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【ワートリ創作小説】前夜

※以前別媒体に公開していた作品です。
※オリジナルキャラがいます。苦手な方はご注意ください。


「お嬢様、ヒュースが来ましたよ」
その声に従って扉の方を向くと、そこには1人の忠士が立っていた。

 黒いマントに覆われた背筋はまっすぐ伸び、正面から見据えてくる青色の視線と直角に交差している。黄土色の髪の間からは白い角が生えていた。見慣れていたように思っていたけれど、戦士の恰好をした上でそれを見ると、何とも言いがたい思いが胸に湧く。

 彼の名はヒュースといった。

 窓辺に置いていた手を離すと、ドレスの裾がシャラシャラと音を立てる。外では星くずの混じり始めた銀色の風が吹いていて、夕日の色あせる世界の中を、皮肉に思えるほど自由に駆け回っていた。

「これから遠征艇に乗ります。その前の挨拶に」
「わざわざありがとう」
「当然のことをしたまでです」
「……もう行ってしまうのね」
そう問うと、瞳をかすかに揺らしたヒュースは少しだけ顔をそらす。まぶたに髪の影がかかって、どこか別の人のように見えた。

 彼らはこれから、遠い玄界に向かう。若い、年下の少年が遠征の一員に選ばれることなど、滅多に無かっただろう。剣を握りしめて悔しそうな顔をしていた小さな少年が、いつの間にここまで来たのか。時の速さを感じる。……この国――アフトクラトルが急速に傾き始めているのと、同じ速さを感じる。

 神の御手が崩れ、この国の者たちは揺れている。ある者は現実から目を背けて手を合わせ、ある者は生き残るために自らの手を血で汚し、ある者は人の手を汚させ、またある者は……。

「必ず戻ります。オレは、主の名に恥じることは決してしません」

彼はまっすぐに呟き、静かに拳を握りしめた。

 「……そういうところ、本当にまじめね」
思わず笑みをこぼすと、ヒュースは少し困ったような、それでいて不本意そうな顔をした。
「そんなことはありません」
「まじめな人はそう言うのよ」

 握りしめた手の大きさ、伸ばした背の高さ、成熟した表情。……大人になってしまった。
 賢く、強く、でも甘えん坊なところもある。どこにでもいるような、でもどこにでもいない。家族のように接してきた少年は、これから戦争に行く。

 いつの間にか、幼い頃を思わせる表情が消えていた。そこにはどこか、死さえ覚悟しているように思えた。

 「……ヴィザによろしくね。それから……ハイレイン様にも」
彼はうなずいて、深く頭を下げた。そして、クルッと踵を返す。遠ざかる足音。その背中に、名残惜しく声をかける。

 「ヒュース」
「……何でしょう」
「戻ったら……一緒に、おいしいものを食べましょう。1人で食べるより、皆で食べる方が、ずっと楽しいから」

静寂が生まれて、前髪の中から澄んだ青の瞳がのぞく。厳しさが少しだけゆるんで、泣きたくなるような色に変わった。

「了解しました」

その声が凛と響いて、すっと心の中に溶けていく気がした。

 エリン家を、そして彼を襲うであろう、様々な出来事を考える。全て想像の範疇であってほしいと思う。この国のすべての人が幸せであってほしいと思う。しかし、神となる存在を犠牲にしている時点で、叶わないことなのだろうか。そうであればいっそ私が……。

 バタンとドアが閉まった。
 ひるがえるマントが残像として目の裏に残る。それを刻みつけながら、窓の外を見る。数えきれないほど多くの星が、藍色のにじむ空に瞬いている。

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