鬼滅の刃の終わり方に大満足だったという話
※当然ですが最終回までのネタバレが含まれますので、ご注意ください。
私は炭治郎が鬼になった時「ああ、これは第一話の逆転の構造を経て、禰豆子と2人、雲取山の炭焼き小屋に帰ったところで完結するんだな」思った。
主人公が冒険の始まる前の場所に戻って終わるというのは、伝統的なファンタジーの基本セオリーである。先生はほぼ間違いなくこのセオリーを踏襲されるだろうと、自分の愛した物語が美しく完結することを確信し悦に入っていた。
そして鬼滅は本筋に必要のない情報は本当に出してこない作品なので、登場人物のその後の生き方については、話の流れ上僅かに触れられる人が何人いるかな、なるべく多いと嬉しいな、くらいに思っていた。
その予想は見事に裏切られた。
登場人物たちのその後の人生について、本当に、一切、何一つ、描かれなかった。
204話読了後、戸惑いが大きかった。決して短くはない時間、心を添わせてきたキャラクターたちが来週には既に死んでいる、という事実。
想いを繋ぎ、未来を繋ぐことが作品主題の一つ(だと私は考えている)とはいえ、あまりに無情すぎるとさえ思った。
そして205話、最終回の最後まで読み、なんとなく爽やかな気持ちにはなりつつも、愛するキャラクター達の揺るがぬ死に涙を流して半日後。実はこの終わり方こそが私にとって超弩級のウルトラハッピーエンドだった事を、本当に唐突に理解した。
「竈門炭治郎の鬼退治の物語」としてあの世界を覗いてきた私達には、彼らのその後を知る理由は端からなかったのだった。
彼らは鬼殺隊としての人生を終えた。その後の各々が個人として生きていく物語に、私達は関わる事ができない。
本懐を遂げ鬼殺から解放された彼らは、鬼滅の刃という観測可能な物語の外の、無限の自由を手にしたのだ。
そしてそれは、私がずっと彼らに望んできたことなのだった。
吾峠先生は、彼らを物語から放り出すことで、私が気づいていなかった私の本当の望みを叶えてくれていたのだ。
それでも、私たちの観測し得ないところに、彼らの自由で幸福な時間が確かにそこに存在していたのだと、繋いだ先の未来のあの一枚の写真が証明してくれた。
こんなに幸福な終わり方があるだろうか。
喜びと先生への感謝で小一時間泣き伏した。
鬼滅の刃という漫画を読んで強烈に感じてきた個性の一つに、物語に組み込む情報の徹底した取捨選択、というものがある。
先生は練られた設定やストーリーを漫画の中に組み込む際、尋常でない絞り込みを行われているだろうと思う。
物語や人物描写の濃密さ、単行本掲載の裏話の多さがそれを物語っている。
多くの人は、設定を考えればそれを作中に盛り込みたくなるだろう(それも読者に判り易い形で)。登場人物に愛着が湧けば、彼らについてもっと様々な要素や表情を描きたい、読者に知ってもらいたいという欲も出てくるだろう。
しかし鬼滅の刃においては、竈門炭治郎の鬼退治の物語に必要な情報だけが、本当に淡々と紡がれていった(全ての作品でそれがなされるべきだ、とは思っていません)。
私はそんな先生の、物語への誠実さ、滅私とも思える様な献身性を好ましく思いつつ、尊敬しつつ、半ば恐怖を感じつつ読み進めてきた。
最終回までの流れは、先生の誠実さが最後まで貫かれた結果なのだろうと思う。
勿論、万人にとってこれがベストエンドなのだと強要するつもりはない。
だが私にとっては、私がこれまで愛してきた鬼滅の刃らしい、実にらしい終わりだった。
この漫画が読めて、本当に幸福でした。
吾峠先生、長きにわたるお務め、本当にお疲れ様でした。ありがとうございました。
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