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一駅の恋

『ご乗車ありがとうございます。この電車は急行…』

東京に来たのは一年ぶり。
その一年ぶりのビックイベントだっていうのに、行きは電車が止まっていた。帰りも止まっていたらまたあのぎゅうぎゅうの電車に乗らなきゃいけないところだった。
迎えに来てくれた友人の第一声を聞けば、俺がどれだけ不機嫌だったか解る。
「おまえ、何かあった?」
大学を卒業してから2年会ってなかった友達に呼ばれた時は驚いたが、学生の時は本当に仲の良かった友達だったから、素直にOKをして、東京へ出向いた。

電車が動き出す。
『横浜には23時43分頃の到着を予定しております…』
昨日もこの電車で帰る予定だったのに、あいつが泊まって行けと言うから、帰るのが24時間遅れてしまった。
奥のドアの手すりに寄りかかった。窓の外を見ればよかったものの、なぜかそのまま車内に身体を向けた。
すると、目の前、つまり電車の真ん中あたりに立っていた一人の女性と目が合った。
反射的に、身体ごと窓の外に向けた。
回ったはずみに自分の服が彼女に触れたのがわかった。
外の景色は真っ暗で見えない。その代わり、窓のガラスを反射して車内の様子はよく見える。
先ほどの女性が少し気になって、身体の角度を調節した。
おとなしそうな大きな目を下に向け、長めの黒い髪を後ろでひとつに束ねている。真っ白のワイシャツの上に、白い上着を着ている。下は濃いピンクのスカート。そこから黒いストッキングの足が伸びている。ハイヒールを履いても俺より10センチ以上小さい、美しい女性である。
彼女の目線が窓の外に向いている事に気付いた。俺と同じ様に窓越しに俺を見ているのだろうか。だとしたら俺が彼女を見ているのもわかってしまう。
慌てて目だけ横に滑らせた。
ずっと横に滑らせると、隣のドア付近に立つ人達が視界に入った。
スーツを着た中年の男に混ざって、OLらしい女性が1人立っている。
彼女もまた俺を見ていて…目が合った。
仕方なくまた視線を戻した。
真っ暗の中に点々と灯りが灯っている。この辺は降りた事がない。何があるんだろうか。
ふと、かかとにわずかに何か当たるのを感じた。
窓越しに後ろを見ると、さっきの女性が一歩近づいて来ている。
今度は、背中に何か当たるのを感じた。
窓越しに状況を確認した。
彼女の後ろを見ると、人が増えているように見える。
きっとそれで前に出てきたはずみで俺に当たってしまったんだろう。そういう事にしておこう。
しかし、そのおかげで彼女の顔が窓から外れてしまった。
なぜだか、すごく悔しい思いになり、思い切って身体の角度を変えた。すると、そのはずみで隣のドアにいた女性を見た。まだこっちを見ている。
まさか俺が痴漢だと思われているのだろうか。だとしたらこのまま角度を変えるわけにはいかない。
またさっきと同じ格好になった。彼女の顔は見えない。
残念だが、このまま外を眺めているしかない。
早いスピードで流れる景色をぼんやりと眺めた。
しかし、頭の中は真後ろにいる彼女で一杯だった。
なんでこんなに気になるのか全然わからない。まさか一目惚れか?そんな、まさかな。
「どこかで会った事ありましたっけ?」
などと聞く事ができたらどんなに楽だろう。
むろん会った事などない。ただ単にナンパ行為になるであろう。しかも、こんな電車の中で。
しかし、聞いてみたくてたまらない。
そんな事しか考えられなくなってきた頃、次の駅に着くというアナウンスが流れた。
これで彼女が降りれば全てが終わる。別に何が始まったわけではないが、もう一生会う事はないと思うから、もうこんなに無駄に苦しむ時間はなくなる。
もっと同じ時間を過ごしたい。でももう降りて欲しい。
どこかで聞いた事あるセリフだった。

