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忙(せわ)しさに薫風を吹かせる

なぜ、忙(せわ)しくなってしまうのか。
忙(せわ)しさの中に埋没してしまうのか。

茶の湯の道を歩くようになって、思うことがある。
数年前の私は、いつも「○○しながら」が、日常化していたのだ。

洗濯をしながら、今日の仕事のことを考え、
洗い物をしながら、あの人の言ったことを繰り返し考える。
お風呂に入りながら、早く寝なきゃと思い、
歩きながら、まだ来ぬ未来のためにすべきことを考える。

それの何が悪いのか。いいや全然悪くない。
そういうものだと思って生きてきた人間にとって、それはあまりにも当然のことで、呼吸をするようにしていることだから。

茶の湯は、そんな私に一石を投じた。
それが当然であり、それが自然なことであったと信じて止まない、凪いだわたしの心にポチャンと石を投げ入れてきた。

茶の湯は、「今ここ」を大切にする。そんなことわかっていた、、、つもりだった。でもそれは、絵に描いた餅。現実に顕れてくることはなかった。
茶の湯の中で、身心をもってそれを体感したら、世界が少しずつ変わっていった。

「今ここ」を大切にする。

茶の湯のお点前の中では、今この瞬間している動作は、一つだけ。
茶入れを掴む。茶入れを持ち上げる。茶碗を右手で持つ。茶碗を取り上げる。茶巾で拭く。茶杓を持ち上げる。あるべき場所に構えたら、次の動作に移る。

次の動作に、「氣」をやらない。それは、視線一つとっても、そうだ。茶巾をあるべき場所に持っていって、置く。この茶巾が置かれるまで、私は茶巾から目を離さない。次に茶杓に手が伸びることを身体は知っていても、やり切るまでは、私の「氣」は全部「茶巾」に向かっている。それを全身全霊でやる。それが終わったら、次の動作をまた全身全霊でやる。

その「いま、いま、いま」の繋がりが、一服の茶として、この世に結実する。

いつでも頭の中が忙しかった人間が、これに取り組んだ結果、どうなったか。

ただ、「洗い物」をすることができるようになった。

季節ごとにかわりゆく、水の冷たさを感じ、肌をまとわりつくように流れ落ちる水をスローモーションのように感じる。
食器を置く音に耳を澄ませ、心地よい音が奏でられたことに自分が癒される。
食器が心地よいように、洗い物かごに置いていく。手が動く。
不安になるような持ち方はしない。洗い場に不安が広がるから。
丁寧に丁寧に。
洗い場が心地よさでいっぱいになる。
水の流れる音も、食器が触れ合う音も耳に優しい。

そうして、終わった頃には、自分の内側が広々としていて、そこに清々しい風が駆けていくのだ。

「今ここ」。

その繋がりの向こうに、いのちである自分を深く感じる。
いのちである自分が、生きて、世界を楽しんでいたことに気づく。

忙(せわ)しいなら、5分だけ。
それだけをしてみる。
家事は、わたしの味方だ。
やるべきこと、やらなきゃいけない、毎日のこと。
そのたった5分で、私の中には薫風が吹き渡る。

それだけをすると決める。

そのたった5分が、忙(せわ)しなさが幻想だったと気づかせてくれる。
「今ここ」は、どこまでも静かだから。

今日も読んでくださってありがとう。

明日美


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