料理を神事として
遥々とめぐる命よ大御食よわが命さへわがものならず
──壱羽烏有
随分ご無沙汰しました。
最近は、お料理という行為を受け付けなかったわたしが何やら目覚めまして。
土鍋ごはんの塩おむすび。
お出汁からとったお汁物。
これらを朝から小一時間かけて作っています。
でも、お料理を覚えようと思い立ったわけではなくて。
神さまとの生活のなかで、ふとやってきた
「神さまにお捧げする米・塩・水。これらを使った、土鍋ごはんの塩おむすび」
これをつくる。
神事としての料理をする。
そんなことをはじめたのです。
動機のせいか、レパートリーについては考えていません。
*
お米とお塩とお水を揃えて、二礼二拍手一礼。祓詞。
お米が水に出会う。
その一瞬こそが、天地人の恵みを託される瞬間。
世界がゆるやかに溶けあっていく。
わたしの愛する、静謐に光射すようなひと時が、ここにもあったと気づく……。
そうして、命の循環にあずかる。
自らの生を全体にあずけたような感覚。
不思議な浮力が働きはじめ……。
きっとわたしにとって、我がものとして自力で支えるには、生は大きすぎた。
そんなことを心地よく思ったりしています。
*
わたしは子どものころから、なにもできない、というセルフイメージをもっていました。
特に料理はその筆頭で。
料理ができないわたしは、なにもできない。
なにもできないわたしは、誰にも選んでもらえない。
謎思い込みです。
でもこれが、現実をその通りに作ってしまっていました。
神さま経由で、ようやくそのブロックが緩やかになってきたかも……?
***
まあ、こんな調子ですので、恋人と過ごすときの食事の主導権は彼が握っています。
冷蔵庫の中も把握してくれています。
今夜は、冷凍庫にカット野菜を見つけました。先日来たときに買ってくれたものです。
これ……ちゃんととったお出汁で煮込んだらどうなっちゃうのかしら!?
と、チャレンジ。
おかずが加わりました。
なんと五臓六腑にしみわたる美味しさ。
こんなものを作れるようになったのか、と我ながら驚くばかり。
「あめつちのめぐみ、ごちそうさまでした」
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