1週間前、友達に言ったセリフによく似てた。
まだ好きなんだ。まだ一緒にいたいんだよ。でも、もう止めたい。
そんな事を誰かに話したのは初めてだったけど、友達はちゃんと聞いてくれた。
翌日、彼女と話をした。
彼女もまたちゃんと聞いてくれたし、解ってくれた。
同じ事を考えていたらしい。
昨日突然東京に呼ばれたのは、あの頃のメンバーで飲もうって事だった。
男だけだと思っていたのに、誰が計ったか、3対3になっていた。
学生の頃から俺の事が好きだったと話す女がいた。明らかに酔っているから吐いているセリフなのに、心が揺れる自分が許せなかった。
結局、皆それぞれカップルとなって解散した。俺はその彼女と一緒に近くの公園へ行った。
できれば行きたくなかったし、電車の時間もなくなるからと友達に言ったが、「もう間に合わないから、楽しんで行け」と言われ、仕方なく酔った彼女と夜の公園を歩いた。
彼女とは高校の時以来だ。あの頃も綺麗だったが、さらに綺麗になっていた。しかもベロベロに酔っているから、このまま放り出したら何が起こるかわかったもんじゃない。
「仕方ない」なんて言い訳だろうけど、彼女と一緒に過ごす事になった。しかも、帰りの電車はもうない。
行った公園だって、ただの酔い覚まし。そのままだと行く所は決まってしまうから、とりあえず彼女の判断力を戻したかった。
くだらない話に1時間ほど華を咲かせていただろうか。
ふと彼女が立ちあがって、俺の手を引いた。
「うちに行こう。」と。
彼女の家はそこから近かったらしい。
とりあえず行く事にした。もう何が起ころうと、覚悟はできている。と言うと格好付けになるが、もうそろそろ俺の理性に限界がきていた。
ほろ酔いの美女が誘ってくれているんだ。何もせずに帰るのか?
歩行の安定しない彼女を抱えながらでも15分ほどで着いた。
彼女の鞄から鍵を出し、開けた。肩を貸しながら家に入り、鍵を閉めた。
彼女の行動は、明らかに俺を誘っている。言葉でも。態度でも。
しかし、どうしてもあと一歩が出なかった。
今、彼女がシャワーを浴びている。何も言わずに俺の目の前で脱いで。
本能は暴走寸前だ。しかし、暴走の仕方を忘れてしまったらしい。
彼女が出てきた。明らかに挑発しながら部屋に戻って来る。
「俺も借りるね」だけ伝え、部屋を出た。
あれだけ酔っていればベッドに入ればすぐ寝てしまうだろう。
シャワーを浴びた後、俺は音を立てずに家を出た。
しかし、彼女は酔ってなどいなかった。しかも、俺の行動まで読んでいた。
俺が家を出た瞬間、彼女が奥から歩いてきた。
「相変わらずね」
俺は再び部屋に戻る事になった。
「誤解しないで」
昔と変わらない、鋭く美しい目だ。
「確かに私はまだあなたの事が好きよ。襲ってくれても構わないわ。でも、あなたはそんな事しないって解ってる。ただ…楽にしてあげたいだけ。」
これだけの女がどこにいるだろうか。俺はわけもわからず、誰かに彼女を自慢したくなった。
思わず、俺は笑ってしまった。
彼女は「真剣なのよ」と怒っていたけど、別に可笑しかったんじゃない。ただ、嬉しかった。
結局、俺はそこで寝たよ。何かあったかどうかは、教えないけど。
そして翌日、彼女は俺の話聞いてくれた。
俺はまた言った。
まだ好きだった。でも、別れなきゃいけなかった。

