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「家族の日」が苦手な私(書いているうちに姑と夫への愚痴になってしまった話;;)

「父の日」「母の日」「子供の日」等々の、いわゆる「家族の日」が苦手である。

 ここ韓国にも、家族の日は存在する。「子供の日」は日本から伝わっているらしく、同じ5月5日。一方、「父の日」と「母の日」は、「父母の日」として5月8日と定められている。「夫婦の日」「先生の日」もまた5月。
 こういう事情で、韓国の5月は、何かと忙しい時期である。日本と同様、天候的にも過ごしやすい季節であるため、「家族でお出かけ」も多くなる。

 さて「家族の日」が苦手な私。なぜなのか?
 「〇〇の日」なんだから⇒「何をしよう」に気を使い過ぎるのか、何やら気疲れしてしまうのだ。「心の向く範囲ですればいい」とは分かってはいるが、、、ひどく疲れる。

 その原因のひとつと思われることについて、少しだけ。
 
 私は子供の頃から「人との交流」を苦手としていた。まあまあ上手くできるようになったのは社会人になってからかもしれない。それを単なる「一人っ子だから」なのだと思っていたのだが、私みたいな人は一定数存在し「HSP」という生まれつきの気質なのだということを、最近知った。
「HSP」は最近よく耳にするようになったため、ご存じの方も多いかもしれないが、ご存じでない方はこちら↓をどうぞ。

 病院に行って調べてもらってはいない。だが「HSP」に関する記事を読むと「あてはまるかもしれない」レベルではなく、「これ私だ」と断定できてしまうほど、ほとんどの特性にあてはまっている。

 そんな私。「家族の日」に疲れてしまうのは、家族に非があるということより、HSPであろう私が、異様なまでに気を使ってしまうことが大きいと思っている。自分勝手に空回りしてしまうわけだ。

実家の親
 「何をすれば喜ぶだろうか?何を御馳走すれば喜んでくれるのか?」相手に、直接訊くこともできない。実家の親でさえも難しい。下手にお金がかかってしまうと「あんたお金なかとやろ?」(ないんでしょ?の長崎弁)心配され、逆におこづかいを渡されてしまう。歳も80過ぎの老親。食もすっかり細くなっているため、御馳走するのも限界がある。結局、「感謝の言葉」だけになることもあるが、私自身に何か物足りなさを感じ何か申し訳なく思う。頼りない娘で情けなくなるし、いろいろ心苦しくなってしまう。
 

子供
 普段贅沢をさせているわけでないため、この日だけは何かしてあげたいという気持ちがあった。
 韓国では、子供に「モノを与える」ことについて日本ほど抵抗がないような気がする。欲しいモノを全部与えていると我慢が効かない子になってしまいそうで、私は制限を設けていた。しかし、他の韓国人のお母さんたちを見ると、子供の欲しいモノを惜しげもなく与えようとする人が少なくない。友達と比べると、少ないおもちゃしか持っていないという劣等感を感じる我が子を見るのは辛い。
 だからこそ、子供の日には、高くても一番欲しいモノを買ってあげたいとと思っていた。「何が欲しいの」と訊くと、うちはオモチャが買えない貧乏だと思っている子供たちは、遠慮がちに「〇〇^^!だけど高かったら要らない」と答える。 
 それを夫に伝える。検索する夫、、、「これ高いじゃないか!!」とぶつぶつ言いだす。余裕があるわけでもないが、買えないほどじゃない。単なるケチの塊だ。(愚痴ってしまった;;)子供と夫の間に挟まれながら、夫との感情戦が始まる。私も我の強さにかけては負けていないので、結局勝つが、内心ドッと疲れてしまっている。

義父母
 
「家族」という枠で括られているが、実際は全くの「他人」の方々。正直、この関係が一番疲れる。これは日本でも一緒だろう。しかし、韓国では、嫁というもの、舅姑のいう事をよく聞き心底から仕えなければならないという美徳が日本よりも強くある。儒教の影響だろう。だが本当にこんな美しい関係を維持している人を直接見たことない。(笑)建前は仕えているように見えるが、本音はドロドロのヘドロだ。それでも韓国人嫁は、夫や周りに不満をぶちまけながらも何とか耐え忍ぶ。「父母の日」にも、建前上のサービスを行う。姑の期待以上であれば、「よくできた嫁」になるし、それ以下であれば「できない嫁」の烙印を押される。
 私もできることはしたつもりだが、姑の期待以下なのだろう、「できない嫁」の烙印を押され続けた。「モノ」に対する執着の強い姑は、高価な家電やブランドものが好みである。「他の嫁は、最新の〇〇を姑にプレゼントしたんだって」姑はそんな話を私にする。「自分も欲しい」ということを間接的にアピールしてくるわけだ。
 結婚後10年間くらいは、何かしてあげたい気持ちはあるにあった。しかし、私の乏しい給料だけではどうにもならない。夫との兼ね合いがからんでくるが、夫は夫で「カネ」への執着がすごいものだから(この親にして この子あり;;)3者の感情戦に突入する。疲れること半端なし。
 負の感情をつつくような姑の言動(これが嫁いびりってやつか)、夫との関係も悪くなってしまい、5年前だったかな。家族の日を目前にした5月に姑、義家族と絶縁した。限界だった。死ぬまでこの人たちと家族としてやっていかなければならないのか?自分が倒れると思った。周りに相談もしたが、「そんなもんよ、我慢するしかないね」が大方の意見。上手くやり過ごせる人が大半なんだろう。私には無理だった。

 書いているうちに、思いっきり脱線。夫と姑への愚痴になった。書き直そうかなとも思ったが、地の私が出ていて、これはこれで良しとしたい^^
 しかし、一方的に絶縁してしまったのは、良くなかったとも思っている。  あの当時は、HSPな側面が強く出ておりメンタルがいろいろやられていた状況で、平静に物事の判断ができていなかった。でも、もう終わったこと。和解?する気毛頭なし。

 そんなわけで5月になると、喜びよりも憂いの方が先んじてしまう。そういえば、以前「敬老の日」を目前に自分で死を選ぶお年寄りがいるという話を聞いた。祝う人、祝われる人の思いが錯綜する日。両者の思いが合致すれば喜ばしい日なんだろう。だが実際は、そうでない人たちも一定数いるのではないだろうか。

今回の素敵なイラストは、tomoさまの作品をお借りいたしました。ありがとうございます^^

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