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いずれ海より

 ──……なんでこんなとこにテント?
 夕時にはいり、すずしい風が海から吹いてくる。そのただなかで、風に揺れているテントの影を見つけた正太は首をかしげた。
 今日は宿題を忘れたのに加え、梅雨の隙間の晴れを逃すなとばかりに、昼休みのチャイムが鳴っても上級生や同級生たちとドッジボールに夢中になっていた正太は、とうとう担任の堪忍袋の緒を引きちぎってしまった。そのせいで正太は、建付けの良くはない小学校の窓枠を夕暮れが紅く染める時分まで、居残り勉強をさせられていた。
 七月に入った初日、梅雨がいくらか小休止に入ったのか、いつもより暑くなった日の名残がやけにあかるい。小学校のある高台から坂道を駆け下りていけば、かれの暮らす潮泊町がぐんぐん眼下に迫ってくる。褪せた黒の瓦がずらりと立ち並ぶ昔ながらの街並みは、かれの学年が上がるごとに、空き地が増えてゆくばかり。町の年寄りたちが口々にさびしい、せつないとは言うけれど、まだ小学校三年生の正太には、ぜんぜんピンとこなかった。それでも──毎年のように増えてゆく空き地に、ピカピカとあたらしい家が建つことはないだろうと、幼いながらに感じるところはあった。
 そんな空き地の真ん中に、はためいているテントがある。それも、運動会で出てくるような白ではなく、海兵襟で見かける青色だ。
 ──なんなんだ?
 テントのほうへと、正太は潰れた黒いランドセルを背中でおおきく揺らしながら、坂を、階段を駆け降りてゆく。苔がこびりつく石垣を、くすんだ木塀の角を過ぎるごとにだんだん強まっていく潮の匂い。ぴったりと雨戸やシャッターを閉ざした商店たちの隙間から、青い波がちらちら見える街区を駆け抜け、目的の空き地に辿り着いたかれは──目をぱちくりさせていた。
 残照を受け止めるように張られた、ネイビーブルーのテント。その端では、あわい水色や紺碧の硝子がパッチワークのように嵌められた蘭燈がくるくる廻っていた。そんなテントの陰で、携帯型のバタフライチェアに悠然と腰掛けているのは、潮泊町ではついぞ見かけたことがない青年だった。
 くりっとした目にくせっ毛がまず目を惹く人なつっこそうな顔立ちと、裾から胸へと白地に青から水色のグラデーションが効いたTシャツに履き古しのジーンズ。その格好には正太は驚かなかったが──すらっと長くて細い手足はあきらかに、かれが潮泊の男ではない余所者だと雄弁に物語っていた。
「やあコウちゃん、また来てくれて嬉しいぜ!」
 コウちゃん、と親しげに青年に呼びかけながら、潮泊に暮らす男たちはビールを片手にワイワイと、親しげに語りかけている。
「この潮泊もまたずいぶんと寂れちまったろ?」
「ぐるりと海に囲まれながら、島の四方に港を構え、あらゆる商船や軍船どころか、海賊とだって丁々発止の渡り合い──ってのも、もうずーっと昔の話だけどな」
 男たちは祭りのときのようにくいくいとビールを傾け、そのぶんだけ口を滑らかにする。そんな男たちの昔語りを、コウちゃん、と呼ばれた青年はただ、ニコニコと微笑みながら聞いていた。
 今日って祭りでもあったっけ、と正太が首を傾げたところに、潮の香を多く含んだ風が吹きすぎる。その匂いに思わずむせた正太が顔を上げると、意外なひとの姿があることに気づいた。
 ──源造じいちゃんだ。
 正太が暮らす町内にある西の港の桟橋で、源造は海焼けした全身をまっすぐ海に向け、むすっとした顔をしている。そんな源造が、燻した銀色のビール缶を手に、きつい皺をすこしだけくつろげて、あちこち飛ぶ会話をたのしそうに聞いているなんて、正太にはにわかに信じがたい光景だった。
「コウちゃんさ、源もオレもずーっと、コウちゃんが来るのを待ってたんだよう」
 丸々ふくふくと、いつでも楽しそうな笑顔でいる老爺は、正太の名前に一字をもらった、父方の曾祖父である正平だ。
「コウちゃんとオレと、源と三人でさ、海見ながら夕涼みのビール飲んでさ、馬鹿話すんの」
 これまたレトロな冠が描かれた缶を高々と突き上げて、正平が「かんぱーい!」と声を張り上げる。
「いつかの夕涼みの約束が、ここに果たされたことを祝して!」
 正平の晴れやかな声に誘われたように、またふわりと、潮をまとった海からの余り風がテントをはためかせる。
「……ああ、夕涼みにはうってつけの、いい風だな」
 源造がぽつりと呟き、皺だらけの頬を風にあてる。普段はもっと皺をきりきり深く彫らせて、きつく海を見ている源造の横顔しか知らない正太は、さっきからしきりにおとなたちが口にしている「夕涼み」という単語に、こんなに不思議な力があるのか、と目を見張っていた。
「ねえ、そこのきみ」
 ぽかんとしていた正太を、コウちゃんがこっちへおいで、と手招きしている。潮泊の西の港で暮らす男たちが海からの風にあたりながら、なんだかハイカラな模様や色が踊る缶をものすごい早さで傾けているのを横目にしながら、正太はコウちゃんのもとへ駆け寄った。
「喉、乾いちゃったでしょ」
 真っ青なクーラーボックスに手を突っ込んだコウちゃんが、缶をひとつ取り出すなり、正太へとかるく投げた。はっしと受けとった正太は、この潮泊までは見たことがない、きっぱりとした原色の桃が描かれた細い缶に息を呑む。
 そこでコウちゃんはぱちりとウインクしてみせてから、正太の耳元に小さいながらも、はっきりとした声で囁いた。
「海風のおかげさま、の夕涼みで、気分が良くなってるみんなが酔っぱらいだす前に、そのジュース飲みながら、早く帰ったほうがいいよ」
 ふっ、とあわく微笑むコウちゃんに、正太は「……ありがと」と口早に返すと、そのままくるりと背を向けてテントの陰から走りだしていた。


 ──ねっとりとあまい桃の味をちゃんと味わうより前に、喉の渇きにジュースを飲み干しきってしまった正太は、あの空き地から角を三つ曲がったところで、ぴた、と足を止めた。
「あれ……? 源造じいちゃんも正平じいちゃんも、おれ、葬式に出たじゃん」
 源造は冬に、正平は春先に、それぞれ黒と白の幕が海から吹く風にはためくたびに、潮と線香が混ざった匂いがすんなあ。そんなことをぼんやりと思ったっけ、そう正太は思い出す。
「じゃあ、さっきのふたりは……でも」
 源造も正平もふたりながら、コウちゃんにまた逢えてうれしい、と全身で語っていた。そしてそのぶんだけ、盆正月や祭りで会うときよりもずっと勢いよく、缶ビールをぐいぐい傾けていた。
 ──おれが最後に見たときより、ずーっと楽しそうだったから……ま、いいか。
 それ以上考えんのはやめとこ、と正太は手をぱっ、と開き、落ちゆく缶が地面に触れるより前に高々と蹴り上げる。
 黄昏の闇を誘う風のなかでくるくる回る原色の桃がやけにつやつやしてる、そう、正太の目には映っていた。


                  2024年文披31題  Day1.夕涼み

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