電車が止まった。
俺はガラス越しに状況をうかがった。
ドアが開き、乗客が降りる。この時間でも、乗ってくる人はけっこういる。
ガラスの視界から彼女は消えた。隣のドアの女性はまだいる。もうこちらは見ていない。
新しい乗客は、これから二次会にでも行くような、テンションの高めの集団。
ふと、視界の端に気に止まるモノが映った。
改めて見るまでもなかった。
彼女は降りていなかった。
しかも、位置を変え、俺の目の前にいた。
少し驚いた表情をしてしまった。
彼女が不思議そうな目で俺を見た。
「何でもない」と言うように笑顔を見せた。
その後、全く予想しなかった言葉が聞こえた。
「どこかで会った事ありませんか?」
言葉にならない返事を返した俺に、彼女は続けた。
「間違えていたらすいません。でも、そんな気がするんです」
「あ、いえ、多分ないと思いますよ」
「そうですか…すいませんでした」
驚いた。まさかその言葉が向こうから来るとは。
その瞬間、俺の中に何かの感情が激しく込み上げた。
「このまま終わっていいのか?」
さっきまであれだけ気にしていた女性が、向こうから声をかけてくれたんだ。これを逃さない手はないんじゃないか?
脳内が忙しく回る中、また彼女から声をかけてきた。
「あの…」
「はいっ?」
「せっかくですから、お話相手になっていただけませんか?」
聞き間違いでなければそう聞こえた。
さすがに電車の中だから遠慮しているのだろう。すごく小さい声だ。あるいは元からそういう声なのか。
「はい、いいですよ」
「よかった」
ふと見せたその笑顔が、何かを思い出させた。
何も含まない素直な笑顔。あの頃はまだこの笑顔が見れた。
いつからあの笑顔は変わって見えてしまっていたんだろう。
思えば先に好きだと言ったのはあいつの方だ。
照れくさそうに俺の耳にそっと言ってくれた。二十歳の冬だった。
何が理由で付き合いだしたのかなんて思い出せないけど、お互い「好き」という単語を口にする事はなかった気がする。
今では言えるはずだ。きっとお互いが、お互いを。
でも、別れが一番いい決断だった。少なくともそう思ったから、そう決断をした。
「あの…」
彼女はいったい何歳なんだろうか。
見た目では俺よりも明らかに若いが、大人にしかないような雰囲気を持っている。
「どちらまで行かれるんですか?」
「横浜です」
「そうですか」
こんな他人行儀な会話久しぶりな気がする。
「あなたは?」
「私は終点まで」
「そうですか。大変ですね」
「ええ、電車の中は暇で…」
ふと思った。
彼女は本当に俺と「どこかで会った気がする」んだろうか。
暇つぶしに会話相手が欲しくて話しかけてきたのではないか?
「今日はどちらに?」
「あ、ちょっと新宿の方で…」
「私も新宿帰りです」
「あ、そうなんですか」
「何をなさってたんですか?」
どうしてこんなに聞いてくるんだろう。
「ちょっと友達と飲んでて」
「そうですか。お疲れ様です」
また彼女は笑顔を見せた。
あの頃も相手の事ばかり聞いてたな。
いつからだろうか、自分の事しか話さなくなったのは。
「私は演劇の公演を見に行っていたんです」
「へぇ。趣味で?」
あ、敬語抜けちった。
「いえ…ちょっとワケありで」
「あ、すいません」
って、そう言えば彼女から話出したんだよな。
って事は聞いて欲しいのか?
「聞いてもいいですか?」
「あ、えっと…別れた彼が出てたんです」
「あ…すいません」
「あ、いえ…1週間ほど前に分かれたんですけど、チケット買っちゃってあったので…」
「そうですか…」
こんな偶然あるものなのだろうか。
俺は演劇などしてないが、境遇は似てる。
「実は…その彼が…あなたに似てるんです」
「え?」
「すいません」
「あ、それで会った事ある、と」
「はい」
可愛い事をするな。
要は寂しさ紛らすための逆ナンってわけか。
声かけられなかった俺より勇気ある人だな。
『まもなく横浜。横浜でございます…』
「あ…次…で降りるんですよね?」
「あ、はい。」
「そうですか…」
彼女の顔が、みるみる悲しい顔になっていく。
「彼氏に似てるから?」
「はは…そうなんです。これで本当に別れちゃうような気がして…」
「そうですか…」
だからと言って乗り越すわけにいかない。
次第に電車の速度が遅くなる。
ホームには比較的多くの人が立っている。
電車が止まる。
ドアが開き、乗客が降りる。
「それじゃ…」
「はい…さ…」
彼女がついに涙をこぼし始めた。
「泣かないでください。あなたの彼は、俺じゃありませんよ」
「そうですよね…ごめんなさい…」
「そんなにまだ好きなら…もう一度行ってみればいいじゃない。彼の所へ」
「はい…ありがと…ございます…」
「それじゃあ。」
ドアを出て、ホームに立つ。
なんとなく、後ろを振り返りにくかったけど、このまま背を向けているわけにいかない。
ゆっくりと後ろを振り返る。
身体が完全に電車の方を向く前に、唇に何か、柔らかいモノが触れ、鼻に心地良い香りが舞った。
「ありがとうございます。明日、彼の所行きます」
あの美しい笑顔はガラスにし切られ、横へ流れて行った。
それからしばらくそこに立ち尽くし、鞄から携帯電話を取り出した。
電話帳を探したが、やはり消してしまっている。
しかし、番号は覚えている。
それを一つ一つ思い出しながら、ボタンを押した。


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