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いくつもの、息を埋めて

「ここが、シオミツ……」
 さまざまな破片や石ころに埋められそうになっている路を前に、コウは息を飲んだ。
 港の端から高台へと続く坂道の半ばで見えてきた路を左に曲がった先には、背の高い樹がずらりと並んでいる。常緑の、重たい緑の葉先がぎちぎちと触れ合うその下に、二階建ての建物が押し黙るように点在していた。重く閉ざされた雨戸やシャッターに傷をつけながら、かつては色がついていた、と分かる瓦の欠片が、いくつも路に落ちている。しかしそれは、街全体で色を揃えたような感じではなく、それぞれの建物の主がめいめいに、己の好きなように選んだ感があった。建物の建築様式もバラバラなのに、店の名を掲げた看板の色は、褪せてなおをどぎつく映る。その縁を飾り立てる、かつてはけばけばしかっただろう電球も剥げているのを見るにつけ、ここがかつて──といっても、つい三十年くらいまでは潮泊でも随一の歓楽街だったとは、コウにはやはり信じられずにいた。
 ──昨日、うしお屋の前で会った末松に襟首を掴まれ、連れて行かれた小体な居酒屋。そこに陣取っていた潮泊たちの常連たちへ、末松が蒼色の琥珀糖の話をすると、次の瞬間にはほんとうにさらりと──息をするのと変わらないくらい自然に、話題はシオミツなる街にまつわる昔語りへとうつっていた。
今のご時世、そうはおおっぴらに聞けないような話のあれこれを、いくぶんか耳を赤らめつつ、グラスビール片手にコウが聞いていると、
「シオミツに行くなら、こいつを持ってきな」
 居酒屋の店主がカウンターのなかから、細長い桐の箱を差し出してきた?
「これは?」
 いぶかしむコウに、店主は方頬をかすかに上げた。
「シオミツにいるあいだ、時間と呼吸をはかるのに入り用なモンだ」
 はあ、とコウが手のなかの桐の箱をつくづく見つめていると、
「なんだ、あんちゃんはシオミツ見にいこうってのか!」
「行くなら感想教えてくれよ!」
 酔っぱらいたちが口々に外堀を埋めてきて──シオミツなる街、の痕に足を踏み入れることになってしまった、コウはテントをたたみ、玻璃混ぜ硝子の蘭燈を手にここまでやって来たのである。
「そうそう、あの箱の中身って」
 コウが蓋を開けると、なかには五本の線香と、ちいさな雲をかたちどった香立てが入っていた。ずっと昔にあった色街では、火を点けた線香が灰になるまでが、逢瀬にゆるされた時間だったらしいが、これがそうか、とコウはうなづく。
「それでは、最初の一本を」
 街の入口で、コウはライターを線香に向けた。かすかな火の色に遅れて、立ちのぼったしろい煙はすうっ、と街の奥へと流れてゆく。霧のようにしろい煙は、南からの潮風と、北の高台の松を抜けてきた風と重なり合い、おぼろな像を結びはじめた。
 溜めてつく息の裏に、あのひとだけを通してくだんせ、と秘めた本音。
 ひと夜の恋、つかの間の逢瀬へと誘う吐息。
 もう深入りしても詮無いのに、と愚弄に揺れる息づかいのあとに聞こえてくる。猛々しい息づかい……
 たった一本の路沿いにわだかまる、さまざまな呼吸の記憶たち。その残香にいつしかその身を絡め取られたように、ふらふらとコウは酔ってゆく。そこに、重なる枝葉をごう、と鳴らしながら、青を帯びて海から吹いてきた風に線香の煙はさらわれる。それをしおに、最後の灰がはらりとくずおれたところで、我に返ったコウは肺の奥から深々と溜息をついた。
「シオミツ、って街そのものが、生きものだったようなところだったのか──だから、朽ちてしまってもまだ誰かの息づかいや、もしかしたらヒトの呼吸そのものを欲しがってるようで」
 そんな貪欲で底知らずの熱気はまだ、知らなくてもいいのかも、と苦笑するコウ。
 ──……ウブなこと言って逃げようなんて、そうは問屋がおろさんよ。
 そんなコウのほそい肩を小突くように、きつい線香の残り香がひとときまつわりついてから、街の痕にさあっと溶け込んでいった。


                   2024年文披31題 Day6.呼吸

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