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【ワートリ考察】ワートリキャラの精神年齢の高さについて考察してみた



始めに


表題の通りである。
ワートリのキャラは、皆精神年齢が高い。全員、最低プラス1歳はないとおかしいくらいである。

遠征試験で求められるレベルが、中高生に求めるそれではない。あのゲームの内容を理解するのでいっぱいいっぱいなのに、他のチームとの駆け引きにまで頭が及ばない。とんでもないレベル感だ。
さて、この考察では、なぜ彼らの精神年齢はこんなにも高いのか、ということを考えていく。

なぜ彼らは精神年齢が高いのか


①葦原先生(および周辺)の精神年齢が高い
葦原先生ご自身および周辺の方々の精神年齢が高く、「16歳ならこれくらいだろう」というキャラクターが、我々から見ればもっと年上に思えるレベル、という考えである。恐ろしい。
6人格(猫格?)いてむしろ読者から納得されるような緻密な設定と、ヨミばりの完全並列同時思考でもやっているのかというほどの同時並行でのキャラの掘り下げを可能にする先生のことだ。そのくらい精神的に成熟していてもおかしくはない。
ただ、20歳ごろの先生はジャクソンに似ていたということなので、この説はどうなのかわからない。

②戦争をくぐりぬけているゆえの精神年齢の高さ
①はメタ的な視点だったため、もう少し作品に則した形で考えよう。
作中のキャラクターは、ネイバーと戦った経験またはネイバーから攻撃を受けた経験を有している。そういった経験から、年相応の人たちより少し大人びているのでは、という考えである。
たまに、クラスの中でやけに大人びている人がいる。そういう人は過去につらい経験があったり、苦しんでいるのを隠していたりすることがある。『ヒカルの碁』で急にヒカルが大人びるのは、佐為がいなくなったショックからだったように。
ネイバーから襲われたり、ネイバーと戦ったりするのは、どう考えても学生の日常ではない。三輪や千佳、華さんのように、家族を失った者がいる。家を壊された者がいる。友人を誘拐された者がいる。その非日常に慣れきっているがゆえに、哀しみを人より多く味わっているがゆえに、彼らは大人びて見えるのではないか。

自己犠牲的なヒーローはなぜ生まれるか


自己犠牲的なヒーローは、称賛されるが同時に危ういものである。なぜなら、自分の身の危険を度外視するからだ。例としては、自分がミラのトゲに刺されることをわかって突撃した修、入隊会見でその鱗片を見せていた嵐山などが該当する。
 彼らを非難したいわけではないという気持ちを全力で表明した上で考えたい。なぜワールドトリガーの世界で、自己犠牲的なヒーローが生まれるのか。

それには、第一次侵攻に限らずネイバー侵攻の影響があるのではないかと考える。
侵攻を見、人が死ぬのを見る。助けられなかった人もいるだろう。そんな中で、彼らはおそらく襲ってきたネイバーを憎むのではなく、何もできなかった自身を恨んだと考えられる。
姉を亡くした三輪は、もちろん自身の無力を憎んだだろうが、どちらかと言えば彼は根本原因であるネイバーへと恨みを向けた。しかし、修や嵐山さんは違うように思える。
人を助けられなかったという自責の念は、おそらく元から持っていた人思いの性格を捻じ曲げて強化される。「人のためならどんな手段もいとわない。自分が死んでもかまわない」という極端な考えである。だから修は是が非でもボーダーに入ろうとし、嵐山さんはさらっと「最後まで」と言う。
修の場合は、自分が何もできなかったと考えるであろう対象がわかりやすい。麟児さんの一件(広くとらえれば千佳の一件)だろう。自分も少しだけ関わっていたのに何もできなかったという無力感が、修を突き動かしている。
嵐山さんの場合は、何だろうか。今後彼の過去は深掘りされるのだろうか。おそらく彼の入隊理由には小南が関わっているだろう。初期メンバーの大多数が亡くなり、ショックを受けているであろう小南を見てもいるはずである。そこは何か、彼の入隊理由に関わっているのだろうか。彼は、どこまで知っていて、何を理由に入ったのだろうか。純粋な正義感なのか、それとも別の理由か。

ともあれ、ネイバー侵攻の影は、この作品について回っていると思う。

最後に


この作品のキャラの精神年齢は高い。しかし、彼らが完璧超人であるとは言えない。繰り返しになるが、その背後には、ネイバーによる侵攻の影があるからである。感情を押しつぶした城戸さんもそうだ。彼らは一見とても大人びているが、同時にどこか歪んでいる。
遠征試験で、そのあたりが少し見え隠れしているようで、個人的にはとても興味深い。年相応の部分と大人びた部分のズレ、そこには彼らの苦悩がいっぱいつまっているはずだからである。

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