらの二歳上で、オレらより身体はゆうゆう二まわりでかい、堂々とした男っぷりでな」
 千ちゃんの言を、金ちゃんはうっすらついた溜息のあとで引き取った。「だからねえ、総さんはシオミツでもほうぼうの港でもモテてモテてしかたなくってねえ……あんまりそれが目についたんだろうなあ、親爺さんがほうぼうのツテどころか、網元のご当主さままで巻き込んで、あの馬鹿倅の尻を落ち着かせてくれ、って勢いで縁談を探しまくってたんだよ」
「そいで、この潮泊からはめっぽうとんでもねえ遠くの山で暮らしてたお嬢さんと総さんを、こいつがてめえの縁の糸だと一方的に言い渡し、ぐるぐる巻きに巻きつけちまった」
 ばたばたと雨音が激しくなるのを幸いと言わんばかりに、金ちゃんと千ちゃんは声をひそめる。これから先が話の本番だろうから、とコウは己の耳に手を添え、聞きこぼしのないように、と息までひそめる。
「そりゃ総さんだってまだ二十をすこし出たばかりだし、遊びたい盛りにちらっと写真を横目に見たんだか見ないんだか、な娘と身を固めろ、って親爺さんに言われても、そうそうかんたんに言うことは聞けないモンだよね」
「たしか水無月の梅雨の晴れ間に祝言あげて、暦が文月に変わるより前に、総さんの姿をシオミツで姿をちらちら見かけてさ。俺と金の字はふたりしてあっちゃあ……って顔見合わせちまったよな、あんときは」
 金ちゃんと千ちゃんは盛大に溜息をついてみせると、コウもそれは前途多難にも程があるなあ、と目をきつくつぶっていた。
「これはもう、番頭さん家もしばらく荒れるんじゃないかな、って、口には出さないけど、潮泊じゃみんなして思ってたんじゃないかな……でもね」
 思わせぶりに金ちゃんが口を閉ざすと、相心得た、と千ちゃんが言を継いだ。
「その年の七夕が過ぎたのを境に、総さんをシオミツで見かけるこたぁなくなっちまったんだ」
 金ちゃんと千ちゃんの神妙な面持ちに、ごくり、とコウは唾を飲み込む。軒先伝う樋からも雨水はざあざあ音をたててあふれ出し、飽くこと知らずの雷は縦横無尽に空で暴れて続けている。
「文月の暦を七枚めくったところで、七夕飾りも片付けようか、ってとこだったかな。潮泊に雷雨がやってきたんだ。その雷雨がほんとうにひどくってね。雷ばりばり、稲妻ごうごう、雨どうどうがひと晩じゅう」
「──オレと金の字はシオミツでそいつを見てたけど、こう、青や紫の稲光が暗い空からあたり構わず降ってきてよ。肩にすがりついてオンナがいなけりゃ、自分ひとりで布団かぶって、部屋の隅にうずくまってたいような景色だったし」
「そうしてひと晩たっぷりと暴れまくってた雷雨が、夜明けごろにようよう去ってったあとの朝だったんだよ」
「すっきり晴れ上がって、朝日がキラキラまぶしいなかをさ、歩いてんだよ。総さんとカミさんがふたりして、仲良さげに」
「……え?」
 唐突な展開に、首をかしげてしまうコウ。それを見た金ちゃんと千ちゃんも「そうだろ?」と口を揃えていた。
「総さんたちは雷雨見舞いかたがた、南の港の様子を見て回っていたんだけどもね。シオミツからの帰り路で、並んで歩ってるふたりに出くわしたときは、千ちゃんとふたりして顔見合わせちゃったくらいでね」
「カミさんのほうはさ、祝言の席できれえに化粧してすまぁしてるとこしか見てねえからなんとも言えねえけど、総さんのほうはあからさまにむすっとしてたし、さっき話したようなていたらくだったしなあ」
 狸か狐に化かされてんじゃねぇかと思った、そう言いたげな顔をしている金ちゃんと千ちゃんに、コウもひとつうなずいた。
「まあ、『仲良きことは美しきかな』とは言いますけど……なんというか、たったひと晩でそんなに変わるもん……で、しょうか……?」
 おそるおそる問いかけたコウに、金ちゃんと千ちゃんは腕組みしながら深々と首肯する。
「当然おれたちも、いったい何があったんだろうなあ、って気になってさ。その夜、港近くの詰所の広間をふたつぶち抜きにした見舞い酒の席で、いい感じに酔いが回ったところを見計らって、総さんに聞いてみたんだよ」
「いったいなんだってまた、どんなやりとりがあって、カミさんとあんなに仲睦まじくなってんだ、って」
 またずいぶんと直球だな、と千ちゃんをつくづく見てしまうコウに、金ちゃんがたはは、と笑い声を立てた。
「おれたちの前で、総さんは耳まで真っ赤にして、馬鹿野郎、ってそっぽ向いたんだけどね」
「そこで、朝方にきっちり晴れた分だけ、夕べの雨が空に蒸し返されたんだか、なんなんだか──なんと、二晩続けの雷雨が来やがってな」
「もともと雷雨はそうそう来ないし、長居もしないはずの潮泊に二晩連続なんて、こいつは珍しいこともあるモンだ、と笑い飛ばすより、なんだか不安になっちゃってさ」
「男衆たちは広間の先の長廊下にずらり並んで、窓越しに南の港のあたりをじいっと見つめてんの。そこに数秒ばかり出遅れたオレと金の字と総さんの三人は広間に座ったまんま、しばらく黙って、ガラスの向こうの雷雨を見ていたんだけどな──総さんがぽつりと呟いたんだ。
『お前らは気づいてたか? 俺が雷嫌い──……いや、雷をいやというほど怖がってることに』って」
 その一言に、コウはえ、と目をぱちくりさせる。
「いきなりで驚くよね? でも、そのとき総さん、ほんとに世間話をするくらい、あっさりそう言ってたんだけど」
「幸い、オレたちに他の男衆は目もくれず、窓向こうで威勢良く暴れてる雷に釘付けだったけどよ──この潮泊に男と生まれて、自分の怖がってるモンがバレる、ってのはなかなかの恥なんだぜ。それをてめえからさらすなんて……って、慌てふためくオレたちの前で、総さんときたら、ゆうゆうと話しはじめるんだ」
 千ちゃんが金ちゃんをちら、と見れば、金ちゃんは扇子でひとあおぎしてから、話のバトンを受け取った。
「総さんが語るにはね、『俺は、女ってのは雷でも鳴ろうものなら、あれ怖い、って縋りついてくるモンだと思ってた。だが実は、そうされている男のほうが、痩せ我慢に歯ァ食いしばって耐えてるのも知らねえで、いい気なモンだ、って思ってた』って。
 でも、総さんの嫁さん………しおりさんは、違ってたんだって」
「総さんのカミさん、ってのがめっぽうとんでもねえ遠くの山のほうから潮泊に嫁いできた、って話は最初にしたけども、そこは山に三方挟まれた土地だったらしくて、夏ともなれば毎晩のように、激しい雷雨が暴れるってんだ」
「だからしおりさんも物心つくころには、危なくねえところにさっと身を避けて、腹の奥底まで響く雷鳴に耳をすまして、稲光を飽かず眺めてるくらいにはすっかり慣れた、って、って、総さんにけろっと話して聞かせて」
「いやほんと、総さんの身丈の半分もねえくらいちっせえし、しろくてほっそいのに、えらい肝がすわってんな、って聞いてたオレたちも思ったよ」
 ちら、と微笑む金ちゃんと千ちゃんに、コウは話の続きを知りたげに身をすこしだけ乗り出した。
「昨日の晩、しおりさんはすぐに総さんが雷を怖がってる、って気づいたんだって」
「『大の男が雷嫌いなんて馬鹿みてぇだろ』笑わば笑え、って、総さんはヤケになって吐き捨てるように口走ったらさ──しおりさんは、しろい手で総さんの耳をふさぎながら囁いてきたんだって」

 ──では、そのこわいという本音をすべて、この部屋にいるわたくしに預けてしまってください。

 ひときわ激しい雷鳴が轟くなか、千ちゃんがなぞった遠い日の言葉。それは不思議とコウの耳には、たおやかなひとのやさしい声で再生されていた。

「そんなことを言われたって、総さんだって男だもの、はいそうします、ってすぐに素直になれるわけじゃあない」
「『あんまり俺を舐めんじゃねえ』って強がった総さんに、カミさんはただただやさしく笑いかけてきて、話を続けたんだと。
 『わたくしにとって雷は、これでもか、と後先考えず競り合って、いのちが天高くただ伸びてゆく夏そのもの。だからこそ、つい見蕩れてしまうけれど……だんなさまが雷をお嫌いで恐れているというのでしたら、せめてこの屋敷の、この一間でだけは、わたくしがそれをお預かりしたいと願ってしまったのです。だって、だんなさまは──これからたくさん、いやなものやことに真っ正面から向かい合って、見聞きしなくてはならぬかた。こうして雷雨が猛り狂ったときにだって、ほんとうは怖くても、表では弱味を見せまいと、意地と我慢を通さなければならぬかた。
 ですからせめて、ここにいるときくらいは──……』」
 樋から溢れていた水の勢いがゆっくりと終熄をはじめ、稲光もいくぶんか弱まりつつある気配が軒下にも伝わってくる。
「『いけませんか?』と問いかけてきたしおりさんに、媚びへつらいの影もなく、ただほんとうに自分が総さんのために、そうしたいからしてる、って気づいた総さんは、しろい手を邪険には振り払えなかった、って」
「そんなふたりの近くで、これまたひでぇ稲光が奔ったんだ。硝子障子をびりびり波うたせる雷鳴に、ぎり、と奥歯を噛みかけた総さんの耳をさっとふさいで、まっすぐ目を見つめてきたカミさんが、あんまりうつくしく見えちまった総さんは──譫言みたいに呟いてたんだと。
 『雷、は……ああ、そうだな。俺の負けだと言われても──……俺は、雷が怖い』」
 雨足はゆっくりとやわらかい滴へと変わり、あれほど奔り哮った雷もまた、音と光がかそけくなってゆく。
「そうやって声に出してしまったら、総さん、ふっ、と肩の荷を下ろさせてもらったような気がしたんだって」
「他愛ないまじないかもしれんけどな、って総さんは笑ってたけど、こいつは効果抜群だったみてぇだ。あれから総さん、雷雨のたんびに詰所にはいの一番に駆けつけてるし、カミさんとも最後まで睦まじく添い遂げてたっけな」
 千ちゃんと金ちゃんの昔話がめでたしめでたし、で結ばれて、コウはほうっ、と息をつく。
 いつしか雷雨は高台もとうに越え、また別の陸を目指し、北へ向かっていったようだ。そのあとを追う曇り空の隙間から、海へとかかる天使の梯子。そのかがやく金色を、なんともきれいだと見つめているコウ。
 咆哮する雷雨のあとの、おだやかな光の饗宴を堪能したコウがかるく上体をのばし、ふと脇を見遣ると──金ちゃんと千ちゃんの姿はなく、海からの風がさわさわと、夏に向かう潮の香を届けてくるばかりであった。


                   2024年文披31題 Day8.雷雨